13 / 23
第13話
「悪いね、鵜木君。せっかく休講になったのに手伝わせて」
「いえ、全然平気です。今日はバイトないし、一度先生のコレクションを見たかったんです。だから俺はラッキーです」
このたび、准教授の六人部の部屋に、大きな本棚が三つ新調された。
以前は同僚の八尋と二人部屋だったけれど、この春、六人部に遅れること二年、八尋も准教授に昇格した。
それぞれ個室が与えられると、本の虫である六人部が真っ先にとった行動は、本棚の購入だった。
ウォールナットが素材の、深みのある上質な存在感は、六人部の穏やかな雰囲気にぴったりだ。
木の温もりを堪能するよう千春が手のひらでなぞっていると、ふと視線を感じて後ろを振り返った。
「いいでしょ、その本棚。セミオーダーなんだ、奮発してね」
自慢してしまったなと、照れくさそうに言う六人部が、休憩しようと言って珈琲を煎れてくれた。
千春は丸椅子に腰掛けると、両手でマグカップを包み、まろみある香りを鼻腔に取り込んだ。
「いい香りですね。俺、珈琲の香りって好きなんです。アロマみたいに落ち着きます」
そう言ってひとくち含むと、喉を通過することが惜しくてゆっくりと嚥下した。
「だからバイトもラポールなんだね」
「先生も学生のときによく通ってたんですよね、マスターが言ってました。座る席も決まってて、本を片手に珈琲を飲む渋い学生だったって」
「渋いって……。マスターよく覚えてるなぁ。通ってた学生は僕だけじゃないのに」
「それだけ印象深かったんですよ、先生は」
「それは褒め言葉として受け取っとくよ。それに本も殆ど棚に収まった。鵜木君のお陰だよ、ありがとう」
つい二時間ほど前まで床に積まれてあった本たちは、誇らしげに胡桃の木に包まれている。 外国の本も含まれているせいか、連なった背表紙の美しさは圧巻でため息が出る。
「ジャンルごとに分けたの、面白かったです。先生はやっぱり研究熱心で物知りですよね。あ、今度何か借りてもいいですか」
本を眺めながら言うと、「もちろんと」と、笑顔で六人部が答えてくれた。
「やった。じゃあ残りサクッと終わらせちゃいますね」
珈琲で充電された千春は、しゃがみ込んだまま本を抱えた。立ち上がろうとしたその瞬間、肘が丸椅子にぶつかった。
中腰のままバランスを崩し、座面に置いていた飲みかけの珈琲を思い切りかぶってしまい、『熱っ!』っと千春が叫んだ。
「どうし──だ、大丈夫かいっ」
「先生、すいません……。うわ、どうしよう。ご、ごめんなさい」
その場に蹲ったまま謝罪の言葉を繰り返し、本が濡れてないかを気にした。
「君、肩に珈琲がかかってるじゃないか! 本なんていいから、早く冷やさないと」
「平気です。それより大切な本が……」
「本より君の方がよっぽど大事だよ。火傷でもしてたら大変だ。早く保健室に行こう。まだ保健師さんがいるはずだ」
狼狽える六人部をよそに、千春の意識は希少価値のありそうな古書にあった。
年代物の本に、珈琲のシミなど付けられない。
紙が相手だと、シミ抜きシートでは太刀打ちできないのだから。
「よかった、先生。本には珈琲かかってないみたいです」
ホッとした千春は、本をそっと撫でた。
「君ね、労るなら自分の体を労りなさい。シャツも濡れてるし、火傷してないか確認しないと。ほら、脱いでみなさい」
作業に没頭して暑くなっていた千春は、初冬だというのに、ネルのシャツは脱いで腰に巻き、半袖のTシャツ一枚の姿だった。
素肌の上に綿の生地では、珈琲とその熱をもろ肌に浴びたも同然だった。
濡れて透けた肌を六人部が心配してくるのも無理はない。
「大丈夫です、熱かったのは一瞬だけだったし。ほら、何ともなってないでしょう」
ガバッと潔くシャツを脱ぐと、無防備な肌を晒した。
「ちょっと肩が赤くなっている。やっぱり冷やさないとダメだ。せっかくきれいな肌なのに、痕でも残ったら大変だ」
「き、きれいって。男なんだし、痕が残っても平気ですよ」
「男でも女でも関係ないよ」そう言いながら、六人部がハンガーにかけてあった白いシャツを肩にかけてくれた。
「新品じゃないけど、ちゃんと洗濯してるやつだから。とにかくこれを羽織って保健室に行こう」
「あ、でも自分のシャツがある──だめだ、こっちも濡れてる」
腰に巻いていたシャツを解いてみたけれど、珈琲の被害を浴びて袖を通せたもんじゃない。
「ほら、急ごう。火傷はスピードが命だ」
「スピードが命って、中華料理作ってるんじゃないんですから」
「中華料理か、それもまた火加減が大事だからね。さあ、早く行こう」
六人部の呼びかけに答えるよう、千春は前を歩く背中を追いかけた。
ともだちにシェアしよう!

