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chap.1 シリアル・キラー
それは、1962年10月の、満月の夜だった。
写真家のマイケル・ピーター・ホワイト(Michael Peter White)は30代の盛りを過ぎた頃で、イングランド東部にある小都市のハイ・ストリート近くに住み、肖像写真の撮影や、ファッションモデルの写真を雑誌に売り込む事で生計を立てていた。
自宅を兼ねた写真館で撮影するほか、要望を請けて客の家に出向く日もあり、帰り道には首から愛用の小型カメラを提げ、フィルム・パトローネやストロボ、サブ・カメラ、照明用アンブレラなんかを入れたボストン・バッグを手に、背中には畳んだ三脚をかついで帰るのが常だった。
古ぼけた外套に、痩せ型の5フィート9インチ(※約1.73メートル。)を包んだ彼は、ややくすんだブロンドヘアと、透き通ったブラウンアイを持っていた。肌は白く、鼻筋は高く通っていたが、その先はすこしばかり垂れ下がっており、意地悪な魔女か、傲慢な金持ちを連想させた。もっとも、彼自身の興味があるのは、本人の容姿より他人の外見だったが。
その日、マイケルがいつもは通らない道を通って帰ったのには訳があった。
かのゴードン市長(Mr.Gordon)が、彼の腕を買って、上から2番目の愛娘の見合い写真の撮影を申し込んだのだ。彼は市街地のタウンハウスへ出向き、日が沈むまで撮影をして、さらに邸宅での晩餐に招かれていた。
M・P・ホワイトが菜食主義者 であるとは、コックの女性にも給仕係にもきちんと知られていた。ちなみに、発足からまだ20年と経っていないヴィーガン協会の会員も同席していた。
黒いぴかぴかのハックニー・キャリッジが市街地を抜け、リベラ・ストリートまで彼を送り届ける頃には、午後11時を回っていた。写真館と現像所を兼ねる自宅までわずかでも近道をして帰ろうと、ひとけのない河沿いの小道を選んだのだ。
あまりなじみのない道を歩く彼の手元にはいくつかの撮影用の機材があり、自慢のドイツ製カメラの中にはフィルムが入ったまま、カメラの横にはグリップ式ストロボが取りつけられたままになっていた。
柵の向こうに、1本の河が通っている。サン・フラワー・ロードからサード・ストリートに続く石造りのアーチ型の橋が渡された狭い河だ。静かに、だが確かに動き続ける水面は、月の光を崩さずに流れていた。
その河沿いの細い道はリベラ・ストリートの裏手で、似たり寄ったりな形のテラスドハウスの庭に面していた。どの家の庭もあまり手を込められたとは言えず、特に夏には誰も近寄らぬような有様だった。表向きの旧く美しい街並みにはそぐわぬ悪臭が河からただよい、その水面の下には伝染病の菌さえひそんでいたからだ。
そこに差しかかった時、マイケルは衝撃的な光景を目の当たりにする事になる。
殺人現場だ。それもかなり凄惨な。
ところどころ隙間のあいた石畳に血だまりが広がり、その中に高齢の女性が横たわっていた。スミス夫人(Mrs.Smith)である。
華奢を通り過ぎ、骨と皮だけになったような体を品の良い毛皮の外着に包んだ彼女は、近隣では指折りの資産家スミス氏の妻だった。名前をヘレン(Helen)といい、前年に寡婦となってからは夫の遺産を引き継ぎ、時間を持て余していたところだ。
血だまりのそばに、1人の男が立っているのを目にした時、マイケルは鳥肌が立つのを感じた。まさしく生と死。その境界線が、くっきりとした形で、不意に目の前に差し出された気分だったのだ。
「ああ、何てことだ……」
マイケルは思わず呟いてしまった。
それを聞きつけた男が振り向いた。満月がちょうど街の上を通り過ぎようとしている頃だった。
男の後ろから影が差し、路地裏を作る壁にへばり付くようだ。その光景は、さながら悪夢か、ホラー映画のポスターのようだった。
もじゃもじゃのカーリーヘアから、鋭い眼光が覗いた。ナイフのようにぎらついており、それがたった今、この血だまりを作るにいたったのだとすぐに分かった。
(ジョー・ブラックだ!)
マイケルは心の中で叫んでいた。
ジョー・ブラック(The “Joe Black”)とは、4ヶ月ほど前から世間を騒がせている連続殺人鬼 だ。満月の夜になると現れ、身なりのいい高齢の女性を襲撃する。金品の強奪を目的としているのは明らかだったが、足取りはなかなかつかめない。市や町を転々と移動しながら、逃走していたのだ。
隣町での被害が出た頃から、マイケルの住む地区でも警官の姿がよく見られるようになった。黒いぴかぴかの丸い帽子を被り、胸の部分が張り出したそろいの服に警棒を携えた、おもちゃの兵隊のような彼らは、広場にある機械じかけの時計のように交代で職務に当たった。やはり人形のように決められたルートをパトロールしたり、聞き込みをしたりするばかりだった。
目撃証言にあったダークカラーの髪と瞳、黒っぽい服装から、捜査では“正体不明の男”ジョー・ブラックと呼ばれ、その名は新聞にも掲載されていた。身の丈はおよそ6フィート(※約1.83メートル。)で、例えるなら大きな影のようだとされていた。
そのような男が、目の前にいる。先刻まで人間だった肉体を傍らに転がして。
その時のマイケルの心境と言ったらなかった!
さらに、なんとジョーは大きな体をゆっくりと向けたかと思うと、腕を振り上げて走り出した。口封じのために、目撃者であるマイケルに切りかかったのだ!
マイケル・ホワイトはほとんど反射的に、首から提げたカメラを取り、レンズキャップを払いのけていた。
放り出されたボストン・バッグが舗装された地面を滑る。
カメラボディにはグリップ式の小型ストロボが装着されたままになっている。それを左手で握り、右手の人差し指でシャッターボタンを押した。
レッドダイヤルと連動し、直視すれば目を突き刺す閃光弾のような、強烈な白い光が走った!
「うっ!」
ジョー・ブラックのそんなうめき声を聞いたのは、後にも先にもマイケルただ1人だったかもしれない。
光に目が眩んだジョーは思わずのけ反り、その場に立ち止まった。
開いたシャッターの中に構えていたフィルムの感光剤が反応する。正体不明の男 の“影のような”虚像は、くっきりと焼き付けられた。
マイケルはすぐさま地面を蹴って駆け寄ると、顔を隠しているジョーの腕を片手で強くつかんだ。対象物の大きさを正確に捉えるには、レンズとの距離をきちんと測るべきだ。
肉眼で捉えたジョー・ブラックは、目撃証言にあった6フィートをさらに2.5インチ(※約6.4センチメートル。)も上回る大男だった。暗幕のようなだぼだぼの服で覆い隠しているが、体重200ポンド(※約90キログラム。)もありそうな、がっちりとした体格だ。
「君を探していた!」
叫んだのはマイケルだった。
まだ光に慣れないジョーは、強くまばたきをしながら、
「やめろ!」
と怒鳴り、身をよじった。
この瞬間にはすでに、ふたりは初対面にも関わらず、話の通じる相手ではないと、お互いに分かり切っていた。
だがマイケルはナイフを持った手首を離さなかった。
「待ってくれ。警官に突き出したりしない」
「うるせえ! 離せ!」
ジョーがまた怒鳴った。色の濃い肌だった。眉間にしわを寄せ、ずらりと並んだ尖った歯をむき出した、険しい表情だ。
「俺はお前も殺すぞ! お前は見るべきじゃねえ物を見たんだからな!」
「ああ、見たとも。おまけに写真も撮った」
マイケルから冷静に返されたジョーは、一瞬、ひるんだようだった。
月の下で目が合う。もじゃもじゃの前髪の隙間に据えられた両眼は、光を放ちそうなほどはっきりとした黒と白のコントラストを持っていた。
射抜くような視線に、マイケルはますます興奮を覚える。
「今、ここでこの手を離して君を逃がしたとしよう。だが私には決定的なフィルムがある。これから家に帰って現像し、プリントする。それをやる気のない警察に持って行けば私は捜査に貢献した名誉ある市民だし、ゴシップ好きな新聞社に持って行けば私は勇敢な写真家だ」
残念なことに、まくし立てるように話す調子と胸の高鳴りが一致していないと、マイケル本人は知らなかった。それを聞いたジョー・ブラックがとても不気味な物を見るような目を向けたとしても、気がつけなかったのだ。
ついでに言うと、マイケルは細身であったが、たった今人を殺めたばかりの気が立った獣を封じるだけの力まで持っていた。ジョー・ブラックがマイケルより体格こそ大きく、太い腕を持っていたとしても、食い込む力に顔を歪めてしまったほどだ。
「……何が言いたい」
ジョーが低い声でうなった。手を振りほどこうと抵抗を試みながらも、マイケルの眼を見る事はできないようだった。
「私はこの町で人物写真を請け負う写真家だ。商業誌に寄稿する事もある。だが本当に写し取りたいものは、撮れていない。撮れない事になってるんだ」
マイケルはまばたきひとつせず、ひと息で言った。自身が蝋人形よりも表情のない顔つきになっているのにも、それをシリアルキラーですら不気味に思っているのにも気がつかずに。
「君の──いや、君が所有しているその死体の写真を撮らせてほしい」
「何だって?」
ジョーの方が頓狂な声を上げた。
思わず聞き返してしまうくらい、マイケルの申し出が意外だったからだ。奇妙な申し出はさらに続いた。
「警察なんかに突き出さないと言ったはずだ。この死体を持って、まずは家 へ。金が必要なんだろう? 私は独身だが、1人以上が食べていけるだけの収入がある。誰も立ち入らない暗室もある。だから君を匿ってやる事もできる」
「待て、勝手に決めるな! 何なんだお前っ! 気味が悪い!」
異常犯罪者として知られるシリアルキラーさえ気圧 されていた。口を大きく開けてわめき、腕を振り払おうとする。
だがマイケルは決してくじけなかった。
「写真家だと言っているじゃないか。ああ、嘘じゃない! 腕には自信がある。何せ市長の2番目のお嬢さんの見合い写真を撮ったくらいだ」
「そんな話、してねえ……」
ついに、ジョーの語気がすこし弱まった。
「次の選挙の時には、父親の方の肖像写真も撮るだろう」
マイケルは得意げに言い、ようやく手の力をゆるめると、いかにも汚らわしい物を落とすように両手を払った。
「次期もゴードン氏か、あるいはメイヤー氏になるかは、私の知った話じゃないが」
「くそっ。なよっちいくせに、なんて力してやがる……」
ジョーは解放された腕の具合を確かめ、痛みにしかめた顔で睨みつける。ナイフのように鋭く光る眼と牙は手負いの獣そのものだが、細身な相手を前に、背を向けて逃走するという選択肢は持っていないらしい。
そんなジョーを、マイケルはすっかり手中に収めたように冷静に、それでいて尊大にふるまった。
「私の家はサード・ストリートにある。この橋を渡ってすぐだ」
それから石畳に転がった夫人の遺体を指差すと、当然であると言うように、あっさりとした調子で続けた。
「君の“荷物”だ。忘れずに」
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