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chap.13 ジョー・ブラック
11月下旬の夜、寒い暗室の床に横たわっていたマイケル・ホワイトは、突如として、素晴らしいアイデアを思いついた。天才にありがちな天からの啓示さながらに、インスピレーションを受け取ったのだ!
興奮のあまり、体に乗っていた重い腕を払いのけ、隣に寝ていたその腕の持ち主を叩き起こしたほどだ。(この時期のジョーはマイケルがすこしでも安心できるよう、そしてすこしでも体を休められるよう、包み込むように腕を回して眠るのが習慣になっていた。)
「ジョニー! ジョナス、いいや、ジョシュ! そら、起きるんだ、パンプキン・パイ私の!」
いくつもの名で呼ばれたジョーは目をこすり、マイケルの大声を聞いていた。
「なんて刺激的なんだ! まるでパイが入ったパンプキン・スパイスのようだ!」
あれだけ撮ったのに──裸だけではなく、生活のすべてを撮ったと言っても過言ではない。それなのにまだ、撮影していない姿があると言うのだ。
「せっかく殺人鬼と暮らしているんだ! これを実現しないなんてどうかしている! 私がそうだと言うのか? ああ、もちろん! していないさ!」
マイケルははね起き、有頂天になって叫び続けた。
彼が思いついたのは、ジョー・ブラックが人を殺害する瞬間の撮影だった。
決行は1963年、最後から2番目の満月の夜。まだアメリカ大統領暗殺の衝撃が残る、12月1日である。
マイケルはそれまでにジョーの髪を整え、髭を剃り、服を着替えさせ、自分も同じようにした。せめてもの敬意だと彼は言った。
信じる道をひた走ってきた芸術写真家は、被写体をもっとも美しく写すために、妥協は許さなかった。
そして、カメラの準備も入念にした。いつからか埃をかぶっていたレンズも磨きあげ、動作に問題がないかの確認も怠らなかった。
「フィルムも、新しいのを。どれだけシャッターを切ってもいいように」
見開いたブラウンアイは血走り、焦点が合っていなかった。何かに取り憑かれている人の様子とそっくりだった。白い肌を透かして目の下にも青黒いくまが浮いていたが、これほどまでに生き生きとしているマイケルの姿を見たのはいつぶりだろうかと、ジョーはふと思った。
そして、自分の手の届く範囲の準備を終えたホワイト氏はこう言った。
「ジョー、これは大仕事にしか頼めない。責任のある君だ」
彼は37歳になっていたが、写真家人生においてはまだ若く、表立っては助手を雇わなかったばかりか、自分の手間を省かせるためのフィルム・ローダーの使い方以外、誰かに何かを教えてもこなかった。
フィルムの取り出し方から、現像、引き伸ばし、印画紙への焼き付けの仕方を“助手”(日本語でジョシュと読む。)に教えようとしたのだが、頭の中では完璧に組み立てられていても、口に出す文脈はばらばらになってしまった。
本当はこう言おうとしたのだ。
(ジョー、これは君にしか頼めない。責任のある大仕事だ)
もしホワイト氏が、まだ正常だった頃の彼であればもっと順序立てた説明ができたかもしれない。
複雑で煩雑な作業が苦手なジョシュは、
「俺には酢酸液のにおいがだめだ」
と言って、なかなか受け入れる態度にならなかった。
それまでにも人知れず前代未聞の試みを実現してきた写真家マイケル・P・ホワイト氏だったが、彼のこの突飛すぎる計画を、シリアルキラーのジョー・ブラックとして承諾していたとは考えにくい。
しかし意外にも、撮影自体には乗り気だったらしい。
この時の彼の心情はいかようにも解釈できる。
第一に、視力の低下が進行しており、光のある世界に戻れる見込みがなくなっていたこと。そのような状態で、不安定な同居人を連れて次の町に引っ越すのは困難だった。
第二には、“自由に生きる”という欲望を追いかけ続けるのに疲れて、億劫になってしまったこと。もしくは、衝動にふり回されて過ごす生活に、嫌気がさしたことだ。
マイケルの自制の利かない妄執の影響を受けているのは、マイケルだけではなかった。ジョーとて、ともすればふたりが出会う前から、抗いがたい欲求に苛まれていたようなものだ。
他にも、現実逃避のようにパティスリーのメニューを端から端まで食べ終えて満足したのか。はたまた、売春取り締まりの厳しい町にうんざりしていたのか。
時計の針が11月の最後の10時を指す頃、いつものカメラ・オブスクラの中でカメラを持ったマイケルがある事に気づいて尋ねた。
「帽子はどうした?」
ジョー・ブラックがその正体とカーリーヘア、そして端正な顔立ちを隠すのにかぶっていた帽子のことだ。
「もうずっとかぶってねえ。どこかに落として、それきりだ」
ジョーは落ち着きなく答え、マイケルは納得した。
「なるほど。たしかに、おかしな話だ。逆さまになっても帽子をかぶっていられるなんてな」
また、シルクハットをかぶってステッキを持つ紳士ぶった殺人鬼なども、彼の美的感覚と創造的なイメージには響かなかった。
同時刻、地区の管轄だったハワード・ヤング巡査(Howard Young)は、気になる目撃情報を入手していた。
何日か前に届けられた帽子の落とし主が、1年と半年に亘って人々を恐怖に陥れる指名手配犯ではないかと言うものだ。
有名な探偵小説のようにライムクリームの匂いがしたわけではない──カーリーヘアの彼は整髪料をほとんど使わなかった──が、手配書に記された特徴と一致するダークヘアに、黒っぽい服装で、身の丈は6フィート以上ありそうな大男だったと言う。
ヤング巡査はすぐに、この連続殺人事件の担当であるノーランド警部補に連絡を入れた。
いよいよ、写真家マイケル・P・ホワイトの歴史的な撮影が開始した。
と言っても、スタジオらしいスタジオではなかったし、照明器具を含めた機材は度重なる引っ越しの中でほとんど手放してしまっていたが。
「完成形は見なくていいのか?」
愛用のバリソンを片手に、仁王立ちになったジョーが確認した。その両足の間であお向けになったホワイト氏がカメラを構える。
「自分の子供の顔を知らない男なんて、いくらでもいるさ」
その答えを聞いたジョーの顔に、一瞬、暗い影が落ちた。
しかしすぐに、この頑固な写真家の揺るがぬ意志と覚悟を受け止め、構えていたナイフを振り下ろした!
ダークアイが赤く染まる。光を失っていたジョーの眼が、ナイフの刃が、そしてストロボが、コンタクトナンバーで同調したように光る。
「完璧だ ! 私のパンプキン・パイ!」
Pから始まる破裂音を叫ぶと、マイケルの口の中には血の味が広がった。それでも、シャッターを切る指は止まらない。
「タイトルはどうするつもりだ?」
ジョー・ブラックは突き刺したナイフを引き抜き、自分を見上げるレンズに向かって尋ねた。興奮のあまり、口角が持ち上がるのを抑えられなくなった顔が、歪んで映っていた。
「そうだな……『シリアルキラー、最後の殺人』でどうだろう」
血を流したホワイト氏は一度顔の前からカメラを下げ、笑って提案した。彼はもう、熱や痛みなど感じていなかった!
身の内から湧き上がるこの上ない興奮に較べれば、肉体の感覚などどうだってよかったのだ。彼の魂はすぐにでも、天に昇るつもりだった。それほど高揚していた!
「最後? 勝手に決めるんじゃねえ!」
ジョーは怒鳴り、何度もナイフを振り下ろし続けた。
やがてマイケルは目を閉じ、動かなくなった。
よく見ていた光景だが、いつもと違うのは、呼吸をしていないことだ。ジョーは、部屋に響く荒い息切れが、自分のものであると理解するのにしばらくかかった。整えられていた髪はすっかり乱れている。
足元に転がるのは、満月がくるたびに生み出してきた新たな犠牲者であり、“それ”はなんと30箇所以上も刺されていた。ここまで執拗に人を傷つけた試しが、かつてのジョー・ブラックにあっただろうか。
死体に防御創(※他人に切りつけられた際、自衛しようとしてできた傷痕。)はなく、すべての運命を受け入れ、さらに重要な役目を他人に託して、すっかり安心しているようだった。
「──くそっ! どうして俺がこんなことを!」
ジョーは突然、獣が吠えるような激しい剣幕で吐き捨てた。
殺人衝動は叶えられたばかりだと言うのに、満たされない渇きが腹の底から押し寄せてくる。そのまま吐き出した。
「お前は俺に興味があると言ったくせに! さんざん俺を都合よくこき使いやがって! なのにお前は俺に見向きもせず、“知らない男”のことばかり考えやがって!」
おさえつけていた感情を堪えきれなくなり、膝に手を置き、前かがみの体勢で、恨み言を投げつけた。悔しさのあまり足を踏み鳴らした。
それから、乱れて垂れたダークヘアを血に濡れた両手でつかみ、ダークアイを隠すように覆う。ストロボに灼かれ続けた眼には、もう何も見えなくなった。
「俺のことを、どうして誰も見ようとしない……」
それが、ジョーが唯一こぼした弱音であり、本音と言って差し支えなかった。
死体をスタジオに運んだのも、高齢の女性以外を刃物を使わず襲うようになったのも、傘を持って雨の中を迎えに行ったのも、すべてはマイケルが望んだからだ。彼は同居人Jとして、彼の望みを叶え続けてきた!
だが、どれだけ尽くそうと、マイケルの誠実なブラウンアイはつねにどこか遠くを見ており、心にはいつも“誰か ”がいた。
それが、悔しくて堪らなかった。パンプキン・パイやパートナーなどと、上辺だけの甘い言葉で誘われるのにはうんざりだった。
ジョー・ブラックにとって生者は勝者であるにも関わらず、彼は誇らしさをいっさい感じられなかった。敗者の中に実在した虚像に敗れたのだ。
執着心を抱いていたのは、マイケルだけではなく、お互い様だった。
ジョーは頭を振ると、大切なカメラをマイケルの手から手さぐりで拾い上げ、彼がいつも作業をしていたテーブルの上に置いた。
そして死体にまたがり、今度は血の沁みたスラックスの股の部分を切り裂き始めた。
ジョーには見えなかったが、その夜は“あの時”と同じ不吉な赤い満月で、湧き上がる衝動に従ってそうしたのだ。
マイケルが生きている間は彼の希望を聞き入れるのに手一杯であったが、金持ちの主人がいなくなった今、従僕を止める物は何もなかった。
膝を突いたジョーは自身のペニスを取り出すと、まだ温かい死体の下半身を持ち上げ、切り裂いたズボンの隙間に挿入してしまった。
そして、何の反応も示さない“それ”の上にうずくまり、体を震わせた。
ジョー・ブラックは、殺害した男性の死体をはずかしめ、もてあそんだのだ!
報告されただけでも20人を殺害しているが、そんな行為におよんだのは初めてだった。
ナイフを握った手で血の気を失いつつある白い肌に触れ、唇を重ね、まだ硬直する前の舌を探る。口の中に流れ込んでくるのは、死の直前にマイケルが味わったのと同じに違いなかった。
さらにジョーは、こみ上げてくる欲望をむき出しにした。
筋肉の弛緩した顎を押し下げ、フィルム・ピッカーのように死体から舌をひっぱり出すと、ナイフを使ってカットしてしまった。
生前はこの舌を使って減らず口ばかりたたいたものだったが、マザー・グースを披露する機会はもう二度とない。
……しかしながら、死後に舌の上での表現者になろうとは、夢にも思わなかったはずだ。
ジョーは、文字通りの肉食の獣になった。視力を失い、残っている聴覚、嗅覚、味覚、触覚に頼るしかなくなっては、そうするほかなかったのだ。
と言っても、鼻は血と酢酸のにおいで麻痺していたし、整髪料の匂いのする髪がくすんだブロンドかどうかは、見るまでもなく知っていた。耳には荒い息遣いと、うめき声しか聞こえなかった。
腕を回し、抱き上げてもぐったりとしている穴だらけの胸に顔をすり付け、カーリーヘアに血がついても、構う事はなかった。
どれくらいそうしていたか、玄関のチャイムが鳴った。
大きな体を揺らし、倒錯的な行為に耽 っていたジョーが顔についた血と体液を袖で拭い、音のした方を向くと、聞き覚えのない男の声がした。
『警察です。夜分遅く申し訳ありませんが、ジョー・ブラックについて、話を聞かせてもらえませんか?』
それを聞いたのはジョーの耳であり、妄想が作り出した幻聴などでないのは明らかだった。
だが、カメラ・オブスクラの内側からは、ピンホールが小さく見えるばかりで、その向こうに誰がいるのかは分からない。
「あいにくだが、ここにはジョシュしかいない」
ジョシュアは姿勢を起こし、死体の脚を自分の腰に絡ませた状態で返事をした。
『届け出ではロバート・ピーターソン名義になっています。失礼ですが、以前、写真館を経営されていたマイケル・ピーター・ホワイト氏では?』
別の声が言った。どうやら扉の向こうには、2人以上いるらしい。
「気になるなら、入って確かめてみればいい。鍵なんか閉めてねえよ」
それからジョーは、持っていたバタフライ・ナイフを捨て、いつもとは反対側のポケットに忍ばせていた大型のレイザー・ナイフを取り出した。
踏み込んだノーランド警部補とヤング巡査が見たのは、やはり写真家ホワイト氏の遺体と、そこに折り重なって倒れたジョシュアと名乗る男──ジョー・ブラックの死体だった。
マイケルの提案した『シリアルキラー 最後の殺人』と称されるべきは、彼ではなく、ジョー・ブラック自身だったのだ!
ジョーはみずから首を深く切りつけており、赤い光に照らされた暗い部屋には、床から天井にいたるまで血が飛び散って、まるで地獄のような有り様だったそうだ。
しかも、ふたつの死体は絡み合い、あろう事か深く繋がっていて、引き離すのに数名の力を要した。
また、検死解剖では被害者マイケル・ホワイトの舌が“ありえない場所”から見つかり、検死官のほうが嘔吐してしまったという逸話まで伝えられている。
これが、1963年に起きた“あの事件”のすべてである。
当初は凄惨な殺人事件に巻き込まれた哀れな被害者として扱われたマイケル・ピーター・ホワイトだったが、やがて、ジョー・ブラックを匿い、犯罪の片棒をかついだ人物ないしは事件の指示役として、その名が新聞に掲載された。
悪趣味なコレクションも押収され、証拠品として提出されたものの、職務を放棄した“ジョシュ”により現像が間に合わなかったフィルムは、しばらくカメラの中に放置されていた。
20世紀の盗掘人グレアムは情報提供に免じて恩赦を受けたにも関わらず、別の違法行為で逮捕されている。
こうして“シリアルキラー”ジョー・ブラックとともに、傘下の美青年ジョエルも、甘い歯をしたジョニーも、昼盲のジョシュアも、全員姿を消した。
町からではなく、この世から。そしてゆくゆくは人々の記憶からも、“あの事件”は、消えるように忘れられていった。
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