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第21話

 雨音が激しく窓を打ちつけてくる。  千春はその光景を見つめながら、頭の中で弾き出した言葉を原動力に席を立った。  机の上に置いていたトートバッグを肩にかけたところで、「帰るのか」と惠護が声をかけてくる。  千春は無言で頷き、椅子を静かに机の下に収める。   今、惠護の顔を見たら、また気持ちが揺らぎそうだったから。  素直な思いを伝えようとしても、千春の中で、『死んだと思っていた人』と『今、惹かれている人』への気持ちが入り混じり、心がざわつく。  また同じ過ちを繰り返す気がして怖い。  自分を責める記憶ばかりが、頭をよぎる。 「先輩……。最後に、一つだけ聞きたいことがあるんです」  最後? と、惠護が二文字の言葉を、色濃くして繰り返し言ってきた。 「先輩……葵留先輩が事故に遭ったのって、俺の家に来ようとしてたからじゃないですか?」  仙太郎から聞いた話では、事故を起こしたバスの行き先は千春の自宅方面だった。  もし、それが本当なら、先輩が事故に遭ったのは、俺のせい── 「違うぞ、ちは」  力強い声が、その思考を断ち切る。  両肩に手を置かれ、体の向きを変えられると、惠護と正面から向き合う形になった。 「……でも、聞いたんです。事故に遭った場所は、俺の……」 「確かに、俺はお前の家に行こうとした。教室に顔を出したら、ずっと休んでるって聞いて……。心配になって、お前の家を教えてもらった。やっぱり、ちはに本当のことを話そうと思って。具合が悪いとわかってても、行かずにはいられなかった」 「じゃあ、やっぱり俺のせいです! あんな酷いこと言った上に、先輩の命まで……奪ってたかもしれないなんて、最低だ、俺」  千春は肩に置かれた手をそっと外し、惠護に背を向けて教室を出ようとする。 「お前のせいじゃないっ」  勢いよく手首を掴まれ、千春の体が引き戻された。そのはずみで、トートバッグが肩から外れると、宙を舞って床に落ちた。  中身がばらばらと床に散らばる。 「ご、ごめん。ちは」  慌てて惠護が拾おうとするのに気づき、千春も一緒に屈んで財布やスマホを手早く拾い集めた。すると、惠護がタオルに包まれた何かを手に取り、「これ……」と千春の方を見てくる。  千春は咄嗟に惠護の手からそれをタオルごと奪い取ると、胸に抱きかかえた。 「す、すいません。あの、ありがとう──」 「それ、だよな」  惠護の言葉で、体中に電気が走ったような痛みを感じた。 「ち、ちがう。これは、俺の……」 「だよな、最後にここへ置いていった」  後めたさから惠護を見ることが出来ず、千春は背を向けた。 「こっちを向け」  怒りを含んだ声で言われたが、千春は首をブンブンと振って拒む。 「いいから、こっち向けって」  今まで聞いたことのないような声音に、千春は恐る恐る振り返った。  惠護を正面にしても視線は上げられず、俯いたまま動けない。  箱を持ったままの手首を掴まれ、惠護がそれを目の前に突き出してくる。  そこから目を逸らした瞬間、惠護の指が千春の顎を掴んできた。 「これ、この開けかけのフィルムが、俺のって証拠だ。それに、色はピンクで変わってないけど、この箱の柄は昔のもんだ。今はデザインが変わってる」 「ち、ちひゃいまふ、これふぁおれほんで……」  長い指で顎を掴まれたまま、顔を上向きにされる。頬が押されてうまくしゃべれない。  瞬きもせずに、ジッと見据えてくる瞳。  暗示にでもかかったように、身動きできなかった。  ──だめだ。嘘なんて、つけない。もう、限界だ。  こっそり葵留のものを持っていたなんて、気持ち悪がられるかもしれない。  上手い言い訳を探しても、何も浮かばない。  惠護の視線に耐えきれず、千春はぎゅっと両目を閉じた。  すると、ふわっと何かに包まれる感覚がした。   それが惠護の腕だとすぐにわかると、ますます瞳を開けられなくなる。  だ、抱き締められてる? な、なんで── 「嬉しい。俺のタバコ、ずっと持っててくれたんだな」  予想外の言葉が、鼓膜に優しく響いた。  嬉しい? 今、〝嬉しい〟って言った? 「あの、惠護先輩……俺のこと、気持ち悪いって、思わないんですか?」  たどたどしく尋ねると、「ちはのバカ」と、甘く叱られた。 「だ、だって、何年も持ったままで……俺のこと、鬱陶しいとか、思わ──」 「思うわけないだろっ。好きな子が、昔置いていった俺のモンを大事に持っててくれて、しかも壊れないようにタオルにまで包んでくれてたなんて……」  好きな……子。今、先輩は好きな子って……言った?  さらっと告げられた告白に、耳まで熱くなる。  自分のタバコだとまだ否定したいのに、顔がイエスと答えてしまっていた。 「耳、熱いな。それにほっぺも。顔が真っ赤だぞ、ちは」  抱き締められた腕の中で、千春はついに気持ちを曝け出してしまった。 「せ、んぱ……い、お、俺……」 「ちはが好きだよ。この教室で出会ったときから、俺の気持ちは、ずっと変わってない」  囁かれた言葉に答えたくて、惠護の顔を見上げる。  胸が引き裂かれるほど、惠護のことが好きだと体が、心が叫んでいる。  なのに、どうしても罪悪感が拭えない──。  千春の心を汲み取るよう、惠護の手がそっと頬に触れた。その瞬間、千春の目から涙がこぼれ落ちる。  この手の温もりが、ずっと欲しかったのだと、全身で喜んでいる。  それなのに、焦がれた胸に飛び込めない。 「俺、先輩に酷いこと、言ったのに。それなのに、俺……」 「そんなの、ちはが本気で言ったなんて思ってないよ。それに、言われても仕方ないことを、ちはにしたんだ。責められるのは俺で、俺がちはを責める理由なんて、一つもない」  目の奥が熱くなる。  何か言いたくても、声にならない想いが詰まって苦しい。  幻でもいい。  もう一度会いたいと、何度も何度も願っていた。  ずっと好きで。好きで、好きで、大好きで……。逢えないとわかっていても、忘れたことなんて一度もなかった。  けれど、あの罵倒を口した自分を思い出すたびに、逢いたいと思うことさえ罪だと自分を責めた。 「せ……ぱい……」  手を伸ばして、触れようとしてもできない。  何年も引きずってきた後悔が、惠護に触れることを許さないと拒む。 「ちはのこと、どうでもいいなんて、一度だって思ったことない。この先、一ミリだって、考えることなんてない」 「だ、って……俺が、最後にあんなこと言ったから……先輩、バスに乗って──」 「俺は、ちはがどれだけいい子で、優しいか、ちゃんと知ってる。あのとき、ちはが言った言葉は、俺が引き出させてしまったんだ。バスの事故だって、ちはが責任を感じるのは違う。それに、事故ったおかげで、こうしてまた、ちはに会えたんだから」 「そ、んな……こと……言わない、でくだ……」  優しいのはあなたです。そう言いたいのに、続きの言葉が喉の奥で詰まって、音にならなかった。  最初から、この人はずっと優しかった。葵留(むかし)も、惠護(いま)も……。  でも、だったらどうすればいい?  葵留を忘れられず、恋しいと泣きながら、惠護に惹かれてるなんて──。   そんな不誠実な自分を許せない。  浅ましい心が、千春を深い罪悪感で覆い尽くしてくる。 「で、でも俺は……惠護先輩を、す……好きになって、葵留先輩を、忘れようとしてた。なのに、惠護先輩は──葵留先輩で……。二人を好きだなんて、こんなの、不誠実で、裏切りですっ……」  頭では答えを出したはずなのに、心が違うと叫んでいる。  自分でも訳がわからなくなっていると、千春の体は、惠護の腕に強く引き寄せられた。 「裏切りなんかじゃないよ。千春は、俺を二度好きになってくれた。それだけだ。一度目は、高校のときの葵留を。二度目は、今の俺──惠護を」 「そ……そんなの、おかしい。俺は葵留先輩を……忘れられないのに。なのに、別の人を──惠護先輩を……す、好きになった、なんて。こんなの、許され、ない……」 「それが、何だっていうんだ。どっちも俺だ。名前が違っても、目の形や髪型を変えても、俺の想いはずっと変わらなかった。葵留も、今の惠護も、ずっと……千春だけを想ってた」  抱き締める腕に力が込められると、千春は無意識に抗うよう身をよじった。  自分の気持ちがわからない。  いいのかなと、思いかけても、もう一人の自分が、そうじゃないと、制止してくる。 「俺は、葵留先輩が好き……で、忘れられなくて、旧校舎にまで来たくせに……。それなのに、目の前のあなたも好きだって……そんなこと、言う俺なんて──」 「かまわない。俺はずっと、ちはだけを想ってた。居酒屋で話せたときに決めたんだ。どんな形でもいい、もう一度、ちはに好きになってもらいたいって。だから、千春は……悪くないんだよ」  惠護の言葉、一つひとつが、胸に染みていく。  嬉しい。なのに、それと同時に、後ろめたさが拭えない。  足に力が入らず、体が崩れそうになる。  その体を、惠護の腕がそっと支えてくれる。  千春は縋るように、その腕を掴んだ。  胸に顔をうずめると、懐かしい匂いが鼻腔をかすめた。  ──葵留先輩と、同じ……香りだ。  好きだと言っちゃいけない人から、忘れられない香りがする。  このまま惠護の腕の中にいたいのに、ダメだと叱責する自分がいる。  恐る恐る顔を上げると、優しい微笑みで見つめてくる双眸と目が合った。 「俺は上条惠護って名前に変わったけど、中身は波戸葵留だ。初めてこの旧校舎でちはと出会ってから、ずっと変わらない一人の男だ。鵜木千春を好きな男だよ」  惠護がそっと手を伸ばして頬に触れた瞬間、千春の自省が堰き止められる。  指先の温もりに、言葉に、懐かしさに似た愛おしさを感じる。  惠護との距離が少しずつ縮まってくるのがわかると、心臓がうるさくて恥ずかしくて体が一歩も動かなくなった。  ずっと、触れたかった。  ずっと、もう一度、抱き締めてほしいと願っていた。  絶望的な別れを味わっても葵留が恋しくて、諦めと未練の中で揺れて心が引きちぎられそうだった。  それなのに、惠護と出会って、惹かれている心を持て余していた。  葵留を忘れて惠護を好きだと思ってしまう自分が許せなくて、確かめるように、旧校舎(ここ)へ来た。  答えが見つかると期待しても、惠護に惹かれている気持ちはとっくに導き出されている。  惠護の腕を掴んだまま、口をぎゅっと結んでいると、愛しい人の顔が近づいて来た。  甘い吐息が肌に触れると、額が触れ合い、そっと鼻先が擦れた。  次の瞬間、二人の間にあった見えない隔たりが、音もなく溶けていく。  唇が触れるか触れないかの距離で止まった。間近で見つめてくる瞳に、吸い込まれそうになる。 「ちは、好きだよ。ずっと、ちはだけが好きだ」  心臓の、ドクンっと鳴った音が耳に到達すると、囁かれた言葉で最後の抵抗が崩れた。  重ねてくる唇を、千春は素直に受け入れる。  二度目の口づけは初めてよりも嬉しくて、心の奥からこみ上げる幸せに目の奥が熱くなった。  葵留でもあり、惠護でもある今の『彼』を、千春はもう一度、心から愛しいと思えた。  ずっと、ずっと触れたいと願っていた。  それなのに、いざ触れてしまうと、頭の中が真っ白になって──それでも、離れたくないと思っている。  高鳴る鼓動の中で知る、好きな人との距離感。  現実感のない、不思議な感覚が体の中に芽生えて戸惑う自分がいる。  夢と現実の間で揺蕩いながら、自分が放った言葉を思い出した。  言葉の刃で葵留を切り付けたことは、一度たりとも忘れたことはない。   何度も夢に見た、あの瞬間に戻れたらと。  でも、それは叶わぬ奇跡だと思っていた。  唇の温かさに身を委ねていると、世界がふわっと色づいた。  不安も戸惑いも、その温もりに溶けていく。「好き」という気持ちすべてが溢れてしまいそうだった。 「ちはに、ずっと謝りたかったよ。……でも、会う度に言えなくて、ずっと苦しかった」  唇が離れたと同時に告げられた言葉を聞き、千春は無意識に唇を噛んでいた。  鵜木千春だと最初から知っていた惠護は、どんな気持ちでそばにいてくれたのだろうか。  言いたくても言えない苦しみ。  葵留だったことを悟られないよう、別人を装うフリは、どれほどの労力が必要だったのか。  惠護の顔を見つめていると、「唇が傷つくよ」と言いながら、長い指がそっと千春の唇を労う。  傷つけてしまった過去は、もう消せない。  けれどこの温もりの中でなら、少しだけ、自分を赦してもいいのかもしれない──  そんな気持ちが、心の奥に芽生えた。  不意に手を伸ばし、千春は惠護の頬に触れてみる。  温かい……。  体温を感じると、今度は惠護の胸の上に手を重ねた。  指先で感じる心音が、〝葵留が生きている〟ことを確かに教えてくれている。 「……本当に、生きてる」  自然と唇からこぼすと、惠護が笑ってくれた。  それがすべての答えだった。

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