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chap.2 スラント・スタジオ
当時、ホワイト氏は6棟が連なったハーフティンバー様式(※テューダー朝時代の代表的な建築様式。外観からブラック・アンド・ホワイトとも。)のテラスドハウスのいちばん端の区画で写真館を経営し、その1階にたった1人で暮らしていた。2階のスタジオで人物写真を撮り、地下に作った暗室で現像するのだ。現像にはもっぱら、酢酸液を使った。
そんな芸術の求道者マイケル・P・ホワイトは、抵抗するジョーを説き伏せたばかりか、死体をかつがせると、サード・ストリートにある家へと急いだ。急がなければならない理由があった。
言いくるめられた“シリアルキラー”のジョー・ブラックには、なぜ自分がこんな目に遭っているのか、またこれから何をさせられるのか、まったく分からなかった。人は、自分が抗えない運命の輪に巻き込まれていくのを、理解していない場合が多い。
「ひとまず“それ”──いや、婦人をこちらへ。すぐに準備をしよう」
マイケルは家に入るが早いか外套を脱ぎ、玄関の帽子掛けにかけて、壁のランプを点けた。
彼はこの町の生まれでも、上流階級 の生まれでもなく、シルクハットをかぶってステッキを持つなどの格式ばった習慣もなかった。何世紀も前にその家に造られた小さなクローゼット式のシルクハット置き場は、仕事道具のストックを保管する倉庫として使っていた。
そして玄関からすぐの階段を上がり、ジョーに命じて“それ”を2階のスタジオへと運ばせたのだ。
この時、血痕が河沿いの道から写真館まで続いていたとすれば、マイケル・P・ホワイトという写真家生命はすぐにでも途切れていたに違いない。
だがそうはならなかった。血の跡の方が先に途切れたのに加え、明け方にかけて降った雨でそれすらも洗い流されていたからだ。
「ああ、くそっ。どうして俺がこんな事を……」
死体を2階の床に転がしたジョーは、膝に手を置いて、悪態をついた。愛用のバリソン(※タガログ語で蝶の意。ここではバタフライ・ナイフのこと。)も右手に握ったまま、死をも恐れぬ初対面の変人について来てしまったのである。
服には血が染 み込んでいたが、黒いシャツにズボンであったため、見た目には分からない。ただぬめぬめと濡れた感触があり、汗とまじって、区別できなくなっていた。
着の身着のままのジョーに対し、品の良いシャツを着て濃紺のスラックスを履き、ベルトを締めたマイケル・ホワイトは、手際よく撮影の準備を進めていた。階段下からの照明と、スラントスタジオ特有の北向きの天窓から入ってくる光が、彼の顔を浮かび上がらせた。汗ひとつかいておらず、涼しい顔をしている。
ジョーはそれが気に食わなかったに違いない。呼吸を整えると、姿勢を起こし、足音を忍ばせてマイケルに近づいた。
部屋の隅に几帳面に並んだ機材から何かを選んでいる背中に、ナイフを振りかぶる。
と、踏み込んだジョーの足が何かに当たった。金属製品が倒れ、床にぶつかる大きな音がする。
次の瞬間、ホワイト氏が後ろを向いた。
「ああ、そんな所にあったのか。気がつかなかった」
彼は感嘆の言葉を口にし、前かがみになってジョーの視界から消えた。
ジョーが倒してしまったのは、アンブレラホルダーを接着するライトスタンドだった。
ナイフを向けられていた事にも気のつかないマイケルが、どのような幸運の星の下に生まれたのかは、我々の知るところではない。
中腰になって床からライトスタンドを引き起こし、がちゃがちゃとやかましい音を立てて機材を組み立てる姿に、ジョーは争う気を失ってしまった。
「……2人分の食い扶持 があっても電気も引けねえのか。写真家ってのは、俺と同じ、貧乏なんだな」
傍にあったフリンジ付きのスツールに腰を下ろし、ため息まじりに言った。階下には照明が点っているが、彼なりの精一杯の皮肉のつもりだった。
「普段は夜間に撮影なんてしない。人物は自然光の下で撮るのがもっとも美しいと、多くの写真家が言うものだから、世間でもそれが一般常識だと認識されている。そのせいで遅い時間に客は取れないんだ」
ホワイト氏はやはり一辺倒な調子で反論した。
「市長の邸宅のように、家の中に多くの照明器具がある環境ではまた例外だが。今日のあのお嬢さんの服装──ドレスの色ときたらなかった。カラー写真にしなくて正解だ」
そこで一度言葉を切り、振り向いたかと思うと、
「何を暇そうにしているんだ!」
と、ジョーに向かって怒りを顕にした。
「早くここに“それ”を運ぶんだ! 死後硬直が始まって死斑が出始めたら、せっかくの新鮮さが損なわれるじゃないか!」
スタジオの中央を指差し、怒鳴り散らした。
あまりにも理不尽に、だしぬけに怒り出したように見えるが、実はマイケルはずっとジョーに苛立っていた。撮影スタジオにいながら、被写体が刻一刻と劣化していくのをただ座って見ているだけの役立たずなのだから。
「……何言ってんだ? お前」
ジョーが怪訝な表情で聞き返すと、
「私の名はマイケル・ピーター・ホワイト。ピーターのPはphotograph のPだ」
彼は機械の自動音声のように言った。本人の意思より、口が勝手に動いてしまう。そんな口癖だった。
いよいよ気味が悪くなったジョーは、ナイフを畳んでポケットにしまい、いったんは自分の考えを捨てて、相手の言うことに従う事にした。
襲いかかって殺しもできず、かと言ってこの場から恐れをなして逃げ出すのは、彼の若い自尊心が許さなかった。
第一声から得体の知れない男だったのである。死を恐れないばかりか、むしろ興味を示し、ましてそれを写真に撮るなどという行為は、シリアルキラーとは別の道筋を辿って、死に近づいているようなものだ。
「……バーカーズに頼めばいいものを」
ジョーは部屋の中央、床まで引き伸ばされた背景用のスクリーンの上に、ヘレン・スミスの遺体を引きずっていった。
彼の口にしたロンドン・バーカーズ(The London Burkers)は、1830年代に、死体盗掘とそれに見せかけた殺人を行なっていたギャング団のひとつだ。
まだ解剖法が成立していなかった当時、検体の不足に頭を悩ませた解剖学者から金を受け取り、墓地に埋葬された死体を盗み出すのは、法の抜け穴的ビジネスだった。死体は、(身につけている服飾品を除いて)誰の財産でもないと定義されていた。
彼らには“新鮮な”死体が必要だった。時間が経つにつれて筋肉が弛緩すると、形が損なわれ始める。顎が落ちて口が開き、目玉がこぼれ出し、とても解剖に使える状態ではなくなっていくからだ。
やがて、売買された死体に埋葬の形跡がなかったために、彼らの違法な殺人が明るみに出た。
1832年、彼らと同様の手口であったスコットランドのウェストポート連続殺人事件によって、解剖法は想起されたと言える。
「いったい何年前の話をしているんだ?」
ホワイト氏は、スタジオに備えた巨大なアスコフラッシュや複数のアンブレラの準備をして、真っ白な照明を焚いていた。バックスクリーンの上でぐったりとあお向けになった死体を、四隅から照らす形になる。
強い明るさに照らし出されたジョーは、急いでそこから飛びのいた。また同じ痛みに遭っては堪らない。
「完璧だ !」
Pから始まるミドルネームを持つ彼は、堪らなく感動して声を上げた。写真のこととなると声が大きくなるのも、周囲が見えなくなるのも、本人は自覚していなかったようだ。
先ほどジョーが座っていたのとは別の、四角い座面で四本脚の椅子をひっぱってきて死体の横に置き、座面の上に乗って撮影を始める。
使用するのは、仕事に使ったのとは別の、二眼レフカメラだ。上からファインダーを覗き込む旧型で、彼の個人的なコレクションと呼んでもいい代物だった。
「ああ! 夢のようだ!」
ファインダーを覗いただけで、ホワイト氏はこれまでにないほどの高揚を覚えた。
ずっと欲していたもの、それも窮屈な世の中ではご禁制とされているものに、手を出してしまった。手を出す事ができた。もし豊かな想像力があれば、そんな喜びを想像してみるといい。(今、まさしく天にも昇る気持ちだったはずだ。)
腰までの高さしかない木製の椅子に乗って、彼は間違いなくファインダー越しに天国を覗き見た。つい今しがた、ライトスタンドに命を救われたばかりとも知らずに。
アンブレラもしくはソフトボックスに反射させた柔らかな光による陰影は、確かに被写体の魅力を引き出すだろう。スラントスタジオを使用する晴れた昼間の撮影、ないし多くの写真家たちの技法は、いたってシンプルだった。
しかし、芸術写真家としての一歩をついに踏み出したホワイト氏は、白い光を直接的に対象に当て、くっきりとした影を作っていた。すなわち白と黒の二元化を図ろうとしたのだ。
この強すぎる光のせいでジョー・ブラックの眼は眩んだわけだが、今はもう見るに堪えない悪魔崇拝的な行為すら直視してしまえた。
昼間は明るい光を採り入れるスタジオも、今宵はこの不気味な儀式のための舞台だ。撮影用の白、灰色、黒といったバックスクリーンには、結界を張るような怪しげな模様が描かれていてもおかしくなかった。
「いかれてるな」
ジョーがあざ笑うようにつぶやいた。たった今、殺人を犯したばかりの口から出たにしてはとても真っ当であり、また説得力がない。ジョー・ブラックと呼ばれる男は、そんな矛盾を気にするほどの賢さを持っていなかった。
「よくそんな言葉を知っているじゃないか。遅れた自己紹介かい?」
ホワイト氏は自身を侮辱されたと憤りもせず、淡々と挑発を返した。まるでレンズから見える世界以外にはほとんど興味が無いと言いたげに。
「少年だった頃の私が知ればさぞ喜んだろうに。“彼”がもう居ないのが残念だ」
「……おかしいのは生まれつきか、お前も。まるで悪魔だ」
ジョーが愉快そうな笑みを浮かべたのに対し、その視線の先にいる“頭のおかしな”写真家は、
「いいや、それは違う。はっきりとは憶えていないが、少なくとも生まれつきじゃない」
とはっきり否定した。
「私が初めて死体を撮影したいと思ったのは親族の葬式だからだ」
それを聞いたジョーは笑みを消した。
「……おかしい自覚があってやってるってのか?」
その問いに対するホワイト氏の答えは、こうだった。
「私はもちろん、私がおかしくないと思っている。だが私以外には、私のやる事をおかしいと感じる者がいるとも知っているだけだ。君のようにな」
さらに、自身の経験を語っているとは思えない、他人事のような口調で続ける。
「私は彼を愛していた。なぜ会えなくなってしまったのか、彼の姿を永遠に残しておく事ができればと考えた。そんなところだ」
そして椅子から降りると、今度は死体の反対側に回り込んだり、カメラをスタンドに載せてみたり、さまざまな角度から理想的な構図を探り始めた。
1階に続く手すりに腕を乗せてそれを見ていたジョーが、また尋ねる。
「そいつの遺影写真はどうしたんだ?」
「期待しているほどハンサムではなかったさ」
「…………」
ジョーは頭痛がするのを感じた。外に降り始めた雨のせいではなく、このマイケルと名乗る男の、傲慢かつ会話を成立するつもりのない態度のせいだ。
「わざわざ死体を撮る必要なんかねえじゃねえか。気味の悪い」
「遺影写真とは生前の写真だ。そんなことも知らないで写真館に来るなんて──ああ、話している時間はないんだった。撮影の邪魔をするんじゃない」
ホワイト氏は1度として振り返らず、ときどき神経質そうに爪を噛んで、芸術的な画角を追及し続けていた。
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