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第14話

 保健室の扉を開けると、保健師は不在だった。  代わりにいた人を見た途端、千春はシャツをはためかせながら駆け寄っていた。 「惠護先輩! どうしたんですかっ。け、怪我したのっ」  ベッドに腰掛けている惠護へ焦った声をかけると、湿布薬の残骸が目に入った。 「千春こそどうしたんだ、デカいシャツなんか着て。それ、お前のじゃないだろ」  華奢な体に不釣り合いなサイズを指差された千春は、保健室に来た経緯を惠護に説明した。 「それでこのシャツは先生にお借りしたんです。ね、先生。でも、そんなことより、先輩はその手首どうしたんですか。骨とか折ってないですよね」  長い袖から指を忍ばせ、惠護の手首に触れると、いきなり腕を摘まれた千春の体は、惠護の方へ引き寄せられた。  襟元を引っ張られ、素肌の肩が曝け出されると、珈琲を被った箇所を労わるように惠護が撫でている。 「……さっき、階段でつまずいたときに手をついて捻ったんだ。それより千春は病院で診てもらう方がいいんじゃないのか」 「平気です。先輩の方こそちゃんと冷やさないと。湿布は俺が巻きますから」  惠護の手から新しい湿布を奪うと、今度は千春が惠護の腕を掴んで引き寄せる。 「自分で出来るのに。お前こそ肩冷やせよ」 「そうだよ、鵜木君。人のこともいいけど、早く冷やした方がいい。冷蔵庫に保冷剤か氷が入っているだろう」  二人のやり取りを聞いていた六人部が、冷蔵庫の前で呆れ顔を向けてきた。 「先生。千春の方は俺がやっときますよ」  冷蔵庫のドアに手をかけた六人部に、惠護が声をかける。 「じゃ、上条に任せるか」 「先生っ、ほんと、今日はすいませんでした。シャツも、ありがとうございます。ちゃんと洗ってお返ししますね」  部屋を出ようとする三揃いのベストに声をかけると、「いつでもいいよ」と肩越しに微笑んでくれた。  保健室の扉が閉まるのを見届けると、惠護の手を掴んだままだったのに気付き、千春は慌てて手を離した。 「すいません。俺、キツく握ってなかったですか?」  怪我した手の具合を気にしながら、千春は湿布を一枚取り出した。 「いいや、全然。千春の力くらいじゃ何ともならないよ」 「惠護先輩、俺のこと甘く見てますよね。こう見えても力があるんですよ」  腕に力を込めて筋肉をアピールしてみたけれど、「はいはい」と軽くあしらわれてしまった。   「本気を出した俺の底力を知って、腰を抜かしても知りませんからね。ほら、手を出してください。湿布、冷たいですよ」  手首に貼ると、「ひゃ」と、惠護が変な声を出すから笑ってしまった。  包帯を巻きながら肩を振るわせていると、額を指先で弾かれる。 「痛いなぁ、もう。ほら、出来ましたよ」  額を労わりながら惠護の腕を離すと、じゃ今度は千春の番、と言って頭をくしゃっと撫でられた。  これって、惠護先輩の癖なのかな……。  何かあれば髪を撫でてくれる。  だからだろうか。惠護の大きな手は、どうしても葵留を思い出させる。  物思いに耽っていると、強引に体を反転させられた。  抵抗する余地もなく、背中に触れながら、「どれどれ」と、ふざけた口調で惠護がシャツを脱がそうとしてくる。 「ちょ、ちょっと惠護先輩。何してんですか」 「こっ来て。火傷の具合見ておきたいから」  平然とした顔で言う惠護の手を取り除き、「自分で脱ぎますっ」と背中を向けてシャツのボタンを外した。  スルリと、生地を肌に滑らせると、惠護に無防備な背中を晒して見せる。 「どうですか。やっぱり赤くなってます?」  背中越しに尋ねてみたが、惠護からの返事がない。 「ねえ、先輩。どうですか? 赤い?」  惠護の表情が見えず、千春は振り返ろうとした。だが、不意に肩に触れられ、ピクンと身構えてしまう。  触れられた部分がジワッと熱くなる。  熱が帯びてくるのを自覚し、体の内側に小さな波がたった。  何か喋ってくれないと、変な汗がでてくる。 「せ、んぱい、あの……」  問いかけても惠護は何も言わない。  ただ、千春の肩を確かめるように撫でている。  無音に耐えられなくなり、千春がクルッと向きを変えると、思い詰めたような惠護の顔が目の前にあった。  もしかして、火傷の症状が思っていた以上に酷い?  確かめようとしても、自分の背中は見ることができない。 「や、やっぱ医者に行った方がいいですか? えっと、火傷って何科だっけ。あ、そっか皮膚科か。そうだ、先輩の手首も一緒に診てもらったらいいのか。骨折でもしてたら大変だし。あ、でも捻挫は何科──いってっ」  額にペチンと刺激を浴びせられた。  一瞬、キョトンとした千春は、すぐ睨みつけることで惠護に反撃した。 「焦るなって。ちょっと赤くなってるけど、大したことないよ。少し冷やしとけば赤みも引いてくる。ただなぁ──」 「ただ……? ただって何ですか」  俯いて言い淀む姿が不安になり、表情を覗こうとして千春が顔を傾けた。  でもその数秒後、自分は本当に馬鹿だと思い知らさせるのだった。  惠護が必死で笑いを噛み殺している。 「……先輩、なに笑ってるんですか」 「いや、千春が必死なのが可愛くて、面白過ぎるわ」  肩を震わせて笑う態度がはらだたしい。  千春はそっぽ向くと、散乱したゴミを無言で片付け始めた。 「千春、怒った? 怒ったのか?」  今度は惠護が千春の様子を気にする。  何度もごめんと顔を覗き込まれると、千春は黙って立ち上がり、ゴミ箱に丸めた湿布を勢いよく突っ込んだ。 「怒ってません。先輩こそ、痛みが酷かったら病院に行って下さいっ」  わざとぶっきらぼうに言うと、千春は冷蔵庫の中から保冷剤を取り出す。  腕を精一杯伸ばし、ぎこちない格好で痛めた箇所に触れようとする。  だが、中々思うようにはいかない。 「そんなんじゃ届かないだろ。こっち来いよ、冷やしてやるから」    千春は唇をへの字に曲げながら振り返り、保冷剤を無言で託した。  黙ったまま惠護に背中を向けてベッドに座ると、容赦なく冷却の洗礼を浴びた。  今度は千春が、「ひゃっ」と、変な雄叫びを上げてしまった。 「拗ねるなよ、千春。あー、やっぱ、直じゃ冷た過ぎるか」  独り言のように惠護が言うから、返事をしていいものか迷う。  後ろからゴソゴソと音がするのを聞いていると、火傷の箇所に心地いい冷感が触れた。  肌にあたった感触で、タオルに包んでくれたのだとわかる。 「……先輩。手首、本当はどうしたんですか」  背中を向けたまま、千春が聞いた。 「どうしたって、つまずいたって言ったろ」 「先輩はそんなドジじゃないです。俺、少ししか先輩のこと知らないけど、つまずいて手首を痛めるような運動音痴じゃないと思ってます」  言い終えても、惠護から言葉は返って来ない。  掛け時計の秒針だけが響く中、千春は背中を預けたまま惠護の反応を待っていた。 「──ほんと、転けただけだって」  ようやく返ってきた言葉は、さっきと似たような答えだった。  千春は、そうですか……としか言えなくなる。  その代わりに後ろ手に腕をグンっと伸ばし、惠護の手を探した。  指先で包帯の感触を見つけると、その上をそっとなぞってみる。 「……千春」  名前と一緒に吐息がうなじにかかった。  それは指先で触れられた以上に甘く、特別な感情が含まれているような気がした。

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