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chap.10 マイケル・ホワイト

芸術や都市伝説、はたまた犯罪に興味があるのであれば、ひょっとするとこの記録以外にも、すでにどこかでマイケル・ピーター・ホワイトという人物について書かれた文章を目にする機会があったかもしれない。 彼について書くあたり、“Paranoia(偏執病)”の語がついて回るのは、この時期に見られた言動によるところが大きい。1963年の半ば以降……つまりごく最近なのである。 “わたしのかわいいマイキー”と呼ばれた幼年期はさておき、若年期にはすでに常軌を逸していた。だがそれとはまた別の異常性が、この頃から顕著になり始めたのだ。 現代における後天的な偏執の特徴は、大きく2種類に分けられる。自身が何らかの被害を受けていると思い込む被害妄想と、自身が優位な存在であると思い込む誇大妄想だ。 この基準を当時の彼の状態に当てはめるとすれば、前者であると言えよう。尊大にふるまうのは元の性質の問題なのだから。 マイケルは赤い満月の夜を境に、ジョーに対し、偏狂とも言える執着を見せるようになった。 例えばジョーがこれまでと変わらず外出しようとするだけで、 「どこへ行くんだ? 私のパンプキン・パイ」 このように、どこへ行くのか、何をしに行くのか、しつこく尋ねた。 「お前に関係ねえ。いちいち詮索するな」 初めのうち、ジョーは呆れていた。 彼にとってはあの夜のマイケル自身が言ったように、「手近な人間に手を出した」に過ぎなかったらしい。 人生において数え切れないほど経験するうちの、たった1度の行為。その記憶をわざわざ大切に残しておく余裕など、若く、血の気の多い男にあるはずもなかった。 しかしマイケルは血相を変えて、厳しく問い詰めたのだ。 「警官と同じ黒い帽子に黒い服なんて……誰かと会うのか? その顔を見せるのは危険だ。その両眼で、相手を見て話すのか? 相手は誰だ?」 あれこれと追求する態度は、まるでダークヘアの中に埋もれていたダークアイという2つの宝石は、他でもない自分こそが見つけたのだと言いたげだった。それを誰かに奪われそうになれば、不安になるのも無理はない。 「君は、私のパートナーじゃないか!」 ついにはジョーの肩に手を添え、誠実なブラウンアイでまっすぐに見上げて訴えた。まるでそう信じて疑っていないかのように。 ……いや、本当に疑っていなかったのだ。 彼の中では、彼の口にする内容はすべて、まぎれもない真実だった。それが現実および事実であるかどうかは、ナッツの殻のように、まったく価値も意味も持っていなかった。 ジョーは帽子の下からそんなマイケルを見下ろすと、鬱陶しいと言いたげな表情を浮かべた。 「この俺が? 本気で言ってるのか? いかれてるな」 と言って腕を払い、これまで通り出かけて行ってしまったのだ。 「1ペックのペッパーピクルスでも拾ってろ、ピーター・パイパー」 嫌らしくもマイケル・ピーター・ホワイトの大好きな詩にのっとった捨て台詞まで吐いて! その突き放すような態度が、哀れな病人をますます不安にさせ、症状の悪化を招いたとの考え方も、一理あるかもしれない。 「私はマイケル・ピーター・ホワイト! ピーターのPはpictureのPだ!」 激高したマイケルは家の床を踏み鳴らして叫んだが、ジョーは振り返らなかった。 写真家のホワイト氏がみずからの意思で選んだのは、“シリアルキラー”ジョー・ブラックによって殺された被害者の死体に過ぎない。 マイケル・ピーター・ホワイトという男の精神──自分自身でも制御できない部分が、執心の対象に“名も知らぬ男(ジョー)”を選んだのだ。 これまで死のことばかりを考え、死体を追いかけ続けてきた写真家が、死体を生み出すほど若く、強すぎる生命力に触れればどうなるか? そう。ジョーの言う通り、マイケル・ホワイトは「いかれて」しまったのだ。 そのために、彼はここから自制できない妄執に苛まれる運命となる。 1962年以降、マイケルとジョーは何度も引っ越しを繰り返している。いくつもの町を転々とし、正体を偽るために、頻繁に名前を変えた。 マイケルは、ある時はミドルネームであるピーター、ある時は友人から拝借したロバート、時にはまったく無関係なポール(Paul)を名乗る場合もあった。姓もその場で思いついたものを選んでいた。 ジョーにいたっては、ティモシー・コートで名乗ったジョエル(Joel)のほかにも、ジョン(John)、ジョナサン(Jonathan)、ジョセフ(Joseph)、ジョシュア(Joshua)など、実に5つもの名前を使い回していたと言う。 変わらなかったのは、彼のイニシャルがJである事、そして“本物の”ロバートに、差出人不明の手紙が届き続けていた事だ。 ドクター・ロバートは文面だけでなく筆跡の変化からも、行方を眩ませた友人の内面の暴走と狂気を感じ取っていた。 その“同居人J”なる人物への情はもはや病的の範囲で、病院にかからなかっただけで、マイケル・ホワイトは患者だったのだ。 だが当時の彼に精神鑑定を勧め、紙に同心円を書いて送るようになどと助言はできなかった。周知の通り、所在は依然として不明だったからだ。 ホワイト氏の肩書きが、商業写真家から芸術写真家となったのも1963年である。写真に、記録媒体のみならず芸術作品としての価値を見出す1人となったのだ。 あれほど熱心だった商業フィルムの寄稿や、写真館の運営からも、徐々に遠ざかっていった。 使用するカメラも、かの機械学者オスカー・バルナック(Oskar Barnack)の名を冠した型から、フィルムカメラの完成形にして最高傑作と(うた)われる型に変わっている。 それは例の“ピーターのP”ではなく、“マイケルのM”から始まるシリーズの初代にあたる。バヨネットマウントによってレンズの取り換えが容易になり、写真の視野を決めるビューファインダーと、距離を測るレンジファインダーを1窓で兼ねるようになり、裏蓋が開くようになったためにフィルムの先を舌のような形に切る必要もなくなった。 M・P・ホワイトは芸術家人生の最期まで、モノクロフィルムでの撮影を続けている。 カラー写真にはまだ使いきりの閃光電球が用いられていたし、像の鮮明さよりも色の鮮やかさで目を引いていたようなものだった。 モノクロ写真によく映えるダークカラーの髪と瞳を持った男を被写体に据えるにあたって、それを必要としたか否かは、問うまでもない。 どういう意味か? 正確な時期は定かではないが、同居人Jの美しさに目をつけたホワイト氏──あるいは彼の異常な精神──は、芸術表現のため、もしくは執心を示す一環として、“シリアルキラー”ジョー・ブラック本人の姿を私的に撮影するようになったのだ。(もちろん、それらの写真が人の目に触れる事は無かった。あの写真集が出版されるまでは。) 他の人物の撮影をする場合ももちろんあった。発表の機会に備え、人目に触れさせられる内容のポートフォリオや、写真家としての腕を試したり、示したりするために。 新しい町に行けば新しい出会いがあり、芸術愛好家やヌードモデル、サーカスの出演者なんかと交流する機会にも恵まれた。彼らは、ステージは違えど同じ表現者として、新しい刺激を与え合い、互いに新しいインスピレーションをもたらした。 だが、芸術写真家のピーター、ロバート、それにポールは、そうした撮影をそこそこに切り上げてしまった。そんな時間は惜しいとまで感じていそうだった。 彼は時に、家で自分の帰りを待つ存在をほのめかす言葉を口走ったそうだ。 狭義では、普段の思考や行動には取り立てて異常さを感じさせないが、何か1つの存在について話すとなると途端に歯止めのきかなくなるのが偏狂である。 言わずもがな、届け出上はどこの町でも独身であったため、周囲からは、“芸術家特有の複雑な内面が生み出した妄想”だと思われていた。まさか事実であるとは誰も信じなかったのだ。 それを理解できない者は同情するか、鼻で笑うかで、次第にその不気味な妄言を口走る写真家から距離を置くようになっていった。 外出を阻もうとしてくるマイケルのことを「いかれている」と言ったジョーだったが、家に帰ってきたホワイト氏によって行なわれる撮影には、どういうわけだか気前よく応じていたらしい。 例の写真集に掲載された姿が明らかな証拠だ。いくらか変化している髪型や髭の剃り跡、体に残った傷などからも、ある程度長期に亘って撮影されていたのが分かる。 以前は抵抗したものだが、「警察に突き出したりしない」との言葉を、ようやく信用したのだろうか? 容姿を褒められて機嫌を良くしていたのもまた事実である。 拠点を変える中で何度も繰り広げられたジョーとホワイト氏ふたりきりの撮影会は、誰にも知られない秘密めいた行為だった。 撮影は日をまたぐ場合もあり、使用したフィルムは小山のように積もって、あるいは暗室にバーチカル・ブラインドのように吊るされて、写真として焼き付けられるのを待った。 『商売道具の扱いは、ベッドを共にした女性と同等でなくてはならない』 とはよく言ったものだ。 人知れず苦悩をかかえる哀れなマイケルの気も知らず、ジョー・ブラックと名付けられた男は、咲き始めた黒い薔薇のように、日に日に美しさを増していってしまった。 彼の魅力に気づいたホワイト氏が、ただの傲慢な偏執狂ではなく、敏腕な写真家でもあり、果てない芸術の求道者であった事実も、我々は忘れてはならない。 目的に対して妥協を許さず、また手段を選ばない彼の手によって創り出された美しさは、ほとんどそのまま写真に映し出され、間違いなく価値と形のある物として、後世に残されている。 むなしいほどあっさりと過ぎていく瞬間を切り取って、残しておける事こそ写真の素晴らしさであると、マイケル・P・ホワイトはいつも語って聞かせていた。同居人にも、初対面の芸術愛好家にも、どこかの店の店員にも。 同時に、被写体の本質を写し出すのが、写真の本質に通ずるとも語っていた。 「いくら着飾ろうと、ファインダー越しには真実の姿が見える」 と、大真面目に言うのだ。これに気を悪くした婦人が肩をいからせ、お気に入りの扇子を投げつけて帰ろうとも、彼は意見を曲げなかった。 自他ともに認める優れた写真家の持論において、ジョー・ブラックの場合は、明らかに被写体としての魅力に磨きがかかっていたと言える。 自分にどれほどの色気があるか、気がついていたかはさておき、“色づいた”ジョーは、モノクロフィルムの内でも外でも、時には黒い薔薇のように、時には黒い宝石のように、輝きを放った。 そんな美しい影が、毎晩のようにベッドにもぐり込んできては、体をまさぐってくる……。 その様子を想像すれば、彼に執心してしまったマイケル・ホワイトのことを、一概に異常として片付けてしまうのは非情と言うものではなかろうか? マイケルは次第に、眠れなくなった。ベッドに横たわり、目を閉じていると、大きな黒い影に襲われるからだ。 “それ”は、古いスタジオのタングステン電球を思い出させる高熱を放ちながらも、弾ける際は使いきりの閃光電球ほどに(もろ)かった。 他ごとでは決して得られない快感を伴う一方で、抜け出せない悪夢でもあった。 と言うのも、1967年までのイングランドとウェールズにおいて、マイケルと同居人Jの間で起きた“赤い満月の夜にあったこと”──彼は親愛なるロブへの手紙の中でそう表現した──は、実際にはあってはならない違法行為とされていたのだ。 (あるとすれば夜半の公衆便所などだったが、同好の士を探して集まる社会的立場のない弱者は、つねに恐喝などの危険と隣り合わせだった。) これは1885年の刑法改正の折、無力な少女を保護するために少女売春を取り締まる上で、アッパークラスの間に流行していた少年売春もその対象となった事に起因する。 ただし、それ以前にも、18世紀の法学者ウィリアム・ブラックストン(William Blackstone)は著書の中で、 『自然に逆らう不快で忌まわしい罪』 と表現している。 当時の社会的観点からして、男性同士の親密な関係が公私を問わず「著しい猥褻(わいせつ)行為」と呼ばれたのは、必然だったのだろう。 確かに、この整然と画一化されてしまった社会では、本能に忠実に過ごすのはむしろ困難だ。理性的にふるまう方が単純で、容易で、自然だと言える。ジョー・ブラックのような生き方に対する人々の批判的な反応が、何よりそれを証明している。 しかしながら、単に法に触れると言うだけで衝動や欲求を抑えられるほど、人は単純にはできていないものだ──現代においても殺人は違法だが、ままあるように。 マイケルのベッドで夜ごと繰り返される行為を焼き増しだとすれば、“赤い満月の夜にあったこと”はそのネガにあたる。ふたりが協力して犯したのは罪であり、まぎれもない事実なのだ。 それなのに、毎日明るい時間に同居人Jことジョーに昨晩の件について尋ねても、「いかれている」の一点張りで、両者は互いに対し、話にならないと感じていた。 これまでマイケルにとって、白だと思う物は白く、黒い物は黒かった。しかしジョーは白い物を黒だと言い、黒い物を白だと言い張った! 昼と夜で変化するその態度が、よりいっそうマイケルを混乱させ、彼の中で真実と現実の境界を曖昧にさせていた。

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