15 / 23
第15話
蓋を開けた弁当と右手には箸。
そのままの格好ででかれこれ十分、千春は中庭を眺めていた。
二日前に保健室で見た惠護が、いつもと違っていた。
一旦そう思うと気になって仕方がない。
どこが? と聞かれても、何となく……だ。
強いて言うなら、距離を感じた。
いや、距離……というより、遠慮?
違う、そうじゃない。
うまく言えないけど、ただ、どこか違っていた。
それだけは確かだった。
怪我をした惠護を見て、すぐ浮かんだのは葵留のこと。
葵留の傷が絶えない理由を知って、顔も知らない人間に憎悪を抱いてしまったことも。
大切な人を傷付けることは、相手が誰でも許さない。
でもそれ以上に、自分が憎い。
もっと葵留に寄り添い、もっと関わろうとしていれば、大切な人を失わなかったかも知れないのに。
惠護の怪我も、ただの捻挫だとわかっても、それが事実かどうかを考えてしまった。
いつまでも過去に囚われている。
だから、ちょっとしたことでも葵留に結びつけて変な態度になってしまうのだ。
「千春っ、ここだったのか」
中庭に視線を置いたままでいたら、仙太郎に声をかけられて我に返った。
「あ、ごめん、仙太郎。俺、ここにいるって連絡するの忘れてたっ」
講義が終わったら昼飯食おうぜと、朝イチに言われてた。
それなのにうっかり、居場所を伝えるのを忘れてしまった。
「いいって、いいって。きっと食堂か、中庭のベンチだってわかってるから。な、それより聞いたか、上条さんのこと」
「惠護先輩のこと?」
リュックからポテチを出しながら、仙太郎が声をひそめ、
「お前のペットボトル事件のことだよ」と言ってきた。
「ペットボトルって、あれはあのとき終わったことで──」
仙太郎が人差し指を立てて、チッチッチと左右に振る。まるで下前みたいだ、と笑ってみせけれど、惠護に何かあったのではと、気が気ではなかった。
「上条さん、手首を怪我してただろ? あれって、あのペットボトルを落とした奴が怪我させたらしいぞ。工学部で噂になってる」
「えっ! ほ、本当に!」
仙太郎も怒っているのか、ポテチの袋を力任せに開けると、鷲掴みにして口いっぱい頬張っている。
バリバリと噛み砕いている様子は、憎い相手を懲らしめているように見えた。
「ふぉんろ、ふぉんろ。ぅ、ゴホッ、ゴホッ、ちょ、欠片が、喉に……」
「何してんだよ。ほら、水飲んで」
怒りながら食べたせいか、喉を詰まらせている。
千春は持っていた水を口元に運ぶと、それに縋るよう手に取り、勢いよく喉に流し込んでいる。
ようやく楽になったのか、仙太郎が肩で深呼吸を繰り返した。
「わりぃ。あー苦しかった。あ、ごめん。千春の水飲んじゃったな」
「いいよ、あげる。俺、二本持ってきてたから。な、それよりさっきの続き。どうやって怪我させられたんだよ」
「それなんだけどさ、酷いんだぜ。階段の上から背中を突き飛ばされたらしいぞ」
「突き飛ばされたっ! そ、それってどこでっ」
「ほら、あの、体育館横の、B棟へ行く外階段だよ。あそこ、あんまり使う人いないだろ? 惠護先輩、体育館の近くにある喫煙所に行った帰りに、B棟へ行くときにやられたらしい」
段数の少ない階段でよかったけどさ、と仙太郎が喉を鳴らして水を飲んでいる。
「背中を突き飛ばされ……た。それ、俺のせいだ……。俺のために先輩が怒鳴ってくれたから、あの人を怒らせて怪我した、んだ」
胸に巣食っていた不安は的中していた。
大切な人が傷付くことは辛くて憎むべきことなのに、自分が原因で怪我をさせてしまったなんて。
そんなの、俺……自分を許せない。
「違うぞ、千春」
考えていることがわかったのか、スパッと仙太郎に言われた。
「千春のせいじゃない、あの男が悪いんだ。上条さんは当たり前のことを言っただけで、それを逆恨みした向こうが悪いんだ」
「けど、実際、俺のために言ってくれたことがきっかけで、先輩はしなくてもいい怪我をしたんだ。俺の、俺のせい──」
「お前が何を考えてるのか、半分くらい俺はわかる。けど、昔のことも、上条さんのこともお前は悪くない。悪くないんだ、わかってっか?」
両肩を仙太郎に掴まれ、叱るような口調で言われた。
「で、でも……」
「それに上条さんの怪我は手首の捻挫だろ? あの人、運動神経いいから、きっと反射的にうまくかわして、最小限の怪我で済むように受け身? とかやったんだ。な、千春。上条さんは元気で大学に来てるだろ?」
仙太郎の言葉が動揺する心に刺さった。
泣きそうな気持ちになっていると、ペチンと頬を軽く叩かれた。
「せ……んたろ。俺……」
「注意されて、意趣返しなんて子どもじみたこと、大学生にもなってするなって、お前も怒鳴るくらいの気持ちを持てよ」
「でも、もしそれ以上の怪我をしてたら、俺、お、れ──」
「あ! 千春と豊浦発見。お前らもう昼飯食った……って、なあ、どうしたんだよ、二人とも暗い顔して」
後ろから惠護の声が聞こえた。
千春は慌てて目を拭った。
振り返ると、いつもの優しい笑顔がそこにあった。
いつもの温かい微笑みに、泣きそうになる。
千春は耐えるように唇を噛んだ。
「上条さん。お疲れっす。いや、千春が腹が痛いって言うんで、こいつのお手製弁当を俺がいただこうかって言ってたんですよ」
仙太郎の下手くそ。
そんなバレバレな嘘を言っても、惠護先輩は気付く──
「え、千春の弁当っ。いーな、俺も食べたい」
脳内のつぶやきを、甘えるような声で遮られた。
惠護が隣の椅子に座ると、自然と髪を撫でられていた。
上目遣いに惠護を見ると、今度は乱した髪を撫でるように整えてくれている。
その手首にはまだ包帯が巻かれていた。
「……惠護先輩、手首まだ痛むんですか」
包帯を見つめながら言うと、「え、平気だけど」と、爽やかな笑顔が返ってきた。
「でも、まだ包帯、取れてないから」
「もう殆ど治ってる。でも……」
「でも……?」
「せっかく千春が巻いてくれたから、外すのもったいなくてさ」
袖口から包帯を見せながら、ウインクしてくる。
その姿に、恥ずかしいやら呆れるやらで、開いた口が塞がらない。
「ひ、人が心配してるのに、ふざけないでくださいっ」
「うわ、千春に怒られちゃったよ、豊浦〜」
冗談で済まそうとしてくるから、ぷいっと顔を背けてやった。
こっちが心配してるっていうのに、本人はあっけらかんとしている。
一歩間違えれば、大怪我だってしてたかもしれないのに。
「怒んなよ、千春はかわいいな……」
「か、可愛いって。もう、人の気もじゃないでっ」
つい、偉そうな態度になってしまったのは、囁くように言われた声が、葵留と重なったからだ。
少し甘くて、優しい声で〝ちは、可愛いな〟と、何度も言ってくれた。
いくら恋しいからといって、似ているなんて、惠護にも失礼だ。
もういない人と声が似てるなんて聞くと、あまり気持ちのいいものではない。
それに世の中には、似た声の人や顔の人はいっぱい、いる──と、思う。
「それより上条さん、風呂とかどうしてたんです? 包帯一回も外してなかったんでしょ」
不衛生じゃないですか、と言い添える仙太郎に、鼻の穴を膨らした惠護が、「ラップ巻いてる」と得意げな顔。
「あ、上からビニール袋もしてるぞ」
それも胸を張って言っている。
「そんな自慢げに言われても、そっちのが面倒くさいでしょ。外して巻き直すほうが楽ですって」
「そうですよ、惠護先輩。あ、何なら今から保健室行って湿布も貼り替えましょうか」
千春が席を立つと、「バイトは?」と聞かれた。
「少しなら平気です。それに……」
その怪我は俺のせいでしょ……。
「それに?」
「何でもないです。じゃ、行きますよ」
続きの言葉を飲み込むと、千春は手付かずの弁当を仙太郎に託し、またな、と言って食堂をあとにした。
保健室までの廊下を、惠護と肩を並べて歩く。
ただそれだけなのに、葵留と裏庭を歩いたことを思い出してしまった。
葵留と似た声で、優しく名前を呼ばれる。
そのたびに、心の底に沈めたはずの記憶が泡のようにふわっと浮かび上がってくる。
頭を撫でたり、髪をくしゃっとしてくる癖もそう。
それに──
あのとき『ちは』と呼んだのは咄嗟のことで、最後まで普段通りに呼べる状況じゃなかったからかもしれない。
けれど、あの一言で、千春の心は一気に過去へと引き戻されてしまった。
よく見ると、顔も何となく似ている気がする──。
でも、別人にも見える……。
あー、もう。考えるのやめっやめっ! 葵留先輩はもう、この世にはいないんだ。
それに亡くなった人と似ているなんて、思うだけでも相手に失礼だ。
よせては返す波のように考えていると、いつの間にか保健室に到着していた。
ドアを開けようと、引き戸に手をかけたら、向こうから力が込められて勢いよく扉が開いた。
入れ違いで外に出ようとした保健師とぶつかりそうになる。
「ご、ごめんねっ。怪我?」
慌てた様子の保健師に聞かれ、「湿布の張り替えで」と答えた。
「そう。悪いけど、急ぎの用があって」
「あ、平気です。自分たちでやるんで」
行ってらっしゃい、と千春が言うと、悪いわね、と保健師は足早に出て行った。
「惠護先輩は座っててください。えっと、包帯、包帯……あと、湿布」
惠護をベッドに座らせると、引き出しから必要なものを取り出す。
ハサミだけが見当たらず、他の棚を探していると、背中に視線を感じた。
振り返ると、大人しく座っている惠護が、ジッとこっちを見ている。
「な、何ですか。ジッと見てきて」
「いやぁ、千春って母ちゃんみたいだな」
「かっ──、母ちゃんって、何ですかそれ」
「いや、普段はぽやってしてんのに、飯作るときとか、今みたいなときとかも仕切るなぁって。それに動きに無駄がない」
「そ、そんなの言われても、嬉しくないです」
千春は逃げるように席を立つと、必要なものをベッドに並べた。
パイプ椅子をずるずる引っ張り出し、惠護の向かいに腰掛ける。
母ちゃんって──。
そんなとこまで、同じだなんて……。
感情を、頭の中だけで完結させようとしたのに、どうしても顔に出てしまう。
「褒め言葉なんだよ、千春」
〝拗ねても怒ってもいいよ〟
そんな枕詞を添えたような笑顔を見て、千春は彼を生粋の人たらしだと思った。
そして自分は、それにまんまと|誑《たら》されているのだと自覚した。
淡い気持ちを隠すよう、強引に惠護の手首を引き寄せると、新しい湿布を手首にそっと乗せた。
「ひゃ、冷たっ」
奇声を上げてもすぐに、あー、気持ちいいなぁと、陶酔している。
秀麗な相好に魅入っていると、惠護の額に古い傷痕を見つけた。
あれ。先輩、こんなとこに傷痕がある……。
惠護の前髪が舞い込んできた風に揺れ、額が露わになると、右の額の、生え際の辺りに縫ったような傷痕を見つけた。
この傷、葵留先輩にも同じような──いやいや、俺は何を考えてるんだ。
偶然だ、そうただの偶然。男なら傷の一つや二つくらいある……はず、だ。
傷痕に気を取られていると、ジッと見つめてくる視線に、千春の瞳は逃げ場を失った。
「え、えっと、その……」
「なあ、肩の火傷のとき、六人部に……いや、何でもない」
ふいの質問に千春が瞠目していると、包帯を持っていた手に惠護の左手が重なった。
伝わる温もりに視線を落としていると、惠護の唇から微かな音の続きが聞こえた。
言葉の欠片を確かめようと顔を上げると、|凋落《ちょうらく》したような目と合う。
「……先輩。今、何て言いました? 六人部先生がどうかしたんですか」
重ねられた手の下から自分の手を抜くと、指先で甲を突いて催促してみる。
「いや、何でもない。もし、予定がなかったら千春にハンバーグ作ってもらおうかなって思っただけだ」
いつもの柔和な微笑み。
さっきまでの空気を払拭するよう、手首を上下に動かしている。
「さんきゅな」
そうと言って、惠護が腰を上げた。
「今日、バイトなんです。すいません。あの、明日はダメですか? 定休日なんです」
「いや、悪い。さっきバイトだって、言ってたもんな。
目の前に立つ背中が伸びをしながら、「明日は俺がバイトだなぁ」と、背を向けたままで言われた。
顔の見えないと不安だ。
千春は、無意識に惠護のパーカーを摘んでいた。
「じゃ、じゃあ。来週は? 来週末の三連休で店がリフォームするんで休みなんです。もしよかったら──」
言い終わる前に、惠護が体を反転させた。
千春の頭の上に手を置き、やわらかく撫でてくる。
「じゃ、来週にしよう。楽しみにしてるよ」
微笑みながら言った惠護の顔には、なぜか隠しきれていない陰りが見えた。
それを見てしまうと、胸の奥がきゅうっと痛くなる。
本当は訊きたい。
何かあったんですかって。
どうしてそんな顔するんですかって。
でも、口を開いたら取り返しのつかないことを言うかもしれない。
葵留先輩に言ったみたいに……。
千春は黙って、惠護の背中を目で追う。
廊下を歩きながらの会話は、途切れ途切れだった。
天気のことや気温、どうでもいい言葉で余白を埋めた。
そうやって、沈黙をごまかすしかなかった。
正門が見えたところで、惠護がふと思い出したように言う。
「ごめん、ちょっと寄りたいとこあって」
またな、と言って、駅とは逆方向へ歩いていく。
遠ざかる背中から目を離すこともできず、千春はその場に立ち尽くしていた。
追いかけたい気持ちと、追いかけちゃいけないという理性が、胸の中でぶつかり合っている。
目の奥が熱くなり、視界が滲んできた。
涙をこぼれそうになる。
だから、空を見上げた。
頭の中で約束した連休を想像してみる。
先輩の好物をたくさん作ろう。
観たいって言ってた映画、まだ配信中だといいな。
また、あの優しい声で笑ってくれるなら何でもする。
惠護の真意を無理やり問いただすことは、絶対にしたくない。
いつもの笑顔が見られるなら、余計な言葉は言わない。
ただ美味しいものを作って、一緒に食べて、たくさん会話して笑おう。
感情のままぶつけた言葉が、どれほど人を傷つけるか。
千春は、いやというほど知っている。
だからこそ、今はただ待とうと思った。
惠護が去った方角を見つめながら、千春は震える声で小さく呟いた。
「惠護先輩、和風ハンバーグ、好きかな……」
ともだちにシェアしよう!

