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chap.9 パンプキン・パイ

かつては母から“わたしのかわいいマイキー”と呼ばれていたとしても、いずれ成長し、1人の男性となって、また老いていくものだ。 息子が地下室にシリアルキラーを匿っていたなどと、彼の母が知れば卒倒してしまうだろう。あるいは心神喪失に陥って、自身の教育は大きなであったと嘆くのだろうか? そんな事など考えもせず、マイケルとジョーは新しい町でもただ渇きを潤し、それぞれの欲望を満たすための日々を送った。 月に1度は衝動に従って殺人を犯し、新鮮な死体を撮影する。新しいスタジオに持ち帰るだけでなく、その場で風景画の一部としたり、酢酸の原液で溶かして加工したり、返り血を浴びたジョーの姿も含めた画角にしたりと、ホワイト氏の追求はエスカレートした。 一方、信頼のおける医師の手助けが得られなくなってからの死体処理は、たいへん簡素なものとなった。写真を撮った後は、犯罪史に残る残虐な殺人犯(時にはその協力者)らがそうしてきたように、床下に埋めたり、河や海に捨てたり、共同墓地に遺棄したりしていた。 ジョーもその“助手”をする事に、抵抗を感じなくなっていったらしい。 ホワイト氏の撮りたがるさまざまな年代と性別の被害者を、なるべく“形を損なわない”やり方で手にかけていった。裕福度や障害のあるなしには構わなくなった。彼はやはり柔軟な性分だった。 後に暗室で発見された“悪趣味なコレクション”の被写体に、年齢も、性別も、死因や損壊具合にも一貫性が見受けられなかったのはこのためだ。 協力して作品を創り上げる行為は、2人を興奮させ続けた。 古ぼけた外套を着続けるなど質素な暮らしぶりだったマイケルは、その性質上、快楽に溺れる刹那的な生活には無縁かと思われた。 が、決して慎重だったわけではない。今は亡きアヴリーヌ(またの名をブラウン夫人)との関係がそうだったように、より好都合な相手を見つけたことで、彼の秘めていた狂気は、箱の蓋が開いたのかと思われるほど顕になった。 両者の目的意識は、まるで新品の歯車か、隣り合わせたパズルのピースのようにぴったりとはまったのである。 1963年7月8日発行のレッドトップスに、かの有名総合商社テイラー・カンパニーの御曹司スティーブン・テイラー・“スティーヴ”・アンダーウッド(Stephen Tyler “Steve” Underwood)の遺体が、河口付近で発見された記事が掲載されている。 (※この記録では便宜上、「シリアルキラー(serial killer)」の語を用いているが、当時の報道では「シリアルマーダー(serial murder)」が一般的。ちなみにシリアルキラーの呼称が提唱されたのは1984年のアメリカである。) パブから出た後に水路に転落した不慮の事故とされたが、のちにジョー・ブラックによる最年少の犠牲者と断定された。見合い写真を見るや心に決めた女性と結婚したばかりの24歳──幸せで順風満帆な人生を終わらせるにはあまりにも早すぎた。 これはその前々日にあたる7月6日の出来事である。 午後10時以降、ジョーは道に倒れていたスティーヴを溺れさせた。スティーヴは酩酊状態だった。 泳ぎが得意だと話した際に、マイケルが疑わしげな目を向けたのが、ジョーは気に食わなかったらしい。みずからも河に飛び込んでみせ、水死体を引き上げたところを、ホワイト氏が撮影している。 彼らを見下ろす月は、普段よりも大きく、また不気味なほど赤かった。その年に観測された3度の月食のうちの2度目で、これから待ち受ける不吉な未来を予感させるようだった。 そんな月にそそのかされたように、それまでと違った事が起きた。 家に帰るなり、ジョーが、マイケルに襲いかかったのだ。 と言っても、刃物を向けたのではない。 いつもながらきちんと整えられたシャツの胸倉をつかみ、キスをしたのだった。まだ着替えもしておらず、ぐしょ濡れのまま、唇に食らいつき、噛みちぎりそうな激しさで。 おそらく、スティーヴのように“正常な”男性であれば、彼をはねのける事だってできたのだろう。これから起こりうる行為を予測できる男性には、違法性と感染症を恐れ、指名手配犯のジョー・ブラックを夜の街に閉め出す権利が与えられていた。 しかし、マイケルは首から提げていた大切なカメラを置くと、すぐさまジョーに応じてしまったのだ。 まるで自我形成における歪な体験を見せつけるようなキスを返し、 「どうした? かわいいパンプキン・パイ。ついに死体に欲情を?」 いつもと変わらぬ平然とした態度で尋ねたのである。 その時のジョーの両眼は血走り、赤く光るほどだった。たいそう恐ろしい様だったはずだが、マイケルの中には、ジョーに対する恐怖心など、出会った頃から無かったと言える。 「殺人を犯しても刺激が足りなくなったか。また別の手段を見つけなければならないようだ」 「……ああ、どうやらそうらしい」 ジョーがマイケルの言うことをすんなりと受け入れたのは、これが初めてだったかもしれない。 マイケルはそんな聞き分けのいいジョーの濡れた髪に手を入れ、湿った頬を撫でた。 「こんな手近な人間に、後先も考えずに手を出すなんて。ほんとうに君はからっぽ頭(パンプキン・ヘッド)だな」 倒錯的な欲望をかかえながら、それをおくびにも出さない。“異常な”マイケル・P・ホワイトはそうして、写真家としての仕事を絶やさず社会に溶け込んできた。 彼を知る人に聞けば、たいていは、彼の表情や声のトーンはいついかなる時も一定であり、極めて落ち着いた態度に見えたと答えるだろう。 ただ、ジョー・ブラックと、彼を前にしたその時のマイケルは、そうはいかなかった。むしろその異常性のみが明るみに出る形になったのである。 「何とでも言え。俺はあんな酢酸くさい部屋に閉じ込められるのは、もう限界なんだ」 ジョーは髪から水を滴らせ、自分がされているのと同じように、マイケルの顔に触れて言った。レースカーテン越しの夜の光が、くすんだブロンドヘアと白い頬を浮かび上がらせていた。 「それで私のベッドに来ようと?」 吐息が唇に当たるほどの距離で、互いに目を見つめる。瞳の色は別として、そこにひそんだ意味は同じだった。 殺人とはまた違った形で、ふたりは社会通念や法の壁をやぶろうとしていたのだ。 ひとつ違うと言えば、マイケルの左手はカメラから抜き取ったばかりのフィルム・パトローネを持っているのに対し、ジョーの左手はいつもポケットに忍ばせているバタフライ・ナイフを握っていた点だ。所詮その程度だ。 「ああ、そうだ。死んでから横になるか、生きたまま横になるか……今すぐ選べ」 その時すでに、マイケルは自身がジョーを興奮させているのを理解していた。 (私は君を欲している! それも今すぐに!) マイケルは心の中で言った。 だが、口に出した瞬間から、感情は色褪せるものだ。本人の中でどれだけ鮮やかに彩られていようと、情熱的な炎が燃えていようと。 「生きているうちに君を求めるのも、悪くはないな」 マイケルの口から出た口説き文句は、着色を施す前の幻灯写真のように不完全で、他人事ですらあるようだった。亭主に愛想を尽かした夫人はともかく、ティモシー・コートの娼婦らを1人残らず虜にした美青年ジョエルを落とすには、熱量に欠けた。 だが、ジョーは、濡れた髪の間からあの誘惑的な目つきでマイケルを見下ろし、唇の端を持ち上げて笑った。 「それを口にするのを待ってたんだ、ペニス野郎(ピーター)。俺に美味いものを食わせてみろよ」 みずから誘っておきながら、誘いに乗ったような表情だった。 「Pから始まる言葉は? Pumpkin pie(カポチャのパイ)」 寝室のベッドに横たわったジョーの上に乗り、マイケルはその頬を撫でた。滑ってきた指が唇に触れる。唇から、のこぎりの刃のような歯が覗いた。ジョーは指先を口に含み、 「Peach(桃)」 と答えた。 「Pear(洋梨)」 とすかさずマイケルが言い、ゲームは開始した。 「Pasty(焼き菓子)」 ジョーが濡れた唇で言って視線を上げると、マイケルは嬉しそうに 「Pecan nut!(ピーカン・ナッツ!)」 と言った。すると食料品をよく知るジョーもすぐに 「Peanut butter(ピーナッツ・バター)」 と返した。 「Poison(毒)」 「Parasite(寄生虫)」 「Peacock(孔雀)」 「Pencil(小鳥の羽)」 といった具合に、互いが連想するまま、Pから始まる単語を交わすだけのこの簡単なゲームは、ふたりの間でたびたび開催された。 特にキッチンにいる時など、退屈を嫌うマイケルが始めたくだらない遊びに、調理中のジョーが付き合う形で、ハングマンのようにPaper()Pencil(鉛筆)もいらず口さえ空いていれば参加できた。 新聞や本などを読む習慣がなく、博識とはとても言えないジョーが負けてばかりだったが、ジョーは挑まれると絶対に逃げなかった。 そこに、今夜はベッドの上で互いの体に触り、服を脱がせあって、反応を確かめながら、という特別なルールが追加されていた。 「Pornography(ポルノ映画)」 「Pro(売春)」 「Preggo(妊婦)」 「Parent(両親)」 「Peir(ひと組)」 ひとつの単語から連想される返事はさまざまで、マイケルとジョーの波長は言葉や思考に乗って干渉しながら溶け合っていった。 「Paradise(楽園)」 とジョーが言った時だった。 マイケルはそのダークヘアのうなじに、いくつもの小さな傷痕があるのに気づいた。普段は髪に隠れて見えない位置で、白っぽく、ずいぶんと長い年月が経過しているようだ。 暗い色の肌にのように浮いている様子は、碧玉(へきぎょく)を想起させた。 「Pain?(痛むかい?)」 とマイケルが尋ねた。似た傷が彼の耳の後ろや額にもあるのを知っている。 ジョーは首をかしげた後、はっと気がつき、そこを隠すように手で押さえて首を振った。 そして、上に乗って自分を見下ろしている顔を見上げ、 「Pleasure(本望だ)」 と返した。 しかしその表情があまりに暗かったので、マイケルは 「Patient?(我慢するな)」 と念を押した。それでもジョーは白状せず、むしろ相手を咎めるように 「Paranoia(病人はお前だろう)」 と言い切った。 そんな会話にもならない会話のように、ゲームはさらに続いた。 「Prison(刑務所)」 「Peter(独房)」 ミドルネームを呼ばれたマイケル・ピーター・ホワイトが首をかしげて返事をする。 「どうしたんだ? Pal(仲間)」 「お前の名前じゃない。俺が言ったのはCell(独房)のことだ、Partner(相棒)」 「なるほど。では続きを。Puppy-love(小さな初恋)」 そう言われたジョーは何かに気がついて口をつぐみ、やがて諦めたように表情をゆるめた。 「……Period(俺の負けだ)」 彼が負けを認めた時には、すでにふたりは裸になって繋がっていた。 マイケルは自慢の観察眼と審美眼をもって、その姿をじっくりと査定してやろうと目論(もくろ)んだ。薄明かりの中で裸になったジョーには匂いたつような色気があり、それはもはや殺気にも似ていた。 ベッドの上で人を殺した事はない、とジョーは言ったが、にわかに信じがたかった。 彼が主導権を握った“プレイ”は、力まかせで乱暴だった。まだ若すぎ、相手を思いやって加減する事など知らないようにも取れた。華奢で小柄な娼婦ではままらない場合すら、あったかもしれない。 ジョーは黒い髪をふり乱し、細身の白い体を強く抱いて、ベッドを軋ませた。シーツを乱れさせ、声を上げるマイケルの大事な指以外にも、首や二の腕、わき腹、内ももにも刃物のような歯を立てて咬みついた。 その様子はほとんど、満月に浮かされた大きな獣と、のしかかられ、生きたまま食われる獲物だった。ゲームでの勝敗と、実際のプレイには、何の因果関係もなかったのだ。 マイケル・ホワイトは、ここでようやく、ジョー・ブラックが欲し続けているものを知った。出会った時に問い詰めても得られなかった答え──動機にたどり着いたのだ。 この男は、“生きること”そのもの、そして“自由”を感じたがっている。 目的や使命感などなく、ただ、本能とも呼べる数々の欲望に正直に生きているに過ぎないのだ。 何にも制限されず、たらふく食べ、安心できる場所で眠り、刺激的な交渉や暴力的な衝動を通して、今この瞬間に、生きていると実感している。彼にとって死者は敗者であり、生者こそが勝者だ。 そんな彼の放つ生気が、色気となり、殺気となって、周囲を、そして社会を震撼させているのだ! その人生がジョー・ブラックなどと名付けられ、反社会的とみなされているのは、何とも悲劇的な事実ではないか? 彼の生き方を否定するのは、自分たちが本来あるべき姿の否定になりかねないからだ。 「君は、完璧だ(パーフェクト)」 マイケルはジョーの肩にしがみつき、耳を探してささやいた。ジョーはくすぐったそうに髪を振って、何と言ったのか聞き返すように顔を見返す。 「他の人間──いいや、この社会は欠損をかかえていると言っただろう。だが君だけは、満月のように完成されているんだ」 善悪や良識、社会的規範とは、年齢を重ねるにつれて見栄や通念といったものにとらわれ、彼のように生きられなくなった者たちが、嫉妬によって設けた基準でしかない。人生に疲れ、自信を喪失した彼らが、みずからを肯定し、崇高な存在であると勘違いするためには必要だったのかもしれない。 だが皮肉にも、ジョーはそんなものを初めから気にも留めていない。まるで善悪の区別のつかない子供のように素直な精神に、若い男性としての強靭な肉体と力、そしていかなる罪も帳消しにするほどの美しさが備わった。それが彼という存在なのだ! マイケルはさらに称賛しようとしたが、それは叶わなかった。 「うるせえ。それ以上、わけの分からないことを喋ると舌を噛むぞ」 眼をぎらつかせたジョーが顔を近づけ、またキスをしようとしたからだ。 「Where is the pek of pickled pepers that Pieter Pipar picked?(ピーター・パイパーが拾った1ペックのペッパーピクルスはどこだ?)」 マイケルはジョーをさらにするように、大好きな“P”の文字のために作られた早口言葉を披露してみせた。18世紀フランスの、政治的ないしは宗教的な指導者ピエール・ポワブル(Pierre Poivre)が作ったとされるマザー・グースだ。 単純なジョーは、やはりあっさりとそのに乗った。 「俺はお前なんていつでも殺せる。俺がお前のその舌を噛む事だってできる」 そう言って、きちんと整えられる長さになったブロンドヘアをつかむと、舌をねじ込んだ。燃えるように熱く、溶け出しそうなキスだった。 情欲に火のついた2人は、競うように互いを味わい、むさぼり合った。芯からたぎるような熱が湧き上がり、とめどなくあふれ、こぼれた。 やがて月が見えなくなると、暗幕を垂らすような、暗く深い眠りに落ちていった。

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