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第22話

 旧校舎で迎えたクリスマスは、千春にとって、生涯忘れられない一日となった。  特別な場所で葵留と再会した出来事を、千春は夕食の支度をしながら静かに思い返していた。  もう二度と会えないと思っていた人が、実はずっとそばにいて、自分を見守ってくれていた──。  それが、どれほど嬉しかったか。  一生会えないと思っていた人と、実はずっと一緒にいたなんて。  惠護先輩が、葵留先輩だった……。  こんな奇跡のようなことが、自分に起こるなんて。  旧校舎で全てを知らされたとき、千春は、まるで長い夢でも見ているような気がしていた。  信じられなくて、惠護にむちゃくちゃなことを言ってしまった気がする。  けれど、本当は信じたかった。  嬉しすぎて、でも、それ以上に怖かった。  最後に放った千春の言葉は、大好きな人を苦しめる結果を生んでしまったからだ。  ──なのに、惠護先輩は俺を責めないで、「自分が悪い」と笑ってくれた。  葵留が事故に遭って助かったあの日から、奇跡はすでに始まっていたのかもしれない。  そんな風に結びつけてしまうと、空から見ている誰かに感謝を伝えたくなる。  大切な人の喜ぶ顔が見たいと願う──そんな優しさと想いやりに満ちた特別な日だからこそ、あのとき、小さな奇跡が千春のもとに訪れたのかもしれない。  唐揚げを揚げる手を止め、千春はふとベランダへ目を向けた。  ガラス越しに見える冬の景色には、ぽつぽつと温かな明かりが灯りはじめていた。  ふと、小さな自分が読んだ絵本を思い出す。  そこには、「クリスマスは不思議なことが起きる日」「愛する人と心が通じ合う日」──そんなふうに描かれていた。  サンタクロースから届く贈り物を信じて疑わなかった、あのころ。  子どもだった千春にとって、それはまさに〝奇跡〟そのものだった。  実際には両親や大人たちの優しい嘘だったけれど、嬉しく感じた記憶は今も鮮やかに残っている。  唐揚げを皿に盛り付けながら、千春はあの日の〝奇跡〟を思い返した。  クリスマスの日に降った雨で、解体工事の着工は延期になった。  雨の中に佇んでいたときは、それが幸せの始まりになるとは思いもしなかった。  テーブルを拭こうと布巾を手にしたとき、置きっぱなしの本が目に入った。 「もう、またこんなところに置いたままで……」  文句をこぼしながら本を手に取ると、ページに挟まれた栞が目に留まる。  手にした瞬間、自然と表情が緩んでしまった。  これ、ずっと使ってくれてたんだ……。  高校生のころ、千春が初めて葵留に贈った手作りの栞。  青い色紙に、夜空を模して星を描き、そっと添えた一言。  ──ずっと一緒にいられますように──  以前、食堂で惠護がカバンから落とした青い紙を見たとき、どこか心に引っかかるものがあったのに、どうしても思い出せなかった。  あれ、この栞だったんだな……。  ずっと使ってくれていた惠護を想像すると、胸の奥が甘酸っぱく疼く。  不器用な字で綴られた一言が、あの日の純粋な想いをそのまま映し出している。  こんな照れくさい言葉を、本当に心から願っていたんだと、幼かった自分を微笑ましく思ってしまった。  その『願い』が、今、こうして繋がり、惠護のそばにあったことが愛おしい。  あのときの祈りが、ちゃんと届いていたから。それが、本当に嬉しかった。  栞をそっと読みかけのページに戻し、本ごと胸に抱きしめると、丁寧に本棚へと戻した。  テーブルに料理をすべて並べ終えると、千春はベランダに出て、夕暮れに染まる空を見上げた。  オレンジから青へと移ろうグラデーションの空。  アパートの前を流れる川には、風に揺れる桜の枝葉が映っていた。  来年の春、並木道を歩きながら、満開の桜を大好きな人と一緒に見られる。  そう思うだけで、涙が溢れそうなほど嬉しかった。  寒さも忘れて景色を眺めていたら、下から「風邪ひくぞ」と声が飛んできた。 「先輩っ。お疲れさま」  川沿いを歩いてこちらに向かってくる惠護に手を振ると、「ただいま」と返ってきた。  ──心臓が跳ねる。  普通の挨拶でも、惠護から聞くと特別な言葉だ。  愛しい姿に見惚れていると、千春はハッとして部屋に戻った。  惠護の足なら、二階なんてあっという間に着いてしまう。  急いで窓を閉めると、胸を高鳴らせながら玄関へと向かった。  惠護専用のスリッパを下駄箱から出すと、タグがついたままだったのに気付く。 「うわ、まだ切ってなかった……」  慌てて部屋に戻ると、ハサミを手に玄関へ戻ったところでインターホンが鳴った。  ほんと、足が長すぎるんだよ──。  心の中で文句を言いながら、千春はドアを開けた。 「ちは、ただいま──って、同棲してるみたいだな。けど、ハサミ持ったままで迎えられるとは思わなかった」 「お、お帰りなさい。す、すみません、先輩。俺、タグを切るの忘れてて。ちょっと、待ってくだ──うわっ」  タグに刃を入れようとした瞬間、惠護に抱き締められていた。 「俺用の、買ってくれてたんだ。嬉しいな。ありがと、ちは」  耳元に届いた声がじんわりと心に染み込んでいく。  甘く、優しく、胸の奥がくすぐったくなるような声音が、耳の奥で広がった。 「せ、先輩……ハサミ持ってるんですから、危ないですよ。離れてくださいってば」 「やだよ。頑張ってカテキョしてきた俺を、ちょっとくらい甘やかしてくれてもいいじゃん?」  大学で話すときとは違う、どこか幼さを残した甘い声。  その響きに、ふいに高校生だったころの葵留が重なった。  ねだられると、なんでもしてあげたくなってしまう、あのころの『葵留』の音。  ……でも、今は違う。  高校のときとは僅かに違う、ほんの少しハスキーで鼻にかかった惠護の声。  変わったところもある。  けれど、優しさだけは、何ひとつ変わっていなかった。  心を鬼にして、惠護の腕を突っぱねると、彼は少しだけ寂しげに眉尻を下げている。  昔なら、ハサミなんて放り出してでも慰めていた。けれど今は、もう、そうしなくても大丈夫。  千春自身も、あのころのように守るばかりじゃなくていいのだ。  千春はタグを切って、「はい、どうぞ」とスリッパを彼の胸に押しつけた。 「冷たいな、ちは」  口ではそう言いながらも、惠護の顔は満面の笑みだ。  その笑顔の中に、小さくエクボが浮かんでいた。あのころとまったく同じ場所に。  旧校舎で再会したとき、千春は一つだけ気になったことを口にしていた。  惠護が『葵留』だとわかったあと、「先輩のエクボ、どこいったんですか?」と。  返ってきた答えに、お腹が捩れるほど笑ってしまった。  今、思い出しても腹筋が痛い。  まさか、毎日コンシーラーで隠していたなんて。  大きな声で笑うことを我慢していたなんて。 そんな影の努力を、誰が想像できただろうか。  ──けど、それだけ俺を大切にしてくれてたんだ。『葵留』と一緒に……。  コンシーラーを塗っている、微笑ましい姿を想像していると、惠護がスリッパを履いて「似合う?」と、笑いかけてくる。  わざとらしく見せてくるエクボに、こっちもわかりやすいため息をついてみた。 「あーはいはい。似合ってます。ほら、早く手を洗って、うがいしてください。唐揚げ、もう出来てますから」 「はーい」  コートを脱ぎながら背中で返事をする背中を見つめていると、クルッと惠護が振り返る。  肩越しに振り返って見せた顔は、くっきりとした二重に、大人びた表情。  けれどその奥には、あのころ、本を読んでと、甘えてきた『葵留』が、ちゃんと息づいていた。 「たくさん作ったから、思う存分食べてください」  千春の言葉にかぶせるように、「任せてっ!」と、百点満点の笑顔と声をくれると、惠護は洗面所へと駆けていった。  手を洗う音を聞きながら、千春は『葵留』の姿と惠護を重ねた。  どうして惠護が、葵留だとわからなかったのか……。  全てを知った今だからか、惠護の中には葵留の面影が滲み出ているのがわかる。  茶髪の長い髪をいつもハーフアップにし、ミステリアスな一重瞼は落ち着いた雰囲気だった。  けれど、父親に殴られた痕が刻まれていた表情は、ひどく健気に見えた。  事故で怪我をした目元はくっきり二重になり、その瞳は柔らかい印象に変わった。  人の印象の中心になる瞳は、たったそれだけのことでも別の人間を作り上げてしまった。  髪の長さや目の形だけだはない。  声も少しハスキーになった。  けれど、ちゃんと見れば、葵留だと気付いたかもしれない。  見た目が違っても、あの瞳にだけは、葵留が残っていたのに。  箸を並べながら、ふとした瞬間に〝似てる〟と感じては、〝気のせいだ〟と否定してきたことを思い出していた。  惠護が『葵留』だと疑ったことは一度もなかった。  あのとき──『ちは』と呼ばれるまでは。  今思えば、惠護がちはと、呼んだときは感情が昂っている瞬間だった。  まさか、そんなはずがない。  そう思いながらも、あの声には、あの名前には、抗いようのない確信があった。  ……そう思う反面、奇跡を期待する自分を抑えるのに必死だった。 「ちは、手洗いうがい完了し──うわぁ、マジでうまそうっ」  テーブルにずらりと並べたのは、唐揚げを筆頭に、惠護の好物ばかりだった。 「すぐごはんよそいますから、座って待ってて下さい」 「唐揚げにクリームシチュー、それと、肉じゃが。全部、俺の好物ばっかじゃん」  カーペットの上に座ったものの、惠護が身を乗り出して子どものようにはしゃいでいる。 「今日はクリスマスの代わりだから。けど、シチューのジャガイモはやめました。肉じゃがとかぶるんで。代わりにカリフラワー入れたけど、嫌いじゃなかったですか?」  既に手を合わせて合掌のスタイルをする惠護が、「俺、好き嫌いないからさ」と、最高の笑顔を見せてくれた。  朝から頑張って用意した甲斐あったなと、こっそり安堵していたら、いただきますの声が聞こえて惠護はもう唐揚げを頬張っている。  笑顔で囲む食事でも、千春の胸の奥にはまだ、どこかぎこちなさが残っていた。  ちゃんと惠護先輩に謝らないと── 「……俺さ。大学でちはを初めて見たとき、本当に心臓が止まりそうだった。まさか、同じ大学になるなんて──夢にも思ってなかったからさ」  食後のお茶を飲んでいると、唐突に言われた。  惠護が口にしたことは、千春も同じだった。  二度と会うことなどできないと思っていた人に、こうしてまた巡り会えた。  こんな再会は、奇跡としか言いようがない。だからこそ、ちゃんと口にしなければ。 「また、こうして先輩と一緒にいられることが、嬉し過ぎて、信じられなくて。でも、だからこそ、ちゃんと葵留先輩に謝りたい。あんな酷いことを言って、ごめんなさい……」  ずっと後悔していた。  怒りに任せて、自分勝手な言葉をぶつけたことを。 「悪いのは俺だ……ごめんな、ちは」  絞り出すような声で惠護が謝ってくれたけれど、惠護は悪くない。  泣きそうになるのをこらえながら、千春は首を激しく左右に振った。 「先輩は悪くない……です。俺が、勝手に後悔してただけで、先輩も……苦しんでた」  だんだんと小さくなってしまう声で伝えると、惠護が明るい声で返した。 「言ってなかったけどさ、俺とちはって合コンで初めて会っただろ? ……実は、ちはがその飲み会に来るって聞いて、俺、絶対行こうって決めたんだ」 「えっ! 知ってたんですかっ」  惠護は両足を投げ出し、腕をついて上体をそらす無防備な姿勢をとると、照れくさそうに、でもどこか嬉しそうな顔で千春を見た。 「ちはのこと、大学で見かけてから毎日必死で探してたんだ。学部は何だろうとか、サークル入るのかなとか。そしたら、豊浦と一緒にいるとこを見かけたんだ。あいつと学部が同じだったから、いつかちはと接点できるかなって企んでた。誘われた飲み会にも、全部顔出したんだ。もしかしたら、ちはも来るかもって期待してさ。ダチからは〝飲み会男〟ってあだ名つけられたけどな」  惠護の告白が胸に染み入る。  自分のことを探してくれていたなんて、泣きそうだ。 「そ、そう言えば、お友達に呼ばれてましたね。飲み会男なんて言われてたから、よっぽどお酒好きなのかなって思ってました」  目の奥が熱くなったのをごまかすよう、千春はわざと明るく振る舞うと、残りのお茶を一気に飲み干した。 「俺、酒はあんま飲まないようにしてるんだ。親父が飲むと、いつも以上に暴力的になったから、酒にはあんまりいいイメージがない」  決して忘れることの出来ない、痛々しい葵留の顔が浮かぶ。  あのころの自分には、葵留を暴力から守る術なんてなかった。ただ、どうにかできないかと、無力感に押し潰されながら、ネットや本を読み漁った。  そんなことしか俺はできなかった……。  でも、今は違う。  もしまた惠護の前に父親が現れても、今の自分なら──戦える。  あのころよりずっと、惠護を、葵留を守れる。 「先輩のお父さんのこと、詳しくは知らないけど……話を聞く限りでは、劣等感や無力感の裏返しなのかなって。自信のなさを隠すために、先輩にストレスをぶつけて……自分の優位性を確かめようとしてたのかもしれません。弱い立場の人にだけ暴力的になるのって、支配欲とか、コントロールしたいって気持ちから来る──あ、すみません。俺ってば偉そうに……」  ジッと見てくる惠護の視線に気づき、千春は言葉を止めた。  六人部の元で学んだとはいえ、自分の言葉として語るには、まだ早いのかもしれない。 「詳しいな、ちは。そういうのも講義で習うんだ」 「あ、はい……。六人部先生の講義はわかりやすいし、難しい内容でも、あとで丁寧に教えてくれるんです」  講義の話をしただけなのに、惠護の表情が曇った。  あれ、何かまずいこと、言ったのかな……?  自然と眉間にシワが寄る千春に、「六人部と……仲いいんだな」と、思いがけない言葉が返ってきた。 「えっと……普通、だと思いますけど……」  首を傾げて答えると、だらりと背を預けていた惠護が、ふいに体を起こした。  腹に力を込め、上体を引き寄せるようにして前のめりになる。そして、あぐらをかき、太腿に肘をついた姿勢で、真っ直ぐこちらを見据えてきた。 「前にさ、中庭で楽しそうに六人部と、ちはがいるとこ見た。しかも、ちはが作ってきた何かを六人部も食っててさ。百歩譲って豊浦は許せるけど、他の、六人部みたいなイケメンが、ちはの手作りを食うなんて許せない」  言い終えた惠護が、顔をプイッと横に向けている。  心なしか、頬が膨れているように見える。  明らかに拗ねている態度とセリフだ。  可愛い……。  けど、それなら俺だって言いたいことがある。 「あれは仙太郎に作ってきたパオを、たまたま通りかかった先生におすそ分けしただけですっ。特別な意味なんてありませんっ。それを言うなら惠護先輩だって、あのとき女の人と楽しそうに食堂にいたでしょ? ううん、あのときだけじゃない。惠護先輩の周りには、きれいな女の人がいっつもいて。お、男の人からも肩なんか組まれちゃって……鼻の下ばっかり伸ばして、デレデレしてるんでしょっ」  気づけば、昔のような口調になっていた。  けど──そんなの知るもんか。  先生と俺の組み合わせなんかより、そっちのほうが、何倍も……許せない……っ。  今度は千春がそっぽを向き、急須からお茶を勢いよく注いだ。 「誤解だって! それにデレデレなんてしてない。あれは、ツレの彼女で──隣にいたのは、その友だちだ。俺は潔白なんだよ、ちは」 「あー、ありますよね。そういうの。友だちの彼女と、いつの間にかくっついちゃうやつ」  刺すような言葉を乱暴に投げると、千春は「食器、洗ってきます」と言い残し、ガチャガチャと皿を重ねてキッチンへ向かった。  なにが『六人部と仲いいんだな』だよ。  自分のこと棚に上げて、いつだって惠護先輩のそばには誰かがいて──  脳内で喧嘩腰に呟いていたそのとき、背中から勢いよく抱き締められた。 「ちょ、ちょっと先輩、なにして──」 「ちは……俺、たぶんお前が思ってる以上に、お前のことが好きだよ」  吐息混じりの声が耳元をかすめた瞬間、心臓が跳ね上がる。  手が震えて、皿がシンクに滑り落ちた。  カシャン、と軽く音を立てて跳ねたけれど、それどころじゃなかった。 「お、お皿が──」 「なあ、ちは。俺……お前に、まだ言えてないことがあるんだ」  静かな声音は、不意打ちのように胸を縮こませる。  まるで漫画の吹き出しのような、大きな『ドキリ』の文字となって、千春の心臓に刺さってきた。  何を言われるのかと身構えていると、惠護は千春の肩に顔を預け、グリグリと額を押し付けてきた。  まるで猫が甘えるように。 「ちは、怒らないでくれよ。俺さ、最初に会った居酒屋で……お前がトイレに立ったの、わかってて追いかけたんだ。わざと……袖、汚して」  言い訳めいた告白に、言葉を失った。  けれど怒るよりも、嬉しさが先に来てしまって、つい口元が緩む。  でもここは少し、ふりでも怒った方がいい気がする。 「……先輩は、きっかけ作るために、わざとシャツに醤油つけたって言うんですか」 「ごめんっ。でも、どうしても、ちはと話したかったんだ。やっと……飲み会で会えたから」  信じられない──。  でも、そう思ったのはほんの一瞬で、自分のそばで項垂れている恋人の姿が、どうしようもなく愛おしくて、心の底からあたたかくなる。  ──そっか。俺と会えるかもって、飲み会ばっか参加してたって……言ってたもんな。  肩越しに伝わるぬくもりは、あの旧校舎で初めて抱き締めらたときと、まったく同じだった。  千春はゆっくりと体を反転させ、惠護と向き合う。  優しげな顔立ち、くっきりとした二重。  やっぱりそこには、葵留の面影があって──思わず、涙が出そうになる。  本当に葵留先輩なんだ……。  ほんとに、生きて……たんだ。  思わず伸ばした手でその頬に触れようとしたが、手には泡が残っていて、触れるのをためらってしまう。 「何で、止めるの」 「だ だって、手、泡だらけだから……」  濡れた手を引っ込めようとしたのに、強引に手首を掴まれると、千春が望むところに触れさせてくれた。 「いいんだよ、ちは」  頬に泡が付いているのに、惠護が笑うから、そっと肌に触れてみる。  温もりがちゃんと伝わる。  反対の手も添えると、確かにそこに生きていることを感じた。  千春の仕草に応えるよう、惠護の視線が降り注がれると、自然と二人の距離は縮まって唇が重なっていた。  ふわりと羽のような感触が唇に触れる。  それはとても慎ましくて、けれど、奇跡のような再会を果たした二人には、ぴったりだと思えた。  優しいふれあいとは反対に、忙しない心音が体を飛び出して、惠護に聞こえてしまうんじゃないかと恥ずかしくなる。  俯こうとした顔を、顎に添えられた指で上向きにされ、額にそっと口づけが落ちてきた。  お互いの呼吸が混じるほどの距離。  離れたくなくて、千春は惠護の背中に縋りついた。  ──まだ、ここにいたいよ……。  そんな気持ちを、額を胸にこすりつけることで伝える。  惠護先輩の心臓……、俺と同じように、トクトクって跳ねてる……。  まるで、互いの胸の中で、スタッカートのリズムが重なり合ってるみたいだった。  どんな表情か知りたくて、千春が顔を上げると、なぜか泣きそうな顔が目の前にあった。 「惠護、先輩……。どうしたんですか」  悲しそうな顔をさせたくなくて、千春はそっと、その頬の輪郭に触れた。  まるで、光を持たない人に触れるような、おそるおそるとした指先で。 「ちは、俺が怖くない、か」  想像もしていなかった問いに、思わず眉をひそめる。 「どうして俺が、先輩を怖がるんです?」  思い悩んでいた唇が動くと、惠護が静かに語りはじめた。 「……俺と、親父には血のつながりはない。でも、暴力に支配されて育った俺の中には、確かにあいつの影があって……気づけば、俺も攻撃的になってる気がするんだ」 「なんで、そんなふうに思うんですかっ。惠護先輩も、葵留先輩だったときも、ずっと優しかった。お父さんのことは知らないけど、俺の大好きな人が、そんな影響を受けるわけないっ」 「だったら──あのときの俺は、何なんだ。ペットボトルが、ちは目掛けて落ちてきたとき、俺は一瞬で殴りに行こうとした。あいつが仲間と一緒になって、ちはを襲う話をしてたときも……冷静でなんていられなかった。ちはを傷つけるやつが許せなかった。ただ……気がついたら、俺、殴ってた。あのときの俺には……憎しみしか、なかったんだよ」 「違うっ! それは違うよ、先輩!」 「どこが違うんだっ。父親(あいつ)にされたことが……俺の中に巣食ってるんだ……」  言葉を詰まらせ、震える声で叫んだ惠護が項垂れる。  千春はもう一度、今度は思い切り惠護の体を抱き締めた。 「違うよ……。先輩のそれは、『守りたい』って気持ちでしょ。怒ったのは、俺を守ろうとしてくれたからだよ。それを……怖いなんて、思うわけない。その証拠に、先輩はお母さんを守って、殴られてたじゃないですか。お父さんと同じじゃない。先輩は強くて優しい人ですっ。俺は……惠護先輩のそういうところが、好きなんだから」  惠護の体を揺さぶりながら、千春は叫んだ。 「先輩は……ただ、優しくて、傷つきやすい人なんだよ……」  涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、訴える。  惠護──いや、葵留が背負ってきた過去を思うと、胸が張り裂けそうで、涙が止まらなかった。  そんな強くて脆い人に、俺は……ひどいことを言った。  もし、惠護のそれが『暴力的』だというのなら、言葉で深く傷つけた千春自身も、きっと同じだ。 「先輩がそうなら、俺は……もっと酷い暴力をあなたにぶつけた。ずっと後悔してたんです。傷つけたまま、事故に……バスに、先輩が──」  千春の言葉は、突然の抱擁で途切れた。  惠護にきつく、けれど優しく抱きしめられたその瞬間、その体温に縋るように、ぎゅっと胸に顔を埋めた。 「……あの事故は、ちはのせいじゃない。ただの、偶然だ。そう言っただろ。もう、自分を責めるな」  その声が耳の奥に染み込むと、千春は涙をぬぐい、濡れた手で惠護の頬を包み込んだ。 「じゃあ……先輩も、自分を責めないでください。さっきみたいに、俺の好きな人のことを酷く言わないで」  震える声で、「…… 約束ですよ」と、千春は笑って言った。 「ちはには敵わないな……。出会ったころと、何も変わってない。弱っちく見えて、誰よりもしっかりしてる、俺の自慢のちはだ」 「〝母ちゃんみたい〟とか、言わないでくださいよ」 「今それ、言おうとしてたのに」  惠護が笑った。  その笑顔は、あの旧校舎で千春が恋をした、葵留そのものだった。  嬉しくて、また泣きそうになる。  目に涙を浮かべたまま顔を背けようとすると、「どうした、ちは」と、そっと顔を覗き込まれた。 「……なんでも、ないです。でも、ちょっとだけ……もう一回、先輩を、抱きしめさせてください」  千春が惠護の胸に顔をうずめると、惠護がゆっくりと髪を撫でてくれた。  言葉はなくても、伝わる想いがある。  ──そんな確信が胸に満ちてくる。  自然と顔を上げると、目が合った。  言葉も前置きもいらない。  ただ見つめ合っているだけで、気持ちが伝わってくる。  ふたりの顔が、ゆっくりと近づいた。  近づく唇。  焦らず、丁寧にそっと重ねられる。  身体が触れ合う温もりと、駆け出しそうな互いの鼓動が混ざり合う。  唇が離れると、千春の頬へと触れた惠護の手は、言葉よりも確かな想いを宿していた。  見つめ合うだけで胸の奥が震える。  二人の間に嘘も遠慮も、もういらない……。

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