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chap.8 ピーカン・ナッツ

それから1ヶ月が経つ頃、ドクター・ロバートの元に1通の手紙が届いた。シーリング・ワックスでしっかりと閉じられた白い封筒で、差出人や署名はない。 権威あるドクター・ロバートによれば、それが誰から送られた物で、また何を伝えようとしているのかは、すぐに分かったと言う。 まるでタイプライターで打ったように几帳面な字は、M・P・ホワイトのものに相違なかった。 『私の唯一無二の友人、親愛なるロブへ』 から始まる便箋には、新たな町での暮らしぶりと、“同居人J”についての内容が綴られていた。(引っ越しに際してハウスメイトを募集したようだが、その旨は省略されていた。奇妙なことに、届け出でも彼は一人暮らしとなっている。) マイケルが彼のことをJと表記したのは、本名を知らなかったからに他ならない。どこで生まれ、どこから来たかも不明の、指名手配犯だ。 ただ、それまでの家と写真館をさっぱりと捨て、見知らぬ土地での暮らしを(いと)わなかった動きからも、マイケルがいかにそのJなる存在を肯定的に捉えていたかがうかがえる。 ロバートはその後、何通もマイケルの自白にして独白、そして告白とも言える手紙を受け取るようになるのだが、初めのうちからそれを書斎のデスクの鍵のかかるひきだしにしまっていた──まるで、何もかも分かっていたかのように。 自身が情熱的な手紙に書かれているとは毛の先ほども知らない同居人Jことジョー・ブラックは、新しい町ではジョンと名乗っていた。(もちろん、これも本名ではない。) ティモシー・コートの娼婦らを色めきたたせた傘下の美青年ジョエルは姿を消し、同時に、殺人事件もその町では起きなくなった。 何度かコートを訪れていたジョエルという男の正体が“シリアルキラー”ジョー・ブラックであると気づいた娼婦もいたはずだが、見つかる事なく、町を出る事に成功したのだ。 うまく逃げおおせた理由は明快で、聡明で危機感を持った淑女ならまだしも、若く、安っぽくて世間と恥を知らない少女にとっては、どうでもよかったからだ。 文字もほとんど読めない彼女らが手に入れられる情報と言えば、文字を使わない雑誌の写真か、階下で飛びかう噂話くらいだ。彼女らにとってジョエルは、警察が血眼になって捜す指名手配犯である以前に、ミステリアスな雰囲気をまとったハンサムな青年でしかなかった。 そんなハンサムな顔を帽子で隠し、新しい上着の襟を立てたジョンことジョーは、次の町での拠点が決まると、まずは場所を把握するために隅から隅まで歩いた。北から南へ、東から西へ。 どこに何の店があって、どんなサービスがあって、どのような人物が住んでいるのか……それぞれの建物の広さや奥行き、建物同士の距離はどのくらいあるのか……目印となる看板、壊れそうな街灯、人が立ち入りそうにない区画、そして、死角はどこなのか……。 帽子の中の、カーリーヘアの中の、頭の中に、立体的で精密な地図を描いていたようだ。 帰り道、彼は近所のパティスリーから、1ホールのチーズ・ケーキと、ティーブレイク用の茶葉を買っていた。 身の丈6フィート2.5インチもある大男であれば1人で食べてしまう事もできたはずだが、マイケルの元へ持って帰ったのである。まるでメイドのように、わざわざ彼のための紅茶まで準備するつもりで。 彼なりに、逃亡に付き合わせているといった贖罪の気持ちはあったのだろうか? それは何とも難しい問いである。そうかもしれないし、ただ単に、家でゆっくりと食べる事を楽しみたかっただけかもしれない。胸のうちをあまり口に出さず、勝手な行動に出るのは、ジョエルとジョンの共通点のひとつだった。 それを知ったマイケルは作業の手を止めて憤慨した。 「買ってくるならピーカン・ナッツ・パイだと言ったはずだ! この役立たずで物知らずの大馬鹿者め!」 最初は白い肌を真っ赤にし、ブロンドヘアを逆立てんばかりの怒りを見せた。 次に部屋を歩き回り、荷ほどきを終えたばかりのリビングを荒らした。テーブルを倒し、柱時計のガラスに椅子を投げ、ソファーに置いたクッションに穴をあけてしまった。 「もじゃもじゃ髪の中にある耳をどこかに落としたのか!? それともPから始まる単語が読めないか!? からっぽ頭め(パンプキン・ヘッド)!」 まるで癇癪の発作のように怒鳴り散らして、ありったけの言葉でジョーを罵倒したのである。 その怒りはなんと3時間に(わた)り、最終的にマイケル自身が呼吸困難に陥ったことで、あっけなく終わりを迎えた。言葉が続けられなくなり、床に倒れたのだった。 新しく借りた家の床には横倒しになったテーブルとクロス、割れたグラス、花瓶、クッションに詰められていた綿が散乱していた。 ジョーはそれらを踏んでゆっくり歩み寄ると、胸を押さえて苦しむマイケルの頭の方にしゃがみ込み、 「どうだ、満足か?」 と尋ねた。 マイケルが癇癪持ちであるのは、これまでの生活の中で把握していた。彼が家具を倒し始めた時からジョーは反論を諦め、ケーキを冷蔵庫の中へと避難させて、静観していた。紅茶を飲むお気に入りのマグはジョーの後ろの食器棚にあり、無事だった。 「そのまま床で寝てろ、と今の俺は言ってやりたいところだがな」 ジョーはまた伸び始めたカーリーヘアをかき上げ、わざとらしく見せつけるように耳に掛けた。落としたなどの事実は決してなく、鋭い外見に反して、やや丸みを帯びた可愛らしい耳があった。 そして、血の気を失って青い顔をしているマイケルの体を引き上げてかかえ、もう片方の腕で倒れた一人用ソファーを起き上がらせると、そこへ投げ落とすように寝かせた。 「この、甘い物好きのジョン(ジョニー・“スウィート・トゥース”)め……」 マイケルは新しい町でのジョーの新しい名前をうめくように言ったが、その声はすっかりかすれていた。起き上がれもせず、首を折ったままぐったりと、背もたれへしなだれかかっている。 ジョーはそんなマイケルに一瞥をくれただけで、 「片付けの邪魔だ。おとなしくしとけ」 と言い、階段下の倉庫へほうきを取りに行った。 M・P・ホワイトの強すぎるこだわりには、多くの謎があった。 ケーキやパイひとつとっても、なぜこれほどまでに激情するのか、常人(正常な人のこと。)や凡人(平凡な人のこと。)には理解できないだろう。常軌を逸していると言っていい。彼がたびたび口にするパンプキン・パイならまだしも、ピーカン・ナッツ・パイでなければならなかったのも、はなはだ疑問である。 大好きなPの文字から想起する中には確かに、大叔父ピーターと、セイヨウハシバミの木の実(ピーカン・ナッツ)も含まれる。 もしも、かつて彼の大叔父が首を吊ったセイヨウハシバミの木を想起しながら食べると答えたなら、あるいはその異常な要因に気づけたかもしれない。ただ、不幸にもそれを彼に尋ねた者はこれまでおらず、また、彼はその隙を与えなかった。 そのため、思考をそこから先へ発展させる事はできなかったのだ。 つまり、なぜこれほどこだわってしまうのかは、本人にも分からなかった。理由よりも先んじて強い情動が湧いてきて、抑えられなくなってしまった。 そんな変人とも形容すべき彼の世話を、ジョンのような荒っぽい男がかいがいしく焼くのは、傍から見ていれば実に滑稽だったに違いない。 事実から類推するに、どうやらジョーには、マイケルの元を去る気がなかったらしい。 出会ったばかりの頃のジョーと言えば、血の気が多く、たびたび殺害を宣言した試しもあったが、マイケル相手ではその脅しはまったくと言っていいほど効果が見られなかった。 それを理解したジョーはむなしさに気づいたのか、マイケルが何を始めようとも深く言及したり、激しく主張し合ったりするのも諦めがちになったようだ。 彼は物事に固執しやすい相手と暮らせるほど、柔軟性のある若者だった。生活を共にするうち、たとえ容姿や生い立ちを侮辱されても、強い感情をぶつけられても、受け流すまでになっていたのだ。 そんな“柔らかい”ジョーが部屋を片付け終え、家具を元の位置に戻し、整然としたリビングにアールグレイの香りを漂わせ、(およそ)2人分のチーズ・ケーキとミルク・ティーを持ってくる頃には、マイケルはすっかりおとなしくなっていた。 “固まって”宙を見ながら、うわ言のように、いつもの言葉を口にする。 「私の名前はマイケル・ピーター・ホワイト。ピーターのPは──」 「PictureのPだ」 それを、ジョーがさえぎるように続けた。 「俺はもう聞き飽きた。俺には耳があるからな」 するとマイケルは一度唇を噛んでから、ある話を切り出した。 「Pのピーターは、私の大叔父だ」 彼の口から家族について語られた事がほとんどなかったので、あまりに驚いたジョーはチーズ・ケーキをひと口含んだところで硬直してしまった。 「セイヨウハシバミが、死体だ。大きな、大叔父が庭にあって、巻きついたロープの……」 両腕で目元を隠したマイケルは壊れたレコードのように、支離滅裂に単語を並べた。 さらにそれは続き、 「牧場ではなかった、牧場ではなかったんだ!」 とわめくと、わあっと泣き出してしまった。 ジョーは呆気にとられてその様を見ていた。知り合ってから4ヶ月が経っていたが、写真撮影をしながら興奮するのを除けば、マイケルが怒り以外の感情を顕にした事がなかったからだ。 「だめなんだ。ピーカン・ナッツでなければ……」 ソファーには、弱々しい声で言い、顔を隠してすすり泣く“わたしのかわいいマイキー”が座っていた。 幼い彼は大叔父の死を──いや、死の概念すらもまだ理解できていなかった。 幼年期の衝撃的な体験として心に焼き付けたはいいものの、それがどんな出来事で、何を意味しているのかを受け止めるまでにいたらなかった。 ピーカン・ナッツをめぐってピーターの名に触れた事がきっかけとなり、彼の内側で、小さなマイキーと大きくなったマイケルが、この時初めて邂逅(かいこう)していた。 ジョーはフォークを置いて席を立つと、掃いたばかりの床に膝を突いて、“かわいいマイキー”の顔を覗き込んだ。 「お前の大叔父が、バケツを蹴ったんだな?」 (※バケツを蹴るは、死ぬ事を示す隠語。首吊り自殺の際、バケツを台にして首に縄をかけ、最期にそれを蹴りとばす様子に由来する。偶然にも、ジョーの発言はその通りの意味である。) その問いはナイフのように鋭く、マイケルの深い意識を突き刺し、血だらけの臓器のように記憶をえぐり出した! 大きなセイヨウハシバミの木、ロープでぶらさがった死体、そして、足元に転がったバケツ……。 写真を見返すかのようにありありと思い出された情景を、マイケルは確かに濡れたまぶたの裏に見た。 傷つきやすい幼少期の心に写し取られた得体の知れない虚像は、その後の人生を狂わせる形で現像される仕組みとなっている。 彼の場合は、潜在的な死への興味、理由の見えぬこだわり、制御のきかぬ感情の高ぶりなどだ。さらには生きている人間──周囲への関心の薄さや、倫理観の欠如といった、反社会的な人格と困難な現状まで引き起こしてしまっていた。 ジョーの言動が、それらを彼に強く自覚させ、顕在意識にまで呼び起こさせた。 マイケルは初めて、大好きだったピーターの死を受容する事ができた。歪な形で紐づけられた記憶こそ、彼がピーカン・ナッツ・パイにこだわってしまう理由だった。 本人さえも気づく事のできなかった、だが彼にとっては間違いなく、無くてはならなかった気づきは、同居人Jによってもたらされた。 「ああ、ジョニー、私の愛したピーターのミドルネームはジョンだった……今の君と同じだ。偶然にも」 マイケル・ピーター・ホワイトは両手で鼻と口元を押さえ、くぐもった声で打ち明けた。 「私には彼が必要だった……大叔父で、名付け親だったんだから。マイケルも、ピーターも、彼から産まれたんだ」 潤んで赤くなった眼は、涙に幼さをにじませている。 見上げられたジョーは思わず目を逸らすように、きびすを返した。なにか、見てはならぬものを見てしまった気分がしたのだ。 「マイケル・シニアは何をやってたんだ。ザ・ブリッツの時に死んだか?」 (※Blitz(ブリッツ)はドイツ語で稲妻の意。ここでは1940年代のドイツ軍による大規模な空襲を指す。) ジョーは背中を向け、悪態をついた。たとえば傷ついた心に寄り添ってやる母性や、進むべき道を示してやる父性、マイキーにはそのどちらもが不足していたようだったからだ。 問われたマイケルは大きく息をつき、背もたれにぐったりとより掛かったまま、カーリーヘアが後ろを向くのを見ていた。 「彼は別にマイケル・ホワイトじゃない。私こそがマイケルだ」 「じゃあお前の親父は誰なんだ?」 「名前なんてどうでもいい。私は彼を父と思った事はないし、彼も私に父としての愛情を注いだ事はない」 徐々に、いつもの冷静な態度と傲慢な口調が戻ってくる。 「紳士とはほど遠い男のくせに、外聞を気にする事しかしていなかった。家の中では私の母を“あばずれ”や“尻軽”などと呼んで……殴ったり、蹴ったりしていた」 無感情で、文字通り他人事のように答えるのが、椅子に座り直したジョーの“耳”に、確かに届いた。 「父親になる男に、ろくな人間はいねえのか」 ジョーはむしゃくしゃしたようにケーキを手でわしづかみ、むしゃむしゃとティーブレイクを再開した。 それを見たマイケルもようやく準備された席に着き──“甘い物好きの”同居人に自分のぶんまで食べられてしまうと危惧したのかもしれない──、まだ温かいミルク・ティーのマグに手を伸ばした。 「母親だってそうじゃないか。人間は皆、いくらも欠けている。だから不足を補うために番おうとするんだ。産まれる子供が完璧になる保証が無いとも気がつかずにな」 かわいいマイキーは、さも世界のすべてを知り尽くしているかのような高慢ちきなマイケルにすっかり戻っていた。 もし、仮に、“ホワイト氏”がマイケルにとって大叔父であると同時に遺伝子上の父親にあたる人物だったとしても、今となっては重要ではない。どれだけ歪んでいようと、すでに起こってしまった事実を変えることはできないからだ。 大きくなったマイケルには、形式上の父でも、大叔父でもなく、ジョーが必要だった。

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