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エピローグ
ジョー・ブラックによる連続殺人事件から7年後、くだんの写真集『私のパンプキン・パイ』は発表された。
自費出版であったため発行部数も限られており、マイケル・P・ホワイトの遺作とも呼べるその写真集は、またたく間に完売となった。
すでに忘れられていた事件だが、やはり1度は世間を震撼させたとあって、話題性は抜群だったのだ。噂が噂を、謎が謎を呼び、マス・メディアもこぞって取りあげた。
報道に際して過激な被写体にはモザイク処理が施されたものの、あれだけ人の目に晒されれば、物議を醸すのも無理はない。
しかしながら、この世で起こる物事が1つの視点からの善悪で測れるほど単純でないことは、公衆風俗が売春によって保たれ、公衆衛生が殺人によって見直され、公衆便所が猥褻行為に及ぶ場となった数々の実例からも証明済みだ。
芸術の求道者マイケル・P・ホワイトは、公衆道徳の壁をみごとに打ちやぶった!
彼は使命感に駆られ、愛する大叔父の自殺、精神の病、貧窮した生活といった苦しみを乗り越え、生涯と文字通り命を懸けて、人の心を打つ表現に成功したのだ。
白と黒の二元論に閉じ込められた者には理解しがたいだろうが、ジョー・ブラックと呼ばれた男、そしてその魅力と残忍性を鮮明に映し出した写真の美しさは正真正銘で、多くの芸術愛好家や批評家ぶった野次馬をうならせた。
芸術の前には、常識や倫理など、なんの価値も持たなかった。
我々が気にかけるべきは、もっと別の点ではないだろうか。
たとえば、押収されたはずの、印刷所に持ち込む事すらためらわれるその写真──偉大な父の顔も知らぬマイケル・ジュニアたち──が、いったいどのような経緯で、誰の手によって公開されたのか?
また、写真集は何を目的として出版されたのか?
それにはいつくかの説がある。
中でももっとも有力なのは、ドクター・ロバートだろう。彼は死因審問に呼ばれなかったが、善良な市民の味方であると同時に、マイケル・ホワイトの無念を知る唯一の存在だ。最後に届いた手紙は、彼の遺書とも言える。
不明の差出人が熱狂し続けた“同居人J”または“私のパンプキン・パイ”がジョー・ブラックを指すと知ったロバートは、医学の権威と亡き友人から託された遺志をもって、実に7年もの歳月をかけて、発行にこぎつけたのではないだろうか。
写真集の中表紙には、医師としての責任感を裏づけるこのような文章が添えられているのだ。
『この売り上げは、ミシェル・アンド・アヴリーヌ基金に。
彼女は抗いがたい宿命をその心臓にかかえて、フランスに生まれました。』
ミシェル・ルブラン(Michelle Lebrun)という名の女性はどこにでもいるが、これはある1人の孤児院育ちの少女のために創立された基金だ。
1954年9月29日、彼女の母は難産の末、出血多量で亡くなり、彼女自身も生死の境をさまよった。また、生まれつき心臓の弁の形成が不完全だったため、何度かの手術を必要とした……。
善良で模範的な市民であれば、つらく、孤独で、痛みをともなう入院生活を送る子供を支援する基金を目にした事があるだろう。その1つである。
皆が秋の収穫を祝い、ガチョウのローストを食べる聖ミカエルの日に生まれたミシェルは、寄り添い、導いてくれるはずの両親の顔さえ見た事がないのだ。
“マイケル・ジュニアたち”は、男性同士のマイケルとジョーが秘密めいた違法行為を通して作り上げ、生み出した子供と解釈できる。
思いがけない形で世に放たれ、称賛を浴びた彼らは、顔も知らない少女の命を救い、人生に希望を与えた!
孤児院を出たミシェル・ルブランは、その意志を継ぐかのように、ドーバー海峡の向こうにあるアーツ・カレッジにて、“Pから始まる”Photograph Program の、“Mから始まる”Master 取得を目指している。
──偉大なる遺伝子の導きに従い、名前の綴りをLebrun (茶色)から、Leblanc (白色)に変えて。
最後に、実名での掲載を許可してくださったヘレン・スミス、コーリン・ドナルドソン・エヴァンズ、スティーブン・テイラー・“スティーヴ”・アンダーウッド、彼らの遺族に深く感謝するとともに、この凄惨な事件の犠牲となったすべての人に祈りを捧げます。
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