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第12話

 心理科学科の講師、六人部のマイク越しに聞こえる低音ボイスが寝不足の頭に心地いい……。  千春はあくびを我慢しながら、夕べ、久しぶりに見た夢を思い返していた。  旧校舎の夢だった。  窓際に立っていた後ろ姿の人は、たぶん……大好きな人。  名前を呼んだのに、声が聞こえてなかったのか、振り向いてくれなかった。  酷い言葉を言ったから、怒っているのかもしれない。  何度呼んでもその人は動かなくて、風でカーテンがはためいているだけだった。  悲しくて、苦しくて。  目が覚めたら、頬は濡れていた。    そっから眠れなかったもんな……。    千春は二度目のあくびを必死で噛み殺した。  それでも耐えきれず、安眠を誘う六人部の声に頭がグラつき、白旗を挙げそうになる。  教壇から咳払いが聞こえた。  顔を上げると六人部と目が合った。  どうやら居眠りしかけていたのがバレていたらしい。 「では最後に、月末まで期限のレポートの話をします」  六人部の放った言葉にかぶせ気味で、学生たちの戦々恐々した雄叫びが教室中に響く。 「はい、静かにしてください。そんなあからさまに嫌がられると、先生も凹みますね」  冗談めかしに六人部が言った言葉に、女生徒からは、「可愛い」「拗ねてるよね」「凹むって萌える」など、好意のこもった囁きが千春の耳にまで聞こえてきた。  四十路とは思えぬ若々しさの理由は、無駄のない引き締まった体躯と、目鼻立ちの整った端正な顔立ちだ。  そして、温かく包み込むようなまなざし。  それは女子だけでなく、千春を始め、ちょっとした憧れを抱く男子生徒をも虜にする魅力を持っている。  わかるなぁ。先生、素敵だもん。あんな兄さんがいたら自慢なのにな。  一人っ子の千春が幼いころに夢見ていたのは、かっこいい兄だとか、優しい姉という頼れる存在を持つことだった。  自分にとって、絶対的な味方がいる安心感に憧れていた。  小さいころ、「お兄ちゃんが欲しい」と母親にせがんだとき、「それは絶対無理だわ」と笑われたのを思い出す。  そりゃそうだ。  自分が生まれている以上、その年齢を上回る兄を望むなんて、無茶もいいところだ。  お前は可愛いこと言ってたよな、と実家に帰るたびに両親から繰り返されるこのネタは、いまだに健在だ。  親バカだなあと思いながらも、それは幼稚園の話だしと、一緒に笑っている。  千春が話を合わせれば、両親は懐かしむように笑いをこぼす。  気乗りはしなくても、そんな会話に付き合うのは、孫を望む彼らの願いに応えられないからかもしれない。  高校のとき、葵留に恋をして、自覚した。  自分の性的指向が、同性に向いていることを。  だったらせめて、別の形で親孝行をしたい。   そう思いながらも、将来を考えると、ため息の数は増えていく。  千春の憂いをかき消すように、教室にハウリング音が響いた。  ハッとして前を向き直すと、マイクを指先で軽く叩きながら、六人部が「あー、あー」と確認している。 「では、テーマを伝えますね。『社会に活かす心理学』を考えて作成してください」  レポートは最低三枚、と六人部が付け加えると、教室内にまた不満の声がこぼれた。 「先生、社会に活かすって、どんな内容でもいいんですか?」 「はい、何でも構いません。たとえば……ショッピングモールのエスカレーターでの事故防止について。エスカレーター歩行の危険性に着目し、利用者の行動傾向を調査する。あるいは心理的な働きかけによって、歩行を控えさせる方法を考える。日常生活の中で心理学をどう活かせるかを考えるのが、今回の課題の趣旨です。小さなことでも構いません」  六人部が言い終えたタイミングで、ちょうど講義が終わった。 『六人部推し』の女生徒たちが、我先にと彼の背中を追って教室を出ていく。  帰り支度をしながら、千春は彼女たちの素直な姿に、羨望のまなざしを向けていた。  俺も、あんなふうに素直に気持ちを伝えていれば……。  彼から最後に向けられたのは、別れに等しい言葉と態度。  それが真実かどうかもわからないから、千春の恋も止まったままだ。  葵留を失ってから数えきれないほど考え、でも、行き着く答えはいつも同じだった。  父親という名の凶器と暮らし、母親を人質に取られたような生活を送っていたことを、千春は知っていた。  それなのに、葵留に何もできなかった。  千春はその苦しみの中で、虐待をする側・される側の心理を学び、自分の無力さを克服しようと考えた。  失った命への慟哭を抱えながら目標にすがって心を保ち、がむしゃらに勉強した中で出会ったのが六人部の著書だった。  そこには、脆弱していた千春の心に、やる気を施す言葉が羅列されていた。  千春が今の大学を決めた理由も、六人部が教壇に立っていると知ったからだ。  もっと勉強してがんばらないと。  葵留先輩のような人を、一人でもなくすために……。  夢に熱い思いを馳せながら千春は教室を出ると、中庭に向かった。  仙太郎、もう来てるかな。  一階と二階を繋ぐ、吹き抜けの高い天井を見送りながらロビーに着くと、中庭に面したガラス張りの食堂を横目に建物の外へ出た。  半屋外に設置されてある大階段と一体化したステージでは、ダンスサークルの練習が始まるのか、活発な声の女子たちがジャージ姿で準備運動をしている。  みんな、楽しそう……。  同年代の学生たちが楽しげに青春を謳歌している姿を見ると、胸が詰まる。  葵留と一緒に大学へ行けたら……。  そんな妄想はキリがなかった。  社会人になって、葵留と仕事帰りに食事したり、飲みに行ったりすることを、泣きたくなるとわかってて何度も想像した。    で、いつも後悔だけが残るんだよな……。  いつまでも同じところで足踏みしている自分が情けない。  追い払うように頭を振ると、遠くに親友の姿を見つけた。  仙太郎のそばに駆け寄ろうと、足を早めたそのとき── 「ちはっ、危ない!」  叫び声と同時に肩を掴まれ、強い力で体が後ろへ引っ張られた。 「えっ! なにっ」  一瞬、自分の身に何が起こったのかわからず、強力な磁石で後ろへと体が傾いたような感覚を覚える。  倒れそうな千春の背中は、優しく受け止められていた。  けれど次の瞬間、鼻先を掠める距離でペットボトルが落下してきた。 「うわっ!」  叫んだ千春の声と、地面に激しく打ち付けられる音が重なると、ペットボトルが数回バウンドしてあらぬ方向へと転がっていった。  驚いて固まっている千春の耳元に、安堵のため息が聞こえる。  千春を守るように、胸の前には誰かの腕が巻きつき、抱きかかえてくれている。  後ろを確認すると、天敵を見るような鋭い目つきの惠護がいた。  けれどそれは一瞬で、「間一髪……」と、表情を弛緩させている。 「け、惠護、せんぱ……い」  至近距離で互いの視線が絡まると、「怪我ないか」と、安心した顔で見下ろしてくる。  千春を包んでいる腕は胸の前で交差し、抱きしめられていた。  急に気恥ずかしくなり、「はい」と小さく返事をしながら、惠護の腕の中で身動ぐ。  すると腕の拘束は緩み、千春はほどけた腕をそっと押し上げて上空を確認した。  ペットボトルが落下してきたのは、キャンパスの二階にある渡り廊下からで、その真下を通っていた千春は危うく頭頂部に直撃するところだった。 「先輩。すいません、ありがとう……ございました」 「ああ、無事でよかったよ」  千春の体に異常がないかを確認するよう触れたあと、惠護が渡り廊下を鋭い目で見上げてきる。 「誰だ、これ落としたヤツはっ」と、大声を張り上げた。 「わりぃ、わりぃ、俺だ。ふざけてて手が滑っ──」 「っざけんなっ。何がふざけてだ! 当たって怪我でもしたらどーすんだっ! いい歳してそんなことも分からねーのかっ」  初めて聞いた、惠護の怒号だった。  目も険しく吊り上がっている。  鬼のような形相に変貌した顔は相手を睨みつけ、降りてこいだの、ぶん殴ってやると咆哮している。  騒ぎを耳にした生徒たちが野次馬の如く、何だ、何だと集まってきた。  眉間に電光を走らせ、殺気を孕んだ目で上を見ている惠護の怒りを鎮めようと、腕を掴んだ千春はビクッとしてその手を離してしまった。  惠護の体が怒りで小刻みに震えている。  血管が浮き出たこぶしを見つけると、その手が振り翳さないようにそっと包みこむ。    宥めるように手を握り締めても、惠護の睥睨は二階に向けられたままで、落下させた学生がチッと舌打ちをして去って行くまで刺し貫いていた。 「あの、先輩。庇ってくれてありがとうございました。俺、全然気付かなくって」  惠護の|危殆《きたい》を払拭するよう、千春は笑ってみた。 「……何ともなくてよかった。千春の顔に傷でもついてたら、俺、絶対許さなかった……」  髪を撫でながらこぼされたその言葉は、地を這うような低い声だった。  怒りでも悲しみでもない、けれど胸の奥に沈んでいた何かが、滲み出るような声音。  けれど、それはすぐに解け、惠護が相好を崩すと、穏やかな笑みで、「可愛い顔が無事でよかったわ」と冗談を装ってきた。  その砕けた口調に、ふっと力が抜けた。  安堵と一緒に、妙な照れも込み上げてくる。 「か、可愛いって何ですか」  わざとむくれたように食ってかかると、惠護は目を細めて笑った。 「千春っ、どうしたっ」  騒ぎに気付いた仙太郎が駆け寄ってくると、「事件だ事件」と、惠護が事情を説明している。 「上条さんの怒鳴り声が聞こえたからビビったよ。けど、怪我がなくてよかったわ」  これからは上見て歩かなきゃならんのかと、仙太郎が肩を竦め、ブツブツ言っている。 「あ、そうだ。千春、今日ってバイト? 俺、一回お前のバイト先に行ってみたいんだけど」  前を歩いていた惠護がクルッと体を回転させ、唐突に聞いてきた。  さっきまで怒っていたのが嘘のように破顔させ、パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、後ろ向きに歩いて、千春の返事を待っている。 「今日はバイト休みで──、先輩、ちゃんと前を向いて歩かないと危ないです。転んでも知りませんよ」 「千春に怒られちゃった。でも、そっか、バイト休みかー。残念だな、千春の働く姿を見たかったのに」 「何ですか、それ」  ぷふっと千春が笑うと、髪をくしゃっと撫でられ、惠護が嬉しそうに微笑んでいる。 「カテキョのバイトまで時間があるから、千春を見て英気を養おうと思ったんだ」 「俺を見てって、ほぼ毎日見てるじゃないですか。あの、明日はシフト入ってますから、よかったら来て下さい。今日のお礼に俺、奢ります」 「明日か……。明日はゼミがあるんだ。じゃ、明後日の金曜は?」 「いますっ! 是非来て下さい」 「ったく、お二人さんってほんと、仲良いよなぁ。俺、妬いちゃうわ」  千春たちの会話を聞いていた仙太郎が、ツンツンヘアを気にしながら口も尖らせている。 「豊浦がヤキモチ妬くから俺は先に帰るか。じゃな二人とも。千春、気を付けて帰れよ」  後ろ歩きから踵を返し、前を向いて歩いて行く背中に、「惠護先輩。バイト、頑張って」と、声をかけた。  肩越しに顔だけを向けた惠護が、「さんきゅ」と笑顔を添えて、自転車置き場への角を曲がって見えなくなった。  毎日会っているわけではない。タイミングが合えば一緒に過ごしているだけの、ただの先輩後輩の関係なのに、今日はなぜか離れ難いと思っている自分がいる。 「寂しいのか、上条さんが行っちゃって」  唐突に言われ、千春は「そんなことない」と慌てて仙太郎に返す。 「ふーん。けど、さっきの上条さん、すごかったな。俺がいたベンチまで怒鳴り声聞こえてきたし。千春が怪我するところだったから、本気で怒ったんだろうけど……。でもさ、ほんと、上条さんって千春のこと気に入ってるよな」  ニッと笑って茶化す仙太郎に、何言ってんだと、肘で小突きながら、ふと、庇ってくれた瞬間、惠護が発した言葉を思い出していた。  ——ちはっ、危ない。 『ちは』。そう呼ぶ人は、この世にただ一人だけだ。  両親も、仙太郎も、友人も、誰もが『千春』と呼ぶ中で、彼だけがくれた、たった一音の呼び名。  葵留先輩……。  彼だけが呼んでくれた、『ちは』という特別な響き。  胸の奥で、静かに疼きが灯る。千春はふいにリュックを抱きしめると、そっと内ポケットに手を入れた。  そこには潰れないようタオルで包み、大切に、大切に、持ち歩いている小さな箱が眠っている。  さっき惠護に抱きかかえられたときにふわりと香ったのは、タオルの中のタバコと同じ香りだった。  旧校舎に忘れられた、開封しただけで手付かずの忘れ形見。 「禁煙してよ」と何度も言った千春に、「じゃあこれが最後の箱だな」と、笑って見せた愛しい人。  小さな箱が形見になった瞬間、心臓をもがれるような苦しみを味わった。  忘れたくないと心が叫んでも、短い恋は消滅へと向かうしかないと突きつけられた。  千春から永遠に葵留を奪ったのは事故だった。  葵留が乗っていたバスが運転を誤り、壁にぶつかった衝撃で彼の身体は窓ガラスを突き破り、外へ放り出されたと、あとになって人づてに聞いた。  そのバスが千春の家へ向かう路線だったのも、同時に知った……。  千春のことを覚えていた、葵留の同級生がわざわざ知らせてくれたのは、家族だけでひっそりと葬式をあげたことだった。  担任だけが顔を出し、クラスメイトは誰も来なかったことも。  以来、誰の口からも、葵留の名を聞くことはなかった。  時は過ぎ、千春だけが、高校を卒業して大学生になってしまった。  忘れようと思ったことは、一度もない。  ──一生、忘れられない恋だから。

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