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chap.7 レディーズ・ファースト
その頃、ティモシー・コートのほとんどの娼館は、2階もしくは3階建ての酒場や賭博場の体を取り、上層階の部屋に娼婦が暮らす形で営業していた。
都市部から離れた地域は時代に取り残されやすく、自治体の持つ独自性の高いルールが法より力を持つのはよくある話だ。そうした地域における売春は1962年の時点でも公的なサービスとして、公衆風俗を保つ役割を担っていた。
性とは、繁殖に直接結びつけられた、原始的な概念である。本能に直接語りかけるように興味を惹き、見果てぬ快楽と痛みを生み出す力とも言える。今この世に生きとし生けるものすべてが──当人が認めるか否かに関わらず──抗 える者などいないと証明し続けている。それほど強烈な力だ。
皮肉なことだが、貞淑や高潔を重んじたり、性を嫌悪したりする者もまた、この世に性がなければ生を受け得ない。生の否定はすなわち死であるのと同義で、性の否定は存在の否定に繋がる。
多くの芸術家が、真理の追究を盾に倫理という枠組みを脱し、作品の題材として性を愛好するのもまた、そんな生と死の神秘に魅せられるからだろう。
子宮に宿りし種がまだ人間の形をとる以前、あるいはこの世での役目を果たし、肉体と精神が切り離された後も、人は性の支配からは逃れられない。
多くの芸術家は、枠組みを逸脱するべく性を愛好した時点で、まごうことなき凡才に収まってしまうのだ。
M・P・ホワイトもその一人かと思われた。
ただし彼の場合は客ではなく、若い娼婦の美しさを記録しておくべき人物写真家として、“正式に”娼館に招かれていた。
「夕方6時に雨が降っていたら、傘を持って私を迎えに来るように」
それが、家を出る前のマイケルからの言いつけだった。
彼はいつものように機材を背負い、レインコート代わりの外套を着て、いつも以上に変わりやすい11月の天気の下へ出かけていった。
イングランドでは、その地域性からも分かるように、街なかでわざわざ傘をさす者は珍しい。しかしホワイト氏のボストン・バッグに入れられているのが水に弱い機器であると分かれば、不自然と呼ぶのも不相応だと分かる。
言いつけを守るほどの義理堅さも実直さも持ち合わせていないかに思われたが、なかなかどうして、ジョーは指定された時間に間に合うように、ティモシー・コートに現れた。やはり降り出した雨の中を、まるで従僕のように迎えに来たと言うわけだ。
ある娼婦が外の様子を見るために館のエントランスに出てきて、扉のわきに立っている男に気づくなり、
「雨ばかりで憂鬱ね」
と声をかけた。それが凶悪な“シリアルキラー”ジョー・ブラックであるとは思いもせず。
ジョーは彼女をちらと見たが、
「ああ」
と短く答えるに留めた。
バターのような濃いブロンドヘアを結い上げた娼婦は、甘いコロンの香りをさせてジョーに近寄ると、顔を覗き込むようにして、
「今夜は、あたしといかが?」
と尋ねた。
彼女がそうしたのはもちろん仕事のためでもあったが、閉じた傘を片手に、雨に濡れないよう軒下にたたずむ様子が、ひと目見ただけでそうしたくなる姿だったからだ。仮に、その正体を知ったとしても、彼女のふるまいは変わらなかっただろう。
昨晩遅くにマイケルの手にした鋏に切られ、指名手配犯の1番の特徴であったカーリーヘアはその目元を覆い隠す役目を放棄した。つまりこれまでは前髪の隙間に覗くに過ぎなかった端正な目鼻立ちが、すっきりと露わになったということだ。
しかも、その日のジョーはたいそう機嫌がよく、
「いいや、俺は人を待っているだけだ」
などと、穏やかに断ったらしい。
だが彼女はすぐには諦めず、
「なんと呼べばいい?」
と尋ね、肩に触れた。
ジョーは自分の胸辺りの高さに迫った顔をまたひと目見てから、わざとらしく遠くに視線を逸らせ、
「……ジョエル」
と吐息まじりに答えた。
「それなら、ジョエル? 次はこの“金髪娘 ”を呼んでね」
「ああ」
ジョエルと名乗ったジョーは短く答え、ふと思いついて振り向き、彼女の髪を指差した。
「いいな、そのブロンド。男は皆、ブロンドが好きだぜ」
両まぶたを青く塗り、目のふちを黒くくま取り、コルセットで白い胸を盛り上げた彼女は、それを聞いただけで耳まで朱に染め、生娘のようにヒールを跳ねさせて店に戻っていった。
マイケルはなかなか出てこず、代わりに、客を見送りに出てきた娼婦が、その度に代わるがわるジョーを誘惑した。
──いや、先だって切られたカーリーヘアと、その下の“よく見える”ダークアイが、先んじて彼女らを誘惑していたのだ。
そんな恵まれた容貌の持ち主ジョエルはひとりひとりの誘いを丁重に断り、彼女らの目や肌の色、ドレス、耳飾りなどを褒めてから店に戻らせた。
一見すると彼は肉食の獣を彷彿とさせるような野性を感じさせたが、その物腰は実に紳士的だったと娼婦らは口をそろえる。
美青年であったがゆえに、余計に良いように見えたとしても仕方がない。容姿に恵まれた者は能力も高く、他人から好感を抱かれやすいのは、人の心理的作用による当然で必然だからだ。
しばらくしてようやく、客でも従業員でもない男性が、見送りも伴わずに出てきた。
さすがの“紳士的な”ジョエルもしびれを切らし、今にもジョーに戻らんと傘を開いたところだった。それを見計らったように、彼は玄関先に現れたのだ。
いつもの古ぼけた外套を着ると、目の前に開かれている傘の下に、ためらうそぶりも見せずに入った。いったいぜんたい、どういう風の吹き回しか、と疑いもせず、そうするのがさも当然で、分かりきっていたと言う風で。
召使いの運転手の回してきた車に乗り込む金持ちの雇い主さながらにそうしたのは、ジョエルが待ちわびたマイケルだった。
「遅かったじゃねえか。受け取った金をそのまま落としてきたか? ペニス野郎 」
美青年はいつものジョーに戻って言ってみたが、
「そんな暇はなかった。私は君のような遊び人 とも、貧乏人 とも違う」
とマイケルは答え、さらに機材の入ったボストン・バッグをジョーの胸に押しつけた。
片手に傘の柄を持ったジョーはそれを一度見てから、マイケルの顔を見返す。
「何だ?」
「相変わらず頭の空っぽな男だな。その頭と同じ、空いている手を出すだけだ」
「さっきは自分で持って行ったくせに」
「君がいなかったからだ。そんな大きな体をしていて、こんな物も持てないのかい?」
簡単に挑発されたジョーは鼻を鳴らし、いらいらと頭を振ると、引ったくるようにバッグを受け取った。写真家が仕事道具にあたる機材を預けるのがどんな意味を持つのか、それを考えられるほど冷静でいられなかったらしい。
「私のパンプキン・パイは、なんと聞き分けのいい子だろう」
笑みひとつ見せずそう言ったマイケルと、彼のパンプキン・パイことジョエルは1本の傘を分け合う形で、通りの出口に向けて歩き出した。
持ってきた傘のうち、1本は初めから骨が折れて壊れており、まともに使えるのは1本しか無かった。この場合の雇い主であるマイケルも、召使いのようになったジョーも、壊れた傘を使うのを良しとしなかった。
まだ雨は止まず、舗装された水はけの悪い道が4足の革靴を濡らし、側溝からあふれたぬかるみが低い踵 を汚す。
2人の男が1本の傘に入り、娼家街を歩く姿は、窓やエントランスから覗くいくつもの偶数の好奇の眼にとって格好のえじきだ。特に大柄で人目を惹く容姿のジョーにとっては、人目は何より避けなければならないものだと言うのに。
「まるで俺はお前の召使いだ。やっぱり来るんじゃなかった。見世物じゃねえか」
またジョーがぼやいたが、
「見世物小屋はこんな物じゃない。自分が荷物を手で持って、2本の足で立って歩ける事を不思議に思うようになる場所だ」
マイケルはジョーの顔を見ようともせず、ただ前を向いて、きっぱりと応じた。
「よく知りもせず口を開かないように。一緒に歩く私に恥をかかせる気か?」
1本の傘に入って娼家街を歩く2人の男のように、奇異な存在もまた、いつの時代も人々の好奇心をそそるものだ。
芸術家には、そうした場所に通う者もいくらかいる。中でも、未熟な芸術家は殊 に、他者との差別化を図りたがる傾向にある。つまり、写真であれば他者と異なる者──差別される者を撮影したがるのだ。
そこには商業写真家のみならず作品を商品とする狙いもあれば、その隙間に、自己の唯一性を見出したいといった願望も込められているだろう。経緯はどうあれ、自分が特別な存在になれない凡庸な者だと知った時のみじめさは、そうそうあるものではない。
普段は忘れたふりをしているだけだ。打ちひしがれてばかりでは生きていけないし、非凡に歪な憧れを持つ者ほど事実を認めたがらないものなのだから。
その結果、彼らは生まれつきの異質さ(という才能)を持った他者に依存し、彼ら彼女らを被写体に据えることで、さも自分までもが特別であるかのような錯覚を覚える。
その快感は、中身の腐った果実を美味そうにかじるのと変わらない。これ見よがしに歯がある事に感謝する姿は、作品を見た者を辱める場合がある。
「……俺はお前なんていつでも殺せる。1人で歩いた方がましだ」
両手を塞がれたジョーが恨めしげに吐き捨てた。
この、「俺はお前なんていつでも殺せる」というのは、この頃のジョーがマイケルに向かって言う口癖のひとつだった。
だが、それが実行に移される兆しはなかった。
ジョーのマイケルに対する扱いは、むしろ、レディーズ・ファーストに近づいていたのだ。傘を持って迎えに行き、重い荷物を持ち、建物に近い方を歩かせていた。
片や、マイケルはそんなジョーの黒いシャツの中に腰の後ろから手を入れ、ベルトをしっかりとつかんでいた。
一見すれば大柄な方が強く見え、また実際にアーム・レスリングなどで力比べをしたとしてもその差は歴然だろう。そんな力持ちの紳士が親切にも、「なよっちい」男性の手助けをしているように見えるかもしれない。
だが後ろでは、マイケルがまるで馬の手綱を握るように、ジョーの進行方向をたくみに操っていた。それは、2人にしか分からない秘密めいた行為だった。ジョーの言うように1人で歩かせる気など、マイケルにはなかったようだ。
コートの出口が見える頃には、雨はほとんど止んでいた。やはり天気は変わりやすく、あのまま彼の仕事場である娼館で待っていても構わなかっただろうに。
傘を閉じると、ジョエルはいっそう目を引く存在になった。
雨に濡れてきらきら光る街角に高いヒールを履いて出てきた娼婦らは、雨粒と同じくきらめかしい微笑みをかけたり、あやしげな視線を送ったりした。館の2階にある部屋の窓を開け、なまめかしく手招きをする姿もあった。
ジョエルがその白と黒のはっきりとした眼で一瞥をくれるだけで、女性の色めきたつ声が聞こえるほどだった。財産を持っていないからと言って、感情まで持っていないとは言えない。
一方、マイケルは次第に不機嫌になっていた。
「まったく、よく笑う女性は美しくない。品もないし、ケーキのような顔が崩れている」
「そう言うお前はどうなんだ?」
女性が先を歩くもの にのっとり、すこし後ろを歩いていたジョーがすかさず言い返す。
「自分の写真は見た事ねえのか? 顔と髪を整えてから言えよ」
彼はちやほやされて気を良くし、分かりやすく尊大な態度をとっていた。(マイケルの髪型が崩れているのは自身のせいだともすっかり忘れて!)
ジョエルは魅惑的だったが、ジョーは短絡的だった。
ただ、マイケルはそれよりさらに尊大で、自分の考えは絶対だと信じていたので、
「写真が美しいかどうか。それを決めるのは、撮影と現像をした者の腕であって顔ではない。カメラの“こちら側”にある物が美しかろうと醜かろうと、無意味だ」
と自説を唱えた。一辺倒に話すのも普段と変わりないが、足取りや声の調子から苛立っているのが伝わってくる。
さらに、口を挟む間も与えず次のように続ける。
「いったい誰がミス・コンテストの審査員の顔を憶えている? 較 べるべきは同じステージに立つ他の女性だろう。むしろ醜悪な容姿をしている者ほど、美にこだわる。毎日毎日、飽きもせず自分の顔を見ているんだから」
ジョーは説教をされた子供のように頭を掻いて、その指で短くなったカーリーヘアを梳きながら、前を歩く後頭部を見下ろした。あちこちに広がった、長さもまばらなブロンドには、整髪クリームも型なしだったようだ。
「たしかに、前はこんな扱いは受けなかった。まるであぶく銭をはたきに来た浮浪者を見るような目で……ああ、今は“較べる相手”が近くにいるからだな」
からかわれたマイケルがようやく振り返った。雲の切れ間から射してきた光に照らされた白い顔が、ジョエルの浅黒い顔を見上げる。
「口からこぼれて空っぽになった頭には自分の名前すら残っていないか? 君を気分のいい美青年にしたのはこの私。つまり私は君の親だと言っても嘘じゃないんだ、“ジョエル・ホワイト”」
そして、きらめく羨望を一蹴するようにまた前に向き直り、ぶつぶつと独り言を言った。
「昨日は髪、今日は顔のせいで……君のせいで私の生活は破綻した。引っ越しの準備をしなければ」
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