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chap.11 スクラッチ・マーク

悩ましく目まぐるしい日々を送るうち、天才マイケル・ホワイト、ならびに彼の呪われし精神は、正常な人や平常な人、平凡な人には理解しがたい内容に達した。 忌まわしく、不気味で、暴力的な被害妄想である。 日に日に閉鎖的になる思考の行き着いた先には、“名も知らぬ男”への執着心のみが残されていた。自分の元からジョーが居なくなる未来を、極端に恐れたのだ。 彼は、時間とフィルム枚数の許すかぎり、家の中でジョーの写真を撮るようになっていた。ジョー・ブラックと呼ばれて生きる男のすべてを写真に収めようとした。 まるで、そうすれば彼の存在を手元に置いておける、何ならフィルムの中に閉じ込めておけると信じてやまないようですらあった。 ……いや、間違いなく、そう思っていたのだ。 ホワイト氏はたびたび、撮影の最中に被写体の服を脱がせ、むき出しになった色の濃い肌や唇に、自身の指や手で直接触れた。 そしてファインダー越しではなく、肌理(きめ)の質感や目の輝き、髪のつやなどを身をもって体感しながら片手でシャッターを切った。当時のカメラの技術では再現するのが困難であったはずの、奥行きの表現や臨場感のあるアングルを実現させた手法だ。 カーリーヘアから覗く目と、耳を左右片方ずつ。大きく開かせた口の中にずらりと生えた、のこぎりのような歯列。ピアノ線のように上顎と舌をつなぐ唾液と濡れた唇を、真上から撮影した物も確認されている。 もちろん首から下も撮影されており、特に肩から腕にかけての筋肉の隆起と陰影は批評家をもうならせる仕上がりだ。 他にも、喉仏や鎖骨、乳首、へそ、ペニス……とばらばらになったパズルピースのように、手足の指の一本一本にいたるまで、彼にとってはジョーのすべての部位が芸術だったに違いない。あの写真集に一度でも目を通せば、確信を得られるはずだ。 特に、全裸で床に横たわる美しきジョーの上に、ホワイト氏と思しき人物の影が落ちている一葉は、まさしく『私のパンプキン・パイ』という題名が相応しいと言える。 写真集を作成するにあたり、数百枚に上るネガからこの写真が選ばれた経緯も、是非とも何らかの形で公表されるべきだろう。 そうした際、ジョーは何も言わず、ホワイト氏のしたいようにさせていたらしい。 ジョーの方から指一本でも触れようものなら、彼はその手をはじき、自分の頭を掻きむしって、こうわめいたからだ。 「冗談じゃない! 悪魔に誘惑されている時間はないんだ! 唐辛子を当てられて死んでしまえ!」 このようにマイケル・ホワイトは、刻一刻と満開へと近づく黒い薔薇の美しさと、芸術への求道心の間で混乱する時があった。 咲いた花がどれだけ美しくとも、いつかは(しお)れてしまうと、誰もが知っているからだ。それまでに、ジョー・ブラックのすべてを撮影しておかなければと言う焦燥も感じられた。 かつて悪魔と呼ばれた彼は、いつしか悪魔に誘惑される人間へと成り果てていた。 後になってジョーの上腕に確認されたいくつかのひっかき痕(スクラッチ・マーク)は、この時の撮影者によるものである。 芸術の探求として、美しい対象物に傷を付けることで、まったく新しい美を生み出せるのではないかと模索したようだ。 多くの写真家を含めた芸術家は、モデルとなった人物に危害を加えてしまう場合はあっても(イタリアの天才芸術家ミケランジェロがいい例だ。)、表現上の必要性のないかぎり、故意に傷を付けるなどはしない。対象の美が損なわれるのを、何より嫌っているからだ。 だが、ホワイト氏は、芸術表現をもって、これまでの道徳観念や社会通念を打ちやぶる使命感に駆られていた。 人類の──いや、カメラの歴史において、死体写真の発想は既存の物に過ぎない。 しかしモルグや棺の中ではなく、また盗掘人を頼るのでもなく、わざわざ(警官でもないのに)シリアルキラーを捜索するほどの情熱は、誰もが持ちうるものではない。 ホワイト氏がジョー・ブラックになかば脅迫じみた勧誘をし、活動のための協力をあおぐ事ができたのは、それほど強く望んでいたからだ。 彼はその感性をバリソンの刃のように研ぎ澄ませ、さらに新たなる可能性を探った。 美とは、万人に共通のようでいて、人によってまったく異なる感覚だと、彼はいつぞやの“からっぽ頭”から聞いて、よく理解していた。 「美が必ずしも完璧であると限らないのであれば、瑕疵(かし)が美を損なうとも限らない」 そんな突飛な発想が、ひっかき痕の写真から解釈できる。 神経が高ぶると爪や指の皮を噛んでしまう癖により、がたがたになった爪の先では、頑丈な黒い肌に大した傷をつける事は叶わず、白い線がついた程度だったが。 ちなみに、肩幅のある背中にもいくつか小さな爪痕が残されているが、こちらは撮影者の意図ではなく、被写体となった人物のプライベートで付けられたものと思われる。 物の重さを知らない小さくて細長い爪がくい込み、安いベッドの軋みと肌を打ちつける音、声高なあえぎさえ聞こえて来そうな、生々しい痕だ。 娼婦が客の体に爪痕を残すなど、普段であればあるはずがない。 よって、もちろん故意ではなく、つい力が入ってしまったと考えるべきであり、繰り広げられる異常さの中にまぎれ込んだ正常さと言える。 それまでもわざわざ撮影したのは、写真家ホワイト氏の内側からジョーの裸を覗いていたマイケルの、執念深い嫉妬からだと言っていい。 ドクター・ロバートの元に届いた差出人不明の手紙に、この時の彼の心情に関して綴られていると解釈できる部分があるため以下に引用する。 『……昨夜も来た。あの黒い影。私は自制を失うほど、Jに執着しているのに。だが、肝心のJの態度はいたって、間にある満月などいっさい気に留めていないものだ。赤い夜。 ……美しい黒い薔薇と黒い宝石は全員を狂わせた。…… ……私は、認識できているのか? 私が狂っていると毎晩毎晩、私のベッドに来ては、許されざる行為を繰り返しておきながら! 認識している!…… ……何もかも忘れて、裸でいるかのように、私以外のXXX〔検閲によって塗り潰されている〕の肌に触れている! あの燃えるような黒い影!』 実際の写真を見てみると分かるが、このJことジョーの背中についた爪痕の写り方は、 (この爪痕を残したのは私か? いいや、そうだったかもしれないだけだ!) と言う悲痛な恨みや嘆き、あるいは切望さえ聞こえてきそうな接写だ。 あくまでもこの作品たちを生み出したのはマイケルの私的な撮影だったせいで、果たしてホワイト氏もに芸術的価値を見出していたのかは不明なのである。 この秘密めいた撮影会とその最中になされた暴力的な交渉は、死および死体を追い続けた写真家ホワイト氏と、死体を生み出す生命力に魅了された男性マイケルの葛藤と言えた。 そんな事を繰り返しながら、彼らがひとつの町に留まるのは、長くても2ヶ月だった。つまりジョー・ブラックによる殺人が、同じ町で起こるのは2度までだ。 もともと、1箇所に腰を据える生活は、ジョーの(しょう)に合わなかった。マイケルと出会う前なんかは、金品を強奪した後の被害者をその場に残して逃走していたくらいだ。 社会的に許されざる罪を犯してでも、みずからの欲望に従った。怪我や病気をして、医者にかかって素性を知られるくらいなら、野垂れ死にを選ぶと答えるほどに。“生きること”と“自由”を天秤にかけるのではなく、両方を手に入れようとしていた。 短絡的な思考と衝動的な行動が、不自由につながる結果を呼ぶのは自然な流れであり、世の中はおおよそ、そのようにして回っている。 そうした世の中の基準に照合した際、彼らの悪魔のような行為がどのように評価されるか? 常識的な思考の持ち主であれば推測にたやすい。 「満月の夜から明け方にかけて、ジョー・ブラックを見た」 との証言は、確実に増えていた。 “黒い影のような大男”ジョー・ブラックに関しての捜査にあたっていたケネス・ノーランド警部補(Kenneth Knowland)の元にも、多くの情報が寄せられた。 この頃になると、ジョー・ブラックの殺害手口はナイフによる刺殺だけではなくなり、また被害に遭うのも高齢女性に限らなくなっていたため、満月の日に起こる強盗殺人はすべてジョーの仕業とされていたほどだ。 市警や地方警察は自治体の境を越えて連携を強め、大きな影のような人物を描いた手配書は各地に貼られた。 教会の裏手や共同墓地にはひ弱な年寄りの墓守だけではなく、屈強な若い警備員も置かれるようになった。 そうして世間を騒がせるシリアルキラーと暮らす、人の道を外れた写真家が必要としたのはあくまでも新鮮な死体だった。 それは決して盗掘人や食人鬼のような動機ではなく、あくまでも彼のこだわりを再現する、高い芸術性を保つためだ。だからこそ、ジョーと出会う前も墓荒らしなどはせず、腐敗したものには見向きもしなかった。 墓地には時代錯誤な盗掘人が現れて、強化された警備によって拘束されたが、そんな事は、世間の目を離れ、芸術の道に身を投じたM・P・ホワイトにとっては、まったくもってどうだってよかったのである。 しかし、取り押さえられた20世紀の盗掘人の1人が 「数日前、この墓地に新鮮な死体を遺棄した犯人(マーク)を知っている」 と発言したとすれば、どうだろうか? さらに手配書を見、記された身体的特徴を読んで、 「間違いない。あれこそがジョー・ブラックだ。満月の夜に、カメラを持ったブロンドの男と一緒だった」 と、地方警察や新聞記者に告げたとすれば? グレアム・アナスタシア・オックスフォード(Graham Anastasia Oxford)の名で報じられたこの盗掘人と、その所属する宗教団体は、本人らいわく“とある崇高な目的”のために墓を掘り起こしていた。 ──個人的な調査によると、なんでも彼らは「アナスタシアの器」なるものを探していたらしい。 アナスタシアの器とは、彼らの信仰する女神アナスタシアの魂を()れる肉体を指す。それにより彼女は終わりなき復活を遂げ、永遠の命を持ち続けている……といった思想である。 つまり教団では、墓を掘り起こして盗み出した死体を、偶像の1つとして(あが)めていたのだ! ……腐敗が進むたびに、盗掘人は新しい「器」となる死体を探して、定期的に取り替えていたらしい。 さらに恐ろしいことに、歴史の中にはこの「器」を確保するために信者の中から選出した生贄を捧げた事実もあるようだ。── グレアムによれば、墓地で「器探し」の下見をしていた時に、何者か──ジョー・ブラックと特徴の一致する人物とカメラを持ったブロンドの男──が、“非常に”新鮮な死体を遺棄する瞬間を見たと言うのだ。 1984年の警察刑事証拠法の成立まで、取り調べの可視化は義務づけられていなかった。そのためここでは、立ち会った事務弁護士のフレデリック・クアント氏(Frederick Quant)の手記を引用する。 『我々ははじめ、この発言を狂信者の妄言だと思った。 例の団体は文化的、社会的、そして人道的な禁忌に触れていて、話を聞けば聞くほど、もはやこちらの気がしまうように感じられた。』 きっとこのグレアム容疑者は、自身と所属する団体の保身を図り、当時、より話題性のあった大きな事件の捜査に協力する形で有力な情報を流したのだろう。 だが盗掘行為と、ジョー・ブラックによる殺人事件の間には、何の因果関係も認められない。ましてや目撃していながらその場で通報しなかったのであれば、共犯も同然だ。 警察はひとまずアナスタシア信仰の宗教団体にし、1963年9月刊行のタブロイド紙にはなぜかジョー・ブラックが悪魔崇拝者である旨が書き加えられた。不確定であればあるほど、あれこれと憶測を飛ばすうち、それがさも真実かのように誤認しまうのが人の(さが)である。 そうして教団のアジトに踏み込み、前述のおぞましい行為の現場を取り押さえ、ここでは記すのもはばかられる実情を暴いたものの、肝心のジョー・ブラックの逮捕にはいたらなかった。 ノーランド警部補は仕方なく、ふたたびクアント弁護士の協力を得て──警察と弁護士が不仲なのは通説である──、盗掘人グレアムの発言を『狂信者の妄言』ではなく、正式な目撃証言として取り上げた。 満月の夜に、非常に新鮮な死体を墓地へ遺棄した男が本物のジョー・ブラックであったと仮定し、一緒にいた「カメラを持ったブロンドの男」が何らかの事情を知っていると見て、捜査を進める方針としたのだ。 さらに、ヘレン・スミスやコーリン・エヴァンズ……(中略)……スティーブン・アンダーウッドといった犠牲者の名前、彼らの住んでいた地域などを踏まえ、ジョー・ブラックはどのようなルートを辿って、この町にたどりついたかを逆算した。 やがて、満月の翌日まで町に住んでいた1人の男性が浮上する。 その名は、ポール・ペッカー(Paul Pecker)。芸術愛好家の間でも特に変わり者として有名であり、1年前まで、とある市のハイ・ストリート付近で小さな写真館を経営していたと言う。

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