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第23話

「……ちは」  囁くような声音。  それに応えるよう、千春は目を伏せると、惠護の袖をきゅっと摘んだ。  心臓の音が高鳴る。  惠護に聞こえてしまいそうで、余計に意識して忙しなく脈打つ。  惠護に手を取られると、そのままベッドまで歩いて抱き締められた。  さっきよりも強く、熱っぽい抱擁だった。  言葉を交わさないまま、ベッドに腰掛ける。その間、頭の中は真っ白で、千春はされるがままシーツに背中をつけていた。  口づけが降ってくると、シャツの隙間に指先が滑り込できて、背中がぴくりと跳ねる。  ただ肌に触れられただけなのに、体の奥まで熱が走った。 「ちは、こっち、見て……」  静かな声に導かれて目を開けると、惠護の目に強い光が宿っていた。  いつもの優しさの奥に、今は隠しきれない欲がある。それでも千春は怖くなかった。  再び唇が重なったのは、自然のことだった。  柔らかく触れ合い、ゆっくりと深くなっていく。  唇が離れても、その間に生まれた熱は消えない。 「これからも俺だけを見ててほしい。……ちはを、俺だけのものにしたい……」  掠れた音で言われたその言葉に、千春は小さくうなずいて答えた。  胸の奥が痺れる。惠護の言葉が、触れ方が、千春のすべてを支配してくる。  指が首筋をなぞり、胸元に惠護の指先が触れる。そうされるたびに、小さな息遣いが千春の口からこぼれた。  惠護の指が、唇が、舌が忙しなく動き、千春の中の熱がゆっくり溶かされていく。  言葉にされなくても、快楽の奥にある、惠護の『欲しい』という気持ちが伝わってくる。  千春も同じだと伝えたくて、惠護の首に腕を回した。  もっと触れてほしい。もっと自分を欲しがってほしい。  想いが拙い動きを通じて、互いの体と心を溶かしていく。  二つの息が浅く繰り返され、汗ばんだ肌と肌が触れ合うたびに、熱がどんどん高まる。  密着した体温が上昇すると、もう、二人に言葉は必要なかった。  惠護の指で髪を()かれるごとに、肌の上をその指が滑るたびに、どれだけ逢いたかったか、どれだけこの瞬間を願っていたかを惠護に刻んでいく。 「……ちは。ずっと、触れたかった」  千春の胸元に顔を埋めるようにして、惠護がそう呟いた。  答える代わりに、千春はそっと腕を回してその背中を抱いた。  抱き寄せた体は驚くほど温かく、汗ばむ肌の感触も、性急に刻むメトロノームのような鼓動も、何もかもが愛おしかった。  静かに重なる唇、繋がれた指先──それだけで満たされていく。  急がなくていい。求めすぎなくていい。  今はただ、二人の距離を確かめるように、優しく、深く、結ばれていたい。  心と心が重なった場所に、初めて触れられる感覚。  互いの脆さを知っているからこそ、慎重で、丁寧で、時折震えるような一瞬がいくつも訪れ、肌の下までそれら全てが浸透してくる。 「……大丈夫?」と惠護が心配してくれる。  千春は小さく笑って「大丈夫です」と答えた。  何があっても、この人になら、全部預けられる──そう思えた。  微かな痛みも、くすぐったさも、やがて静かな満足感に変わっていく。  求め合うだけじゃない。  お互いを包み込むような触れ合いに、これまでの寂しさが満たされていった。   「ちは……大好きだ」  世界中で『ちは』と呼んでくれる人は惠護だけ。好きだと言われて、身体中が喜ぶのは惠護だけ。  泣きそうだった。  泣きたくなるほど、嬉しくて、幸せだと思った。 「俺も、先輩が好き。大好き……です」  言ってすぐ、恥ずかしくて惠護の胸に顔をくっつけた。  抱き締める腕が優しくて、強くて。  自分という存在ごと、受け止めてもらえているのがわかる。  長い長い時間を超えて、ようやくここにたどり着いた。  だからこそ、この先、どんなことが訪れても、巡り合わせてくれた奇跡が二人の絆になる。  今夜のぬくもりが、二人を永遠に繋ぎ止めてくれると信じられた。  温かな腕の中で、どれくらい眠っていたのか、千春はふと目を覚ました。  窓の隙間から差し込む柔らかな朝の光が、カーテン越しに部屋を淡く照らしている。  隣では、惠護がまだ静かに眠っていた。  寝息は穏やかで、胸がゆっくりと上下しているのを見ていると、それだけで安心する。  千春はそっと身じろいで、彼の顔を覗き込んだ。  長い睫毛の影、無防備に脱力した表情。  こんな風に、近くで見つめられる日が来るなんて思ってもいなかった。  ふと、瞼の傷にそっと触れてみる。  ──この瞳が無事でよかった……。本当に、生きてくれていて、よかった。 「……夢みたいだ」  誰にも聞こえない声で、ぽつりと呟く。  記憶の中にしかいなかった人。  手を伸ばしても、触れられなかった人。  だけど今、こうして隣にいる。  すぐそばにいてくれる。  呼吸の音も、肌のぬくもりも、全部が『今』を教えてくれていた。  千春は、そっと手を伸ばして惠護の髪を撫でた。  指先に触れる感触がくすぐったくて、愛しさが胸いっぱいに広がっていく。  傷ついて、遠回りをしたけれど、また大好きな人と巡り合えた。  それだけで、過去がすべて意味のあるものに思える。 「まも──けいご、さん……」  大好きな人の名前を呼ぶと、眠っている彼の眉がわずかに動いた。  でもまだ、起きる気配はない。  千春は小さく笑って、愛しい人の額にそっとキスを落とした。  声に出さずに、「好きだよ」と唇だけで形にして、惠護の胸に寄り添って目を閉じた。  隣に惠護がいる。  それだけで、どんな朝よりも、優しくて眩しかった。  葵留とまた巡り合い、再び心を結ぶことができた。   名前が違っても、目や髪型が違っても、そばにいるのは大好きで、大切な人。  再び出会えたこの奇跡を大切にしたい。  小さなかけらのような奇跡に感謝を忘れず、惠護の隣で一緒に未来を歩きたい。  愛しさを超えて、悲しみを捨てて、新しい二人になれるように……。  惠護に寄り添っていた千春の体は、いつの間にか温かな腕に包まれていた。  惠護の唇がかすかに動き、耳元で囁かれた、『ちは』という、特別な響き。  その言葉で、千春の頬を涙が伝う。  愛おしいという気持ちと安らぎ、大切にしたいという思いを、胸いっぱいに満たしてくれる人は惠護だけ。  あのころと同じ香り、同じ腕の強さ、同じ鼓動がすぐそばで息づいている。  戸惑いも笑顔も一つ一つ重ねて二人で過ごせば、もう他には何もいらない。  ──二人でいれば、悲しむことなんて二度とない。  好きの気持ちは、この先、幾重にも重なっていくのだから。 完

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