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chap.3 ハングマン・ゲーム

やがて、12枚の“悪魔的な”撮影を終えたホワイト氏は照明を落とし、巻き戻したフィルムをカメラから抜き取って、スラックスの右ポケットにしまった。そしてまた薄暗い中で、カメラやストロボ、露出計なんかを几帳面に元の位置に並べ直した。 「今日はどんな満月かと思っていたが、この私の写真家人生を変える、歴史的な日になるだろう。ああ、間違いなく」 満足げに独り言を言いながら、手すりに手を滑らせて階段を降りていく。この時の彼の胸の高鳴りは、誰にも共感できるまい。“悪魔のような”シリアルキラーが、呆れた顔をしてついて来るのすら気にしていなかった。 写真家マイケル・ピーター・ホワイト氏について語るにあたり、欠かせない点はいくつかある。特に、死への興味関心は、彼の人格形成、ひいては人生そのものに大きすぎる影響をおよぼしていた。 これはまだ、マイケルが彼の母から“わたしのかわいいマイキー”と呼ばれていた頃の話である。 彼の住んでいた家の庭には大きなセイヨウハシバミの木があり、彼はそこに人の死体がくくりつけられているのを目にした事があった。 それは彼の大叔父にあたるピーター・ジョン・ホワイト氏(Mr.Peter John White)の死体で、彼はどうやらどこにでもあるロープとバケツを使って、首吊り自殺をしたようなのだ。 ピーターは、マイケルの父方の祖父のきょうだいで、いちばん若い弟だった。長男とは20も離れていた。 彼は2頭の馬、8頭の牛、10頭の豚、そして算数の苦手な子供には数えきれない鶏を飼育する牧場を持ち、マイケルというファーストネームの名付け親でもあった。大人になったM・P・ホワイトが何より好む“P”の文字、およびそのミドルネームさえも元はと言えば彼のものだったのだ。 かわいいマイキーはよく彼の牧場に遊びに行き、馬の背に乗せてもらったり、牛の乳しぼりを手伝ったり、まだ温かくて血の付いた卵を集めたりした。そういった場所には必ず生と死が隣り合わせで、子供たちの情操教育の一環として、マイキーの両親を含めた親戚が集まる日も多かった。 そんな暮らしの中、不幸なピーターは、その身をもって子供に死という存在を教える結末を迎えてしまったのである。死因は頚部圧迫による窒息死だが、そこにいたるまでの経緯は誰も知らない。また、なぜ場所が自分の牧場ではなく、マイケルの家の庭だったのかも、幼いマイキーやそのの子供たちには知らされなかった。 しかし、この件がきっかけで、かわいいマイキーの少年らしい無垢な心に、目には見えない傷や痛みが芽生えたのは明らかだ。子供の心というのは、コロジオンを塗ったガラス板よりも繊細だった。(※撮影技法の(ひとつ)、湿板写真に用いる感光剤とネガを得る湿板のこと。) 名前を2つも与え、栗毛の馬の背に乗せてくれた大好きな大叔父がだらしなく手足や首、目玉と舌を投げ出し、人としての尊厳と神の意思に背いた魂まで放棄した。その様子は、まるで湿板写真のように、セイヨウハシバミの木とともに記憶に焼き付けられてしまった。当時からクリアだったブラウンアイを通しても、焦点距離を考慮しても、10秒もあれば、露光時間には充分だったのだ。 その後、急いで彼の目を覆った母のホワイト夫人が、葬儀の際、亡くなったホワイト氏の棺に取りすがり、血の繋がった家族以上に悲痛な声で泣いていたのも、かわいいマイキーの心を曇らせた間接的な原因かもしれない。 幼い彼と彼を取り巻く環境は、その時すでに、もっと言えば彼が生まれる以前から、ねじれ始めていたのである。 1階のダイニングにて、被写体の処分について話しながら、マイケル・ホワイトは初めてジョーの容姿をじっくりと観察した。カメラは2階に置きっぱなしだったが、さながら2つの瞳孔でフォーカスを合わせてシャッターを切り、大叔父の死体よりも鮮明に記憶に記録していくようにした。 「友人に医師が居るんだ。ドクター・ロバートを知っているだろう。この町の名医だ」 癖の強いもじゃもじゃのダークヘアは首の長さで物騒に切られ、顔の周りに巻きつくように輪郭を隠していた。 「知らねえ」 と、白と黒のコントラストのはっきりとした眼が髪の中から睨んでくる。 「そんなはずがない。医者にかかった事がないのか?」 前髪から突き出した鼻筋から繋がる小鼻や、吊り上がった眉の尻が動く。 「俺はこの町にも長居するつもりがねえからな。怪我や病気をして、野垂れ死ぬならそれまでだ」 そう答える度に、ナイフの切っ先のように尖って、ずらりと並んだ白い歯が、色の濃い唇から覗いた。 「生まれはどこだ? この辺りの人間じゃないんだろう。君の噂が聞こえ始めたのは4ヶ月前だ。そんな汚い身なりで色んな場所を転々として、何を探している?」 着の身着のままの、汚れた黒いシャツと黒いズボンには何度も血がにじんでいるに違いない。 「それに答える理由も俺にはねえ」 全身に黒をまとった正体不明の姿はまさしく“ジョー・ブラック”の名にふさわしかった。 「確かに。では話は終わりだ」 マイケルはあっさりと納得してしまった。ジョーの言い分には筋が通っていると思ったからだ。何者も、何者からも過度に干渉されるいわれはない。 「ロバートに死体を引き取ったと言えば、警察に回すなり、教会で(ほうむ)るなりするさ。死体について聞いただけで解剖学を勧めてくるような頭の固い男だが、こういう時は相談に乗ってくれる」 やはり淡々とした物言いで、マイケルは話の軸を戻し、天板に手を突いて立ち上がった。撮影に夢中になっていたが、夜も更けて、就寝の支度をする時間だ。 「……おい、お前。人殺しに興味があるのか?」 ずっと質問に取り合わなかったジョーが、おもむろに質問をした。 マイケルはシャツのボタンを外しながら向き直る。 「とんでもない! 私の興味があるのは死体だ。人を殺す事にも、殺した人間にも取り立てて興味は──」 そこで彼は、ジョーがこれまで見せなかった表情を浮かべているのを見た。 鋭さが消え、何かを欲しているようだ。それは人を殺す行為、あるいは殺人を犯した者、マイケルの興味がどちらにあるのか、その答え以外の“何か”らしい。 ここでマイケルは、ジョーがまだ成人年齢を迎えたばかりのように若いのに気がついた。血気、騎馬兵隊への参加が認められる21歳くらいだとすれば、自分とは15も離れていることになる。 「──いいや、訂正しよう」 シャツの前を開いたマイケルはまた天板に両手を突いて、座ったまま動こうとしない若者に向き合った。 「実を言うと、ジョー? 私は君についていくつかの事実に興味がある。いくつかだけだ」 この回答が、孤独に逃亡を続ける彼を満足させるには充分すぎるほどだとは、誰も知らなかった。それを口にしたマイケルはもとより、ジョー本人すらも。 一説によればM・P・ホワイトという男性は、他人に深く共感したり、誰かを思いやるあまり嘘を口にしたりするような性格ではなかったらしい。彼にとって重要なのはつねに主観的な価値と、客体的な美しさだった。 しかし、どういったふるまいを望まれているかを察するのは得意で、それは客商売をするにあたって、一種の才能か特技とも言えた。撮影時には、撮影者と被撮影者、互いが協力する必要があるからだ。 マイケルはつんと顎を上げて尋ねた。 「まず1つ、私は君の動機が知りたい。それさえも答えないと言うのなら話は終わりだ。私は奥にある寝室で眠る。君は地下の暗室を好きに使うといい。窓は無いからいくらでも朝寝坊できる」 彼の話しぶりは時として、枝葉が多い場合もあれば、結末を急ぎ過ぎる節もあった。 「動機は……俺にも分からねえ」 意外にも、ジョーは答えた。それまで答えたがらない様子でいたのは、答えたい質問が来るのを待っていたからかもしれない。そう捉えてしまうほど、素直に、正直に。 もじゃもじゃ頭を上げ、マイケルの顔をすこしだけ見る。 「俺は周期的におかしくなるんだ。どうしようもない衝動が突き上げてきて、誰かにそれをぶつけないと、自分が自分じゃなくなっちまう」 「2つ目の質問をしよう。その手段がどうして殺人なんだ? さあ、この答えが君の動機だ、ジョー・ブラック」 マイケルは取調官よりせっかちに、いんちきなセラピストのように尋問した。 「俺がこんな風になったのは4ヶ月そこらじゃねえ。もっと前からだ。ただ、あの頃は人を殺すつもりなんてなかった。本当だ」 取り調べを受けるジョーの説明は、質問に対する直接的な返答ではなかった。 マイケルが首を傾げる。 「ロバートに受診の申し込みを?」 「断る。癪狂院で鎖に繋がれて過ごすなんて、俺はまっぴらだ」 シリアルキラーの口ぶりは、異常をきたしている自覚などとうにある、とでも言う様子だった。 なかなか思い通りの回答が得られないマイケルが、やや語気を強める。 「4ヶ月以上前からの君の行動をいちいち聞かないと、殺人の動機にはたどりつけないのか? こんな難解な“ハングマン・ゲーム”に参加したつもりはない!」 (※これはマイケルなりの洒落であり皮肉。ジョーへの質問と回答の経緯を、吊るされた人の絵を完成させる2人用の言葉遊びゲームになぞらえている。) さらに、机の上に身を乗り出し、ますます早口になって詰め寄った。 「盗みか? セックスか? 橋の上に立って水面を眺めている時か? あるいは闘牛の前に立って赤い旗を振るほどのスリルが無ければ満足しないのか?」 「俺にも説明できねえって言ってるだろ! やっぱりお前も殺してやる!」 ジョーがいきなりわめき、立ち上がった。 だが、その剣幕にも、振り上げられたナイフが照明を反射するぎらつきにも、マイケルは動じなかった。 「では、セックスはした事がない、と?」 一点を凝視するように、ジョーの顔を見上げていた。興奮した相手をなだめるより、知らぬ間に始まったハングマン・ゲームを終わらせる方が、彼にとっては先決だったからだ。 またしてもジョーは、そんなマイケルに気を散らされてしまう。 「くそっ」 吐き捨ててナイフを下ろすと、わざとらしく乱暴な音を立て、椅子に座り直した。 「……そうは言ってねえ。むしろ前まではそれで自分を抑えてたんだ。でも最近は、それじゃ足りなくなった」 真正面ではなく、体の中心を隠すようにして打ち明ける。 「最初は喧嘩だった。酔っ払った男が俺をなじってきて……。いつからか人を殴るだけじゃ足りなくなった。男を殴るより女と寝る方が、気分がいい。皆、そうだろ?」 マイケルは視線を落とし、納得したようにうなずく。 「それで、ティモシー・コートの娼婦らは殺さなかったのかい。ジャック・ザ・リッパー?」 引き合いに出したのは、1888年から1891年にかけて、ロンドンのイーストエンドで恐れられた伝説のシリアルキラーだ。 彼(一説によれば彼女とも)は、悪名高く不潔で最低と呼ばれたホワイトチャペル地区にて、ジャック・ザ・リッパー(Jack the Ripper)の名が示すように刃物を使い、貧しい娼婦をつぎつぎと殺して内臓を抜き取っていた。その衝撃性と話題性があまりに強く社会的関心を呼んだために、地区の劣悪な衛生環境にまで注目が集まり、改善されたほどだ。 数名の容疑者が逮捕されたが、真犯人はいまだ謎に包まれている。 なお、ティモシー・コートとは、当時マイケルが住んでいたサード・ストリートからやや離れた、娼館と娼婦が立ち並ぶ一角を指す。貧しい者も多かったが、19世紀のホワイトチャペルほどではなかった。 「俺はジャックじゃねえ」 ジャックと呼ばれたジョーは椅子の背に腕を乗せて返事をした。 「これは失礼した。ジョー・ブラック?」 今度は肩をすくめ、馬鹿にした態度で詫びる。ジョー・ブラックに、いちいち腹を立てる気さえ失せさせるように。 「それも勝手に付けられた名前だ。皆、好き勝手に俺を呼ぶ」 「どのみち本名は言わないんだろう? 私のことも信用していないから」 「当然だ──」 顔を上げて言い返しそうになったところを、マイケルは手でさえぎった。 そして、さも、自分は何もかも理解しているという風に言ったのだ。 「ああ、結構。その代わり、私も好きに呼ばせてもらおう。パンプキン・パイ」 これが、すべての始まりだった。

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