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第20話
雨足が、さっきより強くなっていた。
窓に叩きつける雨音が部屋中に響き、沈黙を引き裂くように広がっていく。
破れたカーテンが風で膨らみ、千春はブルッと身を震わせた。
冷えた空気が昂った感情を少しだけ鎮めてくれた。けれど──
それでも、「騙されていた」という事実を、どうしても許せなかった。
ジッと机の落書きを見つめていると、窓の閉める音がして千春は顔を上げた。
惠護が窓を閉じ、はためいていたカーテンがようやく静かになる。
「……あの日、バスに乗ったんだ」
惠護の声は低く、静かだった。
部屋のどこまでも深く沁み込むように、千春まで真っ直ぐに届いた。
「……俺も意識が戻ってから聞いたんだけど、子どもが道路に飛び出したのを運転手が避けようとして……。ハンドルを切って、急ブレーキのせいでバスは横転した」
千春は息を詰めて聞いていた。
知っていたのは、ただ事故に遭って亡くなったということだけ。
それが本人から、こんなにも具体的で、生々しく語られるなんて思いもしなかった。
「俺は吊り革に掴まって立ってた。咄嗟に前のシートにしがみついたけど、重力に引きずられるように、身体が窓の方に引っぱられて……。ガラスにぶつかって、外に放り出されたんだ」
綴られた光景が、頭の中で再生されていく。
想像を超えた告白に、身体がこわばっていくのが自分でもわかった。
「スローモーションみたいに、自分の身体が浮いてたのは覚えてる。ガラスの割れる音、背中に何かがぶつかった衝撃。多分、歩道の植え込み……かな。それがクッションになって、そのあと地面に叩きつけられた。そのとき、肺の空気が全部押し出されたみたいに苦しくなって、視界が真っ白になった。冷たい空気だけ、肌に残ってて──そこで、意識が途切れたんだ」
惠護は言い終えると、深く息を吐いた。
「そ、それで……どう、なった、んですか」
声が上擦る。
それでも聞きたいと、聞かなければいけないと、震える唇を動かした。
「目が覚めたのは病院だった。肋骨は折れてたし、全身打撲。……でも、一番ひどかったのは、目だったんだ」
その瞬間、千春は立ち上がった。
気づけば、自分の手は惠護の前髪を掻き上げていた。
額にある傷痕──それは以前から知っている。けれど、目に関する傷など見たことがなかった。
「どこ……傷って、どこ? 目って……」
至近距離で惠護を凝視する。
けれど、見つからない。
やっぱり、嘘なんじゃないか。
そんな疑念がよぎった、そのときだった。
惠護が、すっと両目を閉じた。
「あ──」
静かに閉じられた瞼に、細い線が走っている。
まるで、誰かにナイフの先端でスッと真横に傷つけられたかのような、そんな小さな痕が数箇所あった。
「無意識に目を守ろうとして、瞼を閉じたんだろうって医者が言ってた。腕でも顔を庇ったみたいだから、ここの傷は結構深いんだ。だから、ガラスの破片とかから眼球を守れたんだろうって」
怪我した場所なのか、惠護が自身の腕に触れながら話を続けた。
「でも、今の医療ってすごいんだな。ここまで目立たなくしてくれたし。ついでに二重にもしてくれてさ。昔は一重だったのにな」
そう言って、指先で目元をなぞりながら、惠護が冗談めかして笑った。
「それ……もし破片が目に入ってたら、失明してたかもしれないんですよ! そ、そんな大怪我して、わ、笑って話すなんて……っ。それに、声だって……少し違う。葵留先輩は、もう少し……高い声で──」
握りしめたこぶしに、爪が食い込む。
痛い。でも、泣きたくない。
泣いたら、何もかもが壊れてしまいそうだった。
「今の俺の声、ちょっと枯れてるもんな」
苦笑いを浮かべながら、惠護が言った。
「これさ……手術のとき、気道確保するためにチューブを入れたらしくて。そんとき、声帯を少し傷つけたみたいなんだ」
「傷……? そ、それって大丈夫なんですか! 声が変わっただけ……? ほ、ほかに異常は? 声、出なくなったり……しないんですかっ」
「大丈夫だったんだよ、ちは」
惠護が身をかがめて、千春の目を覗き込んでくる。
少しかすれたその声も、まっすぐに見つめてくる瞳も、照れたような笑みも、まぎれもなく『葵留』なのだ。
「……じゃあ、なんで死んだことに、なんで名前が違うんですか? 葵留先輩は……俺より二つ上のはずで……惠護先輩の学年は一個上、だ」
胸の奥に溜めていた問いをぶつけた。
彼が本当に葵留なら、なぜ「死んだこと」になったのか。
そして──どうして、別人として生きているのか。
今、すべてを聞きたい。
聞かなければ、信じて先へ進めない。
「俺さ、親父に虐待されてただろ。死んだってことにしたのは、親父から逃げるために母親が考えたんだ」
意味がわからない。
いや、確かに死んでしまえば暴力を受ける心配はない。
けれど、そんな映画みたいなことができるのだろうか。
ぐるぐる考えていると、髪をくしゃっとされた。
これも、葵留のくせだった。
それを千春は払い除けた。払い除けて、しまった……。
「親父の仕事は運送業で、ずっと短距離運転だったんだ。でもあのころ長距離に変わったんだ。親父が長期で留守している間に、母さんと相談して、俺らは逃げることにした」
惠護がふぅーっと、深く息を吐いた。そして、続きを話してくれた。
「母さんの大学の友達が、田舎の実家が空き家で使ってないってからそこに住めって言ってくれたんだ。夏休みの間、密かに準備をしてた。親父がいない間に引っ越すことにしたけど、俺らがいなくなったらあいつは怒り狂うかもしれない」
ここまで話した惠護がまた一息吐く。
そして、重そうに口を開いた。
「親父は浮気の産物の俺を憎んでいた。だから俺を探すために、俺と関わった人間に、居場所を追求するかもしれない。下手したら、手を出すかも。そう考えたから、俺は担任にだけ相談してひっそりと高校を去るつもりだった。それまでに親しかったやつとは、縁を……切るように、しようって思って……たんだ」
だからなのか……。
俺を遠ざけたり、あだ名で呼ぶことをしなくなったのは。
「そ、それならどうして、そう言ってくれなかったんですかっ。わけを話してくれてたら、俺は、俺は……」
あんな酷い言葉を言わなかった、のに……。
「言えば俺は、ちはを手放せなくなる。ちはと繋がっているのが親父にバレたら、親父がお前に何をするか、わかんないからだ」
「だ、だからって何も話してくれなかったら、俺は、何も知らないままで、先輩を憎んでしまうじゃないか。好きな人を恨んだり、憎んだりなんてしたくないのにっ。お父さんのことだって、俺も、一緒に戦えたかもしれな──」
「無理だっ。あいつは俺が死ぬまで許さないっ。もう、あいつから逃げるためにはそれしか方法は浮かばなかったんだ。けど、逃げる前に俺は事故に遭った。意識を戻した俺が一番に考えたのは、計画が台無しになってまた、暴力の日々が続く。そう思った。でも、目覚めたときにはもう、俺を事故死したことにするって母が友人と決めていた」
驚愕の内容に千春の体は再び椅子から離れ、前のめりになって惠護を見据えていた。
「そ、そんなこと無理、だっ。絶対バレる」
だよな、と惠護が優しく笑った。
見覚えのある微笑みは、この旧校舎でいつも見ていた葵留と似ていた。
「一か八かだったらしい。事故ったとき、親父は仕事に出たばっかで、事故のことも知らせなかった。俺は戸籍上、死んだことにはなってない。あくまで近所や学校にはそう伝えて、密かに姿を消しただけだ。母さんの友人が葬式を偽装してくれて……でも、死亡届なんて出してない。そこまでは、さすがにできなかった」
「そんなの、おかしいってお父さん思うよ。だって仕事から帰ってきたら……息子が……し、死んでるんだ。普通、信じられないって──」
言いかけた言葉を千春は飲み込んだ。
惠護が悲しそうに、微笑んでいたからだ。
「大事な息子なら血相変えるだろうな……」
──親父は俺を憎んでいる。
さっき聞いたばかりの、惠護の悲しい言葉を思い出し、千春は何も言えなくなった。
そもそも父親が息子を愛してれば、こんな悲しい芝居など葵留も、母親もしなくて済んだ。事故に遭っても助かったと喜び、退学の相談も担任する必要がなかった。
悲しい嘘だ……。
けれどそうしなければ、葵留への暴力はどちらかが死ぬまで永遠に続いていた。
そこから逃げる手段だったとしても、悲し過ぎる。
「家に帰ってきたとき、俺が死んだことを聞いて、多少は驚いてたらしい。けど、俺がいなくても、母に手を上げることはなく、家に帰ってくる日も減っていったらしい。母が離婚届を見せたら、何も言わずに名前を書いたって。それで母と親父は他人になった。母が引っ越して本籍を変えたら、もう親父は母をたどることは出来ない。縁が、切れたんだ」
黙って聞いていた千春は、ふと、疑問に思った。
母親は他人に戻れるけれど、子どもはそういうわけにはいかない。
もし、葵留が生きていることを役所で父親が知ったら、今度は殴るだけじゃ済まない。
「せ、先輩はどうなるんですか。だって生きてるんですよ? もし、見つかったら……」
怖くて続きの言葉が言えなくなった。
怯えていると、惠護の手がそっと肩に乗った。
「だから、俺は隠れたんだ」
「隠れ……た?」
「そう。最初は、母の友人の実家に行こうかと思ったけど、万が一のことを考えて、担任のお婆さんの家に世話になることにしたんだ」
「先生の?」
「ああ。俺が死んだってことを知っているのは、母親と母の友人、それから担任の三人だけだった。担任は学校で生徒相談を担当していて、児童福祉にも詳しかったんだ。俺の家庭の事情を知ってて、行政にも軽く相談してくれた……。それで、田舎で一人暮らしをしていたお婆さんのところに、一時的に俺を預かってもらう形を取ってくれた。もちろん正式な手続きじゃない。でも、成人になるまでの避難場所として、先生と母が協力してくれたんだ」
「え、ちょ、ちょっと待って。葵留先輩は知らないお婆さんと一緒に暮らしてた、ってこと?」
思わず手で惠護の言葉を遮ると、聞いたばかりの言葉を反芻した。
「そう。他人だけど、先生のお母さんだし、俺は助かるし。でも、分籍出来る年齢になるまでって約束だったんだ」
分籍──。
聞いたことある言葉だった。
確か六人部の授業で、聞いたことがあった。
疑問を抱く千春に気付いたのか、「親と戸籍を分けることだよ」と、惠護が教えてくれた。
「思い出しました。親の戸籍から独立した戸籍を作ることでしたね。でも二十歳にならないと出来ないって。え、それまでお婆さんと暮らすってこと? 葵留先輩の誕生日は七夕だから、えっと、もう二十歳になって……」
指を折って年齢を確かめていると、正面から視線を浴びていることに気付く。
「何ですか」と、上目遣いで惠護を見た。
「いや、誕生日覚えててくれたんだなって」
「あたりま──そ、それは覚えやすいからです。それだけですっ」
つい、語気を強くして言ってしまった。本当に言いたかった言葉は別にあるのに。
「そっか。ま、そうだよな……」
何であなたが悲しそうな顔をする、と言いたかった。けれど、やめた。
……言葉ひとつで人を傷つけてしまうことを、もう、二度としたくない。
「大学受験どころじゃなかったから、一年待って十九歳で今の大学に合格して、ばあちゃんの家から通ってたんだけど……。約束の二十歳になる前に、ばあちゃんは老衰でなくなったんだよ。俺がそばにいたから、一人で逝かせずに済んだって、先生は言ってくれたけど。……でも俺、何もできなかった。病院や先生に連絡するくらいしか」
「それが一番大事でしょ。俺、講義で独居老人のことも勉強したりするけど、そのお婆さんは先輩がそばにいたから、きっと寂しい思いなんてしなかった。絶対に、先輩のこと感謝してます。先生も、すぐに駆けつけられたはずです」
「そうだな……。それだったらいいな……」
遠い場所に視線を置いて、惠護が静かに語っている。
他人との暮らしだったとはいえ、少しの間だけでも葵留が暴力に怯えない生活が送れていたのが救いだ。
「今の世の中、一人暮らしの方が亡くなってから、何日も経って見つかるなんて、ざらなんです。だから、先輩がしたことは──とても素敵な……って、何で笑ってるんですか。こっちは真剣に話してるっていうのに」
千春は頬を膨らませてそっぽを向いた。
すると、ジリジリと焦がすような視線が頬に刺さってくる。
「やっぱ、ちはは最高だ。それに可愛い」
「今はそんなセリフ要らないでしょ。名前を変えたのも、DV被害から身を守るためですよね。虐待は姓名を変える理由になるって、家庭裁判所は認めてくれますから」
「そうだよ、ちは」
惠護が「さすがだなぁ」と感心したように頷く。
いつの間にか『葵留』のペースに乗っていることに気付き、千春は惠護に向かって「住民台帳の閲覧制限もしてるんでしょうね」と、上から目線で言ってしまった。
また、偉そうに言ってしまった。あれだけ後悔したはずなのに……。
勢いを失った千春が気になったのか、「ちーは」と、首を傾げながら名前を呼ばれた。
千春にとって大切なあだ名は、昔と変わらない音をしていた。
何でもない、と千春はかぶりを振った。
必要以上に喋ると、泣きそうだった。
「……住民票だけじゃなく、本籍地も……です。じゃないと、戸籍から居場所をたどられる可能性があるんですから」
また、偉そうに。
どうして『葵留』相手だと、こんな口調になるんだろう。
「大丈夫だよ、ちは……る」
呼び名の変化に、胸がチクリと痛んだ。
昔みたいに呼ばれるのが嬉しいはずなのに、懐かしさに似た痛みで気持ちが落ち着かない。
『惠護』の声で『葵留』じゃない……。
ずれてしまった歩幅は、もう戻らないのかもしれない。
何も言えなくて、千春は黙ったまま窓の外に視線を向けた。
惠護がこちらを見ているのがわかる。
頬で受ける視線の意味を知りたい。でも、勇気がない。
心だけが勝手に過去に戻ろうとして、身体がついてこない。
俺があのとき、酷い言葉を言わなければ──
そんな思いだけが、喉の奥につっかえて、どうしても言葉にならなかった。
惠護が葵留だとわかっても、二人の関係はとっくに終わっている。
愛しさや懐かしさを捨て、悲しみも超えて、本当の気持ちを胸にしまったまま、明日からどうやって惠護と接すればいいのか。
昔の面影が見え隠れする惠護を『葵留』と呼ぶのか、それとも『惠護』なのか。
仕草や声の端々に葵留が息づいているのに、それが何より嬉しいのに、惠護に惹かれている自分が、許せない。
息が苦しい。
逃げたいのに、ずっと、ずっと会いたかった人から目が離せない。
あの日、葵留に向けて放った言葉が、今も千春の唇を、瞳を、固く閉ざしていた。
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