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chap.12 カメラ・オブスクラ
これは、1963年の秋の終わり。いつものように発作的に終わりを迎える事となったマイケルとジョーの日常における、最後から2番目の記録である。
当時彼らは郊外の小さな町の、4棟が連なったテラスドハウスに住んでいたが、2人のうち、マイケルはほとんど外に出ない生活を送っていた。
芸術写真家に転身してからと言うもの、写真館の運営や商業誌への寄稿をやめ、次第にジョー以外の生きた人間の写真を撮影しなくなったのは先述の通りだが、この町に来てから彼の生活はますます荒んでいたのだ。
度重なる引っ越しのうちに、家財のほとんどを手放し、撮影機材すらも最低限の物が残るのみだった。スタジオも専用の暗室も作らず、一日じゅうリビング・ダイニングのカーテンを閉め切った家の中には冬が迫りつつあったが、光熱費と食費の二択にも迫られていた。不自由なく暮らしてきた彼らの暮らし向きは、その頃には町の人々と変わらないか、ともすれば苦しいと言えた。
ホワイト氏が、収入源だった仕事そのものに、価値を感じられなくなってしまった。ただ、それが原因だった。
あれほど雄弁だったマイケル・ホワイトは人を喜ばせるようなことも言わなくなった。苦悩の中にいる自分自身さえ喜ばせる事が難しくなってしまったのだから。
彼がつかの間の喜びを感じられたのは、美しい姿をしたジョーを撮影し、フィルムの中に閉じ込めている間のみだった。ジョーの姿を撮影し、現像してプリントする作業だけが、彼の心を癒した。
昼も夜もなくなった家の中で、暗室用の安全光を点け、これまで溜まったフィルムの整理と現像作業に没頭した。
神経質に爪や指の皮を噛んでは、時おり血を出して道具を汚し、唾液と血まみれの指先をシャツの裾で拭いては、また作業をする。その繰り返しの日々を過ごしていた。
まるで何か──例えばつらく、受け入れがたい現実──から逃げるように。傷口に薬品が沁みる痛みも気に留めなかった。
そんな彼を訪ねる者もなく、隣も空き家となって、外から見れば、廃墟のようだったと言う。
彼のがたがたになった爪が大切なネガを傷つけてしまわないよう、やすりで削ってやるのは、ジョーの役目となっていた。(もちろん満月があれば死体を持ってくるのも忘れなかっただろう。マイケル・P・ホワイトの芸術的なインスピレーションを守っていたのは彼だ。)
ジョーはまるでペットの世話をするように、作業台に向かって立ちっぱなしのマイケルを、後ろからかかえて引きずってソファーに腰かけ、自分の足の間に座らせた。
「何をするんだ。邪魔をするな、作業をしているのが分からないのか」
いつも同じ台詞を言っている間に、ジョーは左のポケットから爪やすりを取り出す。ドイツ製の、平べったいナイフによく似た、だがもうすこし細くて先端の丸まった代物だ。
「俺はその作業の邪魔にならないようにしてやるんだ。黙ってろ」
そう言ってマイケルの背に密着し、前が見えるよう肩に顎を乗せ、体を包み込む体勢になる。さらに片足を上げ、マイケルの腿の上に乗せて──この足は逃亡に必要な脚を押さえるストッパーの役割を果たす──両腕でマイケルの片手を取って、手入れを始めるのだ。
この時ジョーが例の“Pから始まる言葉探し”を提案すると、途端にマイケル・ピーター・ホワイトは上機嫌になった。彼の方から申し出る時もあった。
一度、ジョーがふざけて“Jから始まる言葉探し”を提案した時は、険しい表情で振り向き、体をねじって、首筋に噛みついたらしい。(その歯型の写真は彼によって現像はされず、使い切ったフィルムとして残っていた。)
のちに判明したジョーの視力の低下も、この時期には始まっていたとするのが妥当だろう。
彼は好奇心に誠実なマイケルとはまた違って、食欲や睡眠欲をはじめ、みずからの欲望に忠実な男だった。
外に出ていたのは食料を買うためで、その町ではジョシュアと名乗り、パティスリーを訪れてはクロテッドクリーム・スコーンやフルーツ入りメレンゲ・ルーラードのほか、ピーカン・ナッツ・パイがあるかどうかを、いつも確かめていたそうだ。
秋に収穫シーズンを迎えるピーカン・ナッツを求められたのは、マイケルが幸運の星の下に生まれたからかもしれない。
そうした外出時、ジョーはつねに何かを睨むような目つきになった。周囲がよく見えず、よくつまずいて転んだり、声をかけられると灼けるような目の痛みを訴えたり、何かと苦心していたと言う。
原因は長きにわたる暗室生活と、目と鼻の先で光るようになった強烈なストロボだった。
暗い部屋に慣れたダークアイにとって、目を刺すような陽光が街の薄白い壁に反射する様は、そこらじゅうでストロボが焚かれ、それを直視し続けるのと同じだったのだ。
転んだ拍子に落としてしまった帽子さえ、ついには見つけられなかった。
この町に越してきて数日した頃、ジョーがいくつかのすり傷を作って帰って来ると、マイケルはなんと暗室(を模したリビング)に、頑丈な鍵を取りつけていた。
穴から中の様子が覗けるようになっており、まさしくカメラ・オブスクラ、そして鍵穴はピンホールだった。
(※camera obscura はラテン語で「暗い部屋」の意。箱に小さな穴をあけ、通過した光線によって向かいの面に像を写し取る装置のこと。現在のカメラの前身。)
鍵屋がどのような思いでこの不気味な家に施工にきたのか──考えるのも気の毒と言うものだ。
ただでさえ足元のおぼつかないジョーを箱の中に引き込み、二度と出ないようにと命じたマイケルは、さながら牢屋の看守だった。
捕らえられた“犯罪者”のジョーは、かつて自分の意思で閉じこもっていた暗室という独房から、自分の意思では出られなくなってしまった。
しかし、目の悪くなったジョーとて、素直にされるがままの男ではない。禁じられればなおさら、自由へのこの上なく強い欲望を自覚するだろう。
鍵を持ったマイケルが出て行こうとすると、その服の裾をつかんで引き止めた。
「まさか俺を独りきりにしやしねえだろうな」
そう言って見上げるのは、真っ赤な怒りに燃え、情念に駆られ、それでいてすがるような眼だった。彼はマイケルが何か答えるより早く、つかんでいた服の裾をひっぱり、細い体を抱き寄せた。
そうして、出会ってから何度目かの満月の夜のように、唇を奪ったのだ。
噛みつくような凶暴なキスは、あっと言う間に厳格な看守の警戒を食いやぶり、中枢を溶かして、快楽に狂わせた!
床に押さえつけられたマイケルは身を震わせ、快感に悶えながら、切ない声で、“名も知らぬ男”を呼んだ。
暗い部屋 に映し出された鏡像が逆さまにひっくり返るように、天井に横たわっているのか、床を見上げているのかも分からなくなった。
覆いかぶさってくる大きな黒い影に手を回し、爪を立てたところで、もうひっかける長さすら残っていない。
爪と肉の間が割れ、そこから出た血を肌に塗りつけられていると気がついたジョーは、マイケルを押さえつけながら、その手を取って口に運んだ。
この際、鋭い歯で指を食いちぎられたとしても、マイケルは文句を言わなかった。
「たとえシャッターを切れなくなっても構わない」……そう答えたに違いない。
それほどまでに、マイケルのブラウンアイにはもはやジョーしか映らず、またジョーのダークアイにも、マイケル以外を映さない事を望んでいた。
もちろんジョーは、そうはしなかった。狭い“独房”にペニスを押し込んで含ませ、自分の口には血まみれの指をこれ見よがしに含み、看守が意識を失うまで、腰を床に打ちつけるほど激しいプレイをした。
この町に引っ越して以来、マイケルはほとんど眠れていなかった。
ベッドに入っても落ち着かず、眠ると恐ろしく現実的な悪夢を見て目を覚ました。彼の体験したのが現実的な悪夢なのか、それとも悪夢のような現実なのか、誰にも分からなくなってしまった。
起き出しては、まだ暗い窓の外が明るくなるまで、それらを忘れようとするかのように、まだ像にもならない虚像を現実に落とし込んでいた。時間や、寝食すら忘れたがっていた。
マイケルは受け止める筒のない所に白い液を吐くと、暗室の床に横たわり、意識を失った。
静かに目を閉じ、ただ呼吸を繰り返す彼を見つけたのは、家に帰ってきたジョシュアだった。
彼は、リビング・ダイニングの扉に、部屋の外側からかけられる鍵穴と、赤い光の中で自慰にふける同居人を見つけていた。絶叫し、倒れたところに寄って見ると、もう片方の手では、鍵を握りしめていた。
「よくもこんな、ごたいそうな事を……」
呆れて言った口から、思わず笑みがこぼれる。それが何を表しているのか、ジョー本人にも分かってはいなかった。
だがおそらくジョーはこの時、「いかれて」しまったマイケルが独りかかえる恐れと妄想の内容を悟っていた。はっきりとした形を持たずとも、霊感めいたものとして、そばにいる相手の苦しみに触れたのだ。
同居人が自分のことを想って身を慰めるようになったのを、ジョーは数ヶ月前から知っていた。
マイケル・ホワイトの奇妙な言動が一挙に増えた時期でもあり、ジョーを「パートナー」などと呼び、家でふたりきりの撮影会をするようになったのも、それからだ。
もっとも、それ以前から精神病らしき兆候はあり、支離滅裂な言葉を話し、1人の中に複数の人格を飼っているようにさえ見えていたが、あの赤い満月の夜以降の行動はついにジョーの手に負えなくなった。
指名手配犯のジョー・ブラックがみずからの意思で共犯者をともない、窃盗、強盗、傷害および殺人のどれにも当てはまらない違法行為に走ったのは、あれが最初で最後だ。
──そう、マイケルが毎晩見ていたベッドに覆いかぶさってくる黒い影、また、暗い箱に閉じ込められるのを拒んで組み敷いてきた彼は、事実と幻覚と妄想と悪夢が作り出した“誰か ”でしかなかった。
マイケルがひとり、自分の愛称を呼びながら昇りつめるのを鍵穴から覗き見て、ジョーと名付けられた彼は何とも相手が哀れなような、そしてひどく愛おしいような、20年あまりの人生で初めて味わう気分にさせられた。
それ以降、彼は看守が目を閉じている間だけ、その独房のような暗室を抜け出す囚人となった。(ちなみに、白と黒の縞模様の服は着ていなかった。安全光の中では赤と白に見えたかもしれないが、いずれにしても赤と白の縞模様の服が精神異常者を表すというのは、真っ赤な嘘だ。)
マイケルが目を覚ますよりわずかでも遅くなる時があれば、その不安と、そこから来る罵声を受け止めた。
若い彼は柔軟性があり、自分の欲望に正直だっただけで、寛大だったわけではない。また、責任感も強い方ではなかった。
赤い満月の夜の出来事がきっかけで、マイケルが「おかしく」なってしまったのだとしたら、その責任の一端は自分にある……そう考えるほどの知性や理性もなかった。
ただ、自分のしたいようにしていたに過ぎない。
そうする中で、時には目が見えない苛立ちだけでなく、むなしさにも襲われた。
どれだけ行動で示そうとも、マイケルは、ジョーの姿が見えなくなると、自分の元を去っていったと受け取るからだ。
ジョシュアとなったジョーが、無い知恵を絞ってそんな事はしないと何度説明しても、マイケルとホワイト氏の隙間に、いつの間にか棲み着いてしまった“間男のジョー”は、彼を孤独にさせるらしかった。
独房 の中にいられるのは、たった1人なのだ。
それでもマイケルと一緒にい続けたのは、やはりジョー自身がそうしたいと望んでいたからに他ならない。
両者は互いに行動を阻害し合い、今まで以上に、生活のほとんどを、暗い部屋で過ごすようになっていった。
彼らに見える世界からはさまざまな物事の境界──昼と夜、生と死、妄想と事実、幻覚と現実、真実と虚構──の境目が失われ、どんな形の月が出ているのかも分からなくなった。もちろん、新聞になど目を通す余裕もなかった。
症状が深刻化したマイケルは、ついにジョーの殺人が明るみに出て、警察に追われているという妄想にとらわれるようになった!
この暗い部屋は本物のカメラ・オブスクラ、鍵穴はピンホールで、そこからずっと何者かが覗いている、自分たちを監視していると言い張った。
ジョーが部屋から出ようとすると、それが水を飲むためにしろ、体内に溜まった水を出すためにしろ、水を浴びるためにしろ、強い力でしがみ付いて離れなかった。(彼らが“発見”された際、フィルムの水洗用として使っていたシンクがひどく汚れていたのはそのためだろう。)
時には苛立って抵抗するジョーにおびえたり、混乱して暴れたりもした。この部屋から1歩でも出れば、自分たちの創り出した世界は崩壊すると信じていたからだ。
孤高の天才は時に、自分の感性を理解できる者は、世間という狭い価値観の中にはいないと嘆く必要に駆られる。
マイケル・P・ホワイトの場合は、この“悪趣味な”コレクションを何も知らない他人に咎められ、感光だけして陽の目を見ずに存在しなかったものと扱われてしまうのが屈辱で堪らなかった。
明るく濡れた“理容室”で楽しげに語っていた頃とは違い、
「もはやマイケル・ホワイトの表現者としての展望 は、まやかし でしかなくなってしまった」
などと、否定的で中傷的な評価が聞こえ、完成したばかりの写真をやぶってしまう事もあった。
そんな幻聴など聞こえていないジョシュアが止めに入ると、否定的で中傷的な罵声を浴びせた。
憐れむべきマイケル・ホワイトは愛すべきフィルム夫人(Mrs.White)や、みずからの手で溶液の中から取り上げた子供たち、そして“名も知らぬ男”を傷つけながら、共に暗室にひそみ続けていた。
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