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第16話
「くさくさしてるなら、バスケでもするか?」
そう言って、仙太郎が誘ってくれたのは、きっと気遣いからだ。
話しかけられても上の空だったことを、仙太郎は心配していたと思う。
親友は高校のとき、ぼろぼろだった千春を知っているから。
それなのに千春は、曖昧な返事しかできなかった。
午後の講義が終わったら、体育館に来いよって、言ってくれたのに、どうしても気が乗らなくて中庭のベンチでボーッとしていた。
開いたままの本も、さっきからずっと同じページ。
呼吸なのか、ため息なのか。
そんなわからない息を、さっきから何度も吐いている。
気持ちがすっきりしない。
惠護の顔を見ていない、それだけで……何もする気が起きない。
今日、惠護に会えたら、いつもの通り笑顔であいさつ! そう、心に決めてきたのに、食堂で会えなかった。
講義がすべて終わった今になっても、声のカケラさえも聞こえない。
昨日の惠護の様子が気になって、講義の内容なんて全く頭に入らなかった。
窓の外ばかり見ていたから、六人部にマイクで名前を呼ばれ、注目を浴びる羽目になってしまったほどに。
「はー、もう……。こんなの俺らしくないっ」
思わず口にした大きな独り言に、枝から鳥が羽ばたいていった。
初冬の空へと飛び立つ姿を目で追いながら、反省する。
今日はバイトも休み。
そして今、猛烈に〝クサクサ〟している〟
「よしっ、仙太郎のどこに行こっ」
鼓舞するような口調で言って立ち上がった。
スマホで時間を確認すると、十五時を少し回ったところ。
確か、十四時から二時間、体育館の使用許可取ったって言ってたな。
ベンチから立ち上がり、中庭を抜けて体育館を目指す。
「体育館って、いっちゃん奥だもんな。遠いー」
独り言をつぶやきながら歩いていると、視界の端に「B」の文字が目に入る。
学部ごとに使う棟は違い、千春がB棟を使うことはない。
普段こっちまで来ないから、なんか新鮮だな……。
キャンパスの端までたどり着くと、B棟の横手に体育館が見えた。
バッシュがコートを蹴る、キュッキュという音も聞こえる。
やってる、やってる。仙太郎の他には誰が来るって言ってたっけ。
気を遣って誘ってくれたのに、上の空で聞いていたせいで、他の参加者は不明なまま。
「ま、いっか。きっと仙太郎と同じ学部の人だろ」
体育館に向かいかけた千春の脳裏に、惠護が怪我をしたことがよぎる。
確か、B棟の外階段って言ってたよな……。
千春は踵を返し、B棟の外階段を探し始めた。
棟の正面入り口を通り過ぎ、建物の裏手に回るように壁に沿って歩いていくと、階段が現れた。十段ほどで踊り場が設けられ、それが最上階まで繰り返されている造りだ。
千春はゆっくり階段を上り、二階と三階の間で足を止めた。
階上から下を見下ろし、再び、踊り場へと戻る。
この高さで、まだよかった……。
もしこれが本館の大階段だったらと、想像するだけで寒気が走る。
ここから惠護が突き落とされたと改めて思うと、相手への怒りが再燃する。
自分の非を棚に上げ、注意した相手に復讐するなんて。
もし自分がそばにいたら、たとえ倍に返されたとしても、絶対に殴っていた。
凶暴な想像をする自分に戸惑いはあっても、千春に後ろめたさはない。
手すりに手をかけて一階へ戻ろうとしたとき、風に乗ってふわりとタバコの匂いが鼻を掠めた。
これ、葵留先輩の匂いだ。もしかして──
惠護からときどき香るのは、間違いなくこのタバコの匂い。
でも、千春は惠護が実際に吸っているところを見たことがない。
手すりに身を乗り出して一階を見下ろすと、体育館の右奥に喫煙所を見つけた。
もしかして、あそこで惠護先輩が吸ってるのかも……。
階段を降りようとした、そのとき──
喫煙所から惠護が現れた。
「けい──」
名前を呼ぼうとしたとき、惠護の足がぴたりと止まった。
気付いた? いや、でも、こっち見てなかったし……。
惠護は喫煙所を離れ、体育館の壁沿いをゆっくり歩いている。
どこへ行くんだろ……。
手すりへとさらに身を乗り出し、惠護の視線の先を追うように体育館横を見下ろす。
体育館の壁をなぞり歩いていた惠護が、壁の角で立ち止まると、まるで探偵が尾行するスタイルで角の向こう側を気にしている。
惠護の視線をたどるよう、千春も二階から体育館の方へ目を向けた。
その先からは、数人の下品な笑い声が聞こえてきた──
「俺さー、あいつにまだムカついてんだけど」
苛立ったような声は聞いたことない男の声だ。
チラッと惠護を見ると、壁に触れていた惠護の手がこぶしに変わっている。
顔を見ると、瞬きを忘れたように見開いていた。
「ああ、あの、顔だけでモテてる男か。でもさ、お前アイツを突き飛ばして復讐したんだろ? まだ満足してないのか」
あいつを突き落とした? え、それって、惠護先輩のことじゃ……。
耳にした瞬間、千春の体がこわばった。
まるで、背筋を氷の刃でなぞられたような感覚だ。
顔も見えない男たちの会話に嫌な予感がし、指先がじんわりと冷たくなっていく。
「でもあいつ、マジでいい男だよな。ま、俺の好みじゃないけどね。俺はどっちかってーと、下にいた子の方がタイプだなぁ。なんか、儚げで可愛かった」
「下にいた子って、あの、ペットボトルが当たりそうになった子か?」
「そうそう。あの子、確か一年だよな。上条と一緒にいるのを何回か見たことある。なぁ、もしさ、俺があの子を奪ったらそれこそ気分よくない?」
え、ペットボトルの子って、俺の、こと?
タイプってなんだよ、と文句を言いそうになったけれど、そんな軽いもんじゃないことが次に男たちが放った言葉でわかった。
「お前なぁ、自分がバイだからって堂々とそんなこと言うんじゃねぇ」
「いいだろ。お前らに迷惑はかけてないし。それにバイってお得だぞ、選ぶ相手がお前らより倍だ」
「ぷはっ、それってダジャレか。でも俺もあの子ならいけそうだわ。顔は可愛いし、体は華奢だし。口でするなら女も男も、同じだろう」
「それなー。それに男のケツっていいぜ。ヤリまくってる女より締まりはいいし、一回ヤれば病みつきになるぞ」
下卑た笑い声が交じるその言葉を、千春は最後まで聞くに耐えらえず、耳を塞いで体を震わせた。
「あ、いいこと思いついた。お前、あの可愛い子ヤっちゃえよ」
男が名案だとばかりに大声で言った言葉は、耳を閉ざしていても聞こえてきた。
悍ましい内容に、全身の血が沸騰するような憤怒が身体中に巡ってくる。
「お前、それレイプだろ。さすがにヤバいって」
「バレなきゃ平気だ。あの一年が一人のときに狙えばいい。お前もあの可愛い顔を快楽であんあんよがらせたいだろ」
口でならいいかと言っていた男の声だ。
喘ぎ声の部分だけ鼻にかけてわざと言っている。
姿が見えなくてもそこに三人の男がいて、冗談にも聞こえない卑劣な会話をしていることに千春のこぶしが震えた。
「お前が恨む気持ち、わかるな。あんとき、お前の狙ってる女が見てたもんな。お前の方を見て同情したように笑ってたし。まあ、俺はあの子とヤレるならその話に乗るぜ。あー、想像したら勃ってきそう」
「上条のやつに恥かかされた上に、告るチャンスまで奪われたんだ。あいつに仕返しする代わりに、一年をヤッたってバチは当たらないって」
胸がぎゅっと締めつけられ、喉の奥がかすかに震えた。
すると、震えを感じたと同時に、階段下の視界に動く影が入る。
──惠護先輩っ、何をする気?
惠護が笑い声の聞こえる方向へ、ゆっくりと歩みを進めている。
その後ろ姿から、いつものような余裕のあるものではないのが伝わってきた。
どこか危ういのに、全身から怒りが滲み出ているのが見て取れる。
「っなんだお前っ!」
「なあ、お前ら、今なんて言った?」
惠護の声が割って入る。低く、怒りを押し殺した声だ。
空気が一瞬で凍りついたのがわかる。
千春は目を見開いたまま、身体が固まって動けなかった。
壁の向こうで、何かが乱暴にぶつかる音が響く。
鈍い打撃音。男の呻き声や、反撃の声。
それだけで何が起こっているのかわかり、足先から震えが駆け上がってくる。
「ってめぇ、何しやがんだっ!」
「何って? やられる前にやっただけ。正当防衛ってやつさ」
聞いたことのない、惠護の怖い声だ。けれど、なぜか千春の胸の奥は熱くなっていた。
自分のために惠護がこぶしを上げている。それを嬉しいと思う反面、傷だらけの葵留の顔がよぎってその顔が惠護と重なった。
拳がぶつかる音が何度も続き、全身の震えが止まらない。
惠護が酷い目に遭っているかもしれない。
惠護が相手を攻撃していたら、やめさせなければいけない。
惠護を止めなければ、惠護を助けなければっ。
手摺りを掴んでいた手にグッと力を込めると、千春は震える足をもたつかせながら、一階まで駆け下りた。
その間も、壁の向こう側からは怒りと悔しさと、守ろうとする必死さが痛いほど伝わってくる。
「ちはに……指一本でも触れてみろ。ぶっ殺す」
体育館に着いた瞬間、千春の耳に飛び込んできた惠護の声を聞いて足が竦む。
怖い。でも、嬉しい。怖いのに、涙が滲むのはなぜだ。
でも、止めなければ。今、止めないと、葵留先輩のように──
「惠護先輩っ!」
勇気を出して、千春は乱闘の場に踏み込んだ。
叫んだ声が冷たい空気を裂き、惠護の背中がぴたりと止まる。
「おー、飛んで火に入る夏の虫って、このことかっ」
薄っすらと記憶している男が、狡猾な笑みを浮かべて千春を見てきた。
「ちはっ! こっち来んなっ、逃げろっ」
肩越しに惠護が千春を見た瞬間、二人の男に背後を取られ、惠護の体が固定される。
「け、惠護先輩っ! お前ら、三人で卑怯だぞっ! 惠護先輩を離せっ」
「『卑怯だぞ』だって。かわーいい。おい、早くコイツぶっ飛ばしてあの子を拉致ろうぜ」
惠護を羽交締めにしている男が言うと、反対側で惠護の腕を掴んでいる男が、だな、と笑っている。
「くそっ! 離せ! お前ら、ちはに触ってみろ、殺してや──ぐぅふぅ、くっそ……痛ってーな」
自由を奪われたままの惠護が叫んだ途端、ペットボトルを落下させた男が、足を後ろに逸らしたかと思うと、加速させたまま目一杯後ろに振り上げた。勢いのついた足をそのまま振り下ろし、惠護の腹部に深々と足が埋め込まれていく。
|鳩尾《みぞおち》へとまともに喰らった惠護が、目の前でほくそ笑む男の額に思いっきり頭突きする。それを見ていた二人が惠護の両肩を抑え込み、地面にねじ伏せた。
「惠護先輩っ! くそ、お前ら、惠護先輩を離せっ」
震える体を振り払い、千春は惠護の背中に馬乗りになっている男に飛びかかった。
「お、自分から飛び込んできたぜ。かわいーなっ。なあ、俺、一抜けしていい? この子といいことしてくるわ」
「お、まえ……ちは、に、触るんじゃ、ねぇ」
顔をコンクリートに押し付けられたまま、惠護が上からの力に抗うよう、上半身を起こして男を睨みつけている。
「せんぱ、い……。くそ、お前ら、先輩から離れろっ!」
「よ、せ……。早く、こ、こを離れ、ろ」
惠護が胸ぐらを掴まれ、無理やり体を起こされると、ペットボトルの男が惠護の頬目がけて殴った。右、左と何度も殴られ、一発がこめかみにヒットすると、ふらついた体に新たな蹴りが飛んでこようとした──そのとき、
数人の足音ともに、「千春っ!」と、仙太郎の声が聞こえて来た。
「せ、仙太郎、は、早く誰か、先生、呼んで、呼んでぇー」
悲痛なまでの声で千春が叫ぶと、他の生徒が、「先生呼んでくるっ」と言って、そのまま走って行った。
「おい、ヤバい。逃げるぞっ」
「おい、あんた! 上条さんや千春に逆恨みすんのやめろっ! また同じことしてみろ、警察を呼ぶからなっ。未成年じゃないんだ、身元バレしたら、お前の人生、終んぞっ!」
仙太郎の啖呵が聞いたのか、三人の男は無言で走り去って行く。
「先輩、惠護先輩、しっかりっ!」
最後のこぶしが効いたのか、惠護がぐったりしている。
千春は惠護の体を抱えると、泣きながら何度も名前を呼び続けた。
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