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chap.6 レイザー・ナイフ
ジョー・ブラックは、午前1時を回ってから家に帰ってきた。
マイケルには明日も撮影の予約があったが、眠らずにいた。それどころか、撮影機材だけでなく軽い夜食の準備までして、ダイニングの椅子に座っていた。
玄関扉が開く音が聞こえ、大きな体がのしのし歩く足音と、ずるずると物を引きずる音が続いた。
「遅かったじゃないか。すこし話をしないか?」
先に声をかけたのはマイケルだった。
ジョーは驚いた様子も見せず、顎を上げるようにして、鼻まで伸びたもじゃもじゃの前髪からダイニングを覗いた。そして、うんざりしたように顔をそむけてしまった。
「……どうして俺がこんなことを」
ため息まじりに言ったのをかき消すように、マイケルは勢いよく立ち上がった。
「まさか! 死体を“連れて”きたんだなっ!」
高らかに言い、ジョーに駆け寄る。
その後ろには確かに、ぐったりとした人間がシャツの襟首をつかんで引きずられていた。間違いなく今回の被害者であり、抵抗する力も意思も残っていないらしい。
「私のために! ああ! よくやったぞ、パンプキン・パイ!」
マイケルは飛び上がって喜び、みずからジョーの肩に腕を回した。勢いあまってその頬にキスをしそうになったくらいだ。土産を手に帰ってきた父か、憎き相手の首を取ってきた部下、あるいは今朝の新聞を持ってきた犬にそうするように。
「実は今朝のことを謝ろうかと思ったんだ! いいや、別に私が悪いんじゃない。だが君はこうして、私に貢献してくれているだろう? そんな君にかまう暇はないなんて──」
しかし思い留まって動きを止めると、表情を消し、今度は厄介払いするように手を振った。
「──そら、あとは私がやる! いつまでその汚い頭と顔と服でいるつもりなんだ」
あんまりな言われようにも、ジョーは反論しなかった。朝方の血の気の多かった様子とは一変して、“土産”を落とすように手放すと、のそのそと体を動かし、バスルームの方へと消えた。
ホワイト氏は意気揚々と、被害者を観察しにかかった。
やはり高齢で身なりも良かったが、いつもとは違い、力の弱い女性ではなく男性だ。のちに、ジョー・ブラックによる殺害の、初めての男性被害者として報道される宝石商のコーリン・ドナルドソン・エヴァンズ氏(Mr.Colin Donaldson Evans)である。
彼の体にはまだ体温があるばかりか、妙なことにナイフによる刺し傷や切り傷は見られない。ただ、首には絞められた痕があった。白目をむいて、口からは泡を吹いている。
廊下のランプも点けずにカメラを構え、ダイニングからの明かりを頼りに、レンジファインダーを覗き込んだ。レンズのリングを回して、被写体との距離を調節する。
動作はいつも通り粛々として、しかしどこか浮き足立っているのは、誰の目にも明らかだった。もし見た者がこの世にいればの話だが。
ビューファインダーを覗き込み、シャッターを切ろうとした瞬間、何か──誰かが彼の足首をつかんだ。浮き足立っているとはいえ、彼の足は床についていたからだ。
「何をしているんだ?」
カメラから顔を離し、足元を見下ろしたマイケルは、すこし迷惑そうに言った。
そこに居たのは、ジョーの“持って帰ってきた”被害者だった。この時、コーリンはまだ生きていたのだ!
黒目が表れ、助けを求めるかすれ声を出していた。
……が、相手が悪かった。すべてが自分の望み通りに動くと思い込んでカメラを携えたホワイト氏にとって、彼は出来損ないの被写体でしかなく、その気を起こさせるにはいたらなかったのだ。
次の瞬間、鋭いものが両者を切り離した。おそらく銀色で、風音と残像を伴っており、仮に500分の1秒のシャッタースピードでも、技術がなければ像を捉えるのは困難だったかもしれない。
目の前に勢いよく下ろされたのは、見覚えのあるバタフライ・ナイフだ。
切っ先が廊下に倒れているコーリンに命中し、首を突き刺した。血が噴き上がり、音を立てて壁とスラックスを汚す。
「何てことを。血の出ていない死体を撮影できると期待したのに、これでは今朝の宣言通りじゃないか」
ホワイト氏が残念そうに言った。驚きの色は微塵もない。
死体となった手にまだズボンの裾をつかまれたままになっていても、これは珍しい光景だと言いたげにシャッターを1度、切るだけだ。
「……うるせえ」
反論とともに、その足元に影のような長身がしゃがみ込む。
「俺に殺し方まで指図するな」
使い慣れた3.5インチの刃を引き抜くと、また、ゆらりと立ち上がった。
駆けつけたジョーは、シャツを着ていなかった。素肌についた返り血は、暗い廊下ではよく見えない。
「殺しすらできていなかっただろう。君らは何世紀経とうが進歩できないらしい」
ホワイト氏は蔑 んで言った。申し訳なさもすっかり消え、不満を訴えたい気分だった。それまで生きていた人間が死体となる過程の一部始終を目撃したが、ショックなどは受けていない。
「……これはお前のせいだ。今朝、お前が俺に“あんなこと”を言ったから……。こんな方法じゃ、死んだかどうか分からなかった」
ジョーは悔しそうに言い訳をした。
それから、鬱陶しい前髪をかき上げる。白昼のもとでは隠されている素顔を、好奇心旺盛で怖いもの知らずな月の光が窓から覗こうとする。
およそ1ヶ月の間に、カーリーヘアはさらに伸び、前髪が鼻まで隠しかねない長さになっていた。後ろの髪も、うねりながら肩についている。
それに気づいたマイケルは期待通りでなくなった被写体を転がして脇によけ、
「そんな頭をしているからだ。いくら顔を隠すためでも、それでは本末転倒じゃないか」
と、もっともらしく指摘した。
首から提げたカメラも床に転がった死体もそのままに、マイケルはジョーの腕を引いてバスルームへ向かった。
廊下とは違い、照明の点いたそこは明るく、ジョーがバスタブに湯を入れようとしていた形跡として、黒いシャツがその場に脱ぎ捨てられ、空っぽのタブは濡れていた。
マイケルはそのへりに返り血まみれの大きな体を腰かけさせ、シンクの下から鋏 を取り出すと、
「入浴は散髪が終わってからにするといい」
と言った。
うつろなダークアイが、カーリーヘアの下で動いてそれを見上げる。何をされるか分かっており、抵抗する意思もないようだった。
マイケルは満足げに、そして得意になって、ジョーの伸びた髪を切り始めた。
頑固そうなもじゃもじゃのカーリーヘアは、近くで見るとつやがあり、ステンレス製のコームで梳 いてやればするすると伸びて、持ち主同様、おとなしく言うことを聞いた。
「親族に理容師がいた。子供の頃、見よう見まねで大叔父の牧場にいた馬の毛を切って叱られたものだ」
M・P・ホワイトの口から語られる昔話や失敗談は希少なものだったが、ジョーは何も言わなかった。死体から引き抜いたばかりのナイフを握りしめ、硬直したように口を閉じていた。
写真家による散髪は顔を隠していた前髪から始まり、顔のわきを通って、ぐるりと頭を一周した。後ろ髪もばっさりと切られ、うなじや耳まで見えるようになる。
額の上部、髪の生え際に白っぽい小さな傷痕があり、前髪はそれをうまく隠すような長さに整えられた。
「ああ、これは驚いたな。とんだ美青年が現れたじゃないか。名前は何と言うんだ?」
マイケルはわざとらしいほど大袈裟に、どこか芝居がかった様子で言った。
そこに座っていたのは、先ほどの汚らしい髪や服装とは見違えるような、甘いマスクをした“誰か ”だった。
「何言ってんだ、お前」
怪訝そうに眉を歪める様子さえ、今はしっかりと見て取れる。ダークヘアと同じく黒い眉はしっかりと太く、眉骨が張り出して目元に影を落とし、ダークアイの強さがいっそう増したようだ。
鋭い外見に反して耳の形は愛らしく、左耳の裏には額と同じ小さな傷痕があった。
「私はマイケル・ピーター・ホワイト。ピーターのPはpictureのPだ」
ホワイト氏はいつものように唱え、当然のようにカメラを構えた。美しい対象を前にして、その姿を焼き付け、残しておきたくなるのは、カメラが発明される以前からの人間の自然な心理だからだ。
本人の了承など求めもせず、素早くフォーカスを合わせ、シャッターを切ってしまう。
「待て、やめろ!」
途端に、それまでおとなしくしていたジョーが腕を上げて抵抗した。
ストロボの光に目を灼かれた経験がある上に、追われる身の上である。まさか殺人を犯した直後の写真を、こんなにも間近で撮られるなどとは思わなかったはずだ。それが人の目に触れるなどひとたまりもない。
バリソンはすでにポケットに収めているが、その気になればカメラを壊してしまう事もできた。
「それを新聞社に売りつけるんじゃねえだろうな! 俺を匿ったのもそのためだったのか!」
夢中で撮影していたホワイト氏だったが、この言葉を聞いて黙ってはいなかった。ファインダーを覗くのをやめると、これまでにないような怒りの形相が現れた。
「私にとってフィルムは妻、作品は娘も同然だ! たとえそこに写っているのが下品で物知らずで大食らいの大男であってもな! 愛する彼女たちをあんな三文記事ばかりのゴシップ屋に売ってたまるか!」
ひどく侮辱されたとばかりに激昂し、ジョーを怒鳴りつけたのだ。
あまりの剣幕に、ジョーは圧倒されてしまった。今朝から先程までの、気が立っていた自分以上の異常性を感じたのだ。
それを見せつけられるようにされたジョーは、かえって自分の方が正常であるのかもしれないとすら思い始めた。嘲笑してもうまく躱 されるのに、こんな形で激怒するとは思いも寄らなかった。
閉口し、立ち尽くすジョーの右手に、マイケルは鋏を握らせた。体裁を取りつくろうよう、一度咳ばらいをしてから、
「散髪の礼はいらない。代わりに、私の髪も切ってもらおう」
バスルームに響いた怒りが嘘のように冷静な口調で言い、ジョーにさせていたようにバスタブのへりに腰を下ろした。さらに、愛用のカメラは両手で持ち、切られた前髪が目に入らないよう、まぶたも下ろしてしまう。
ジョーは大きくため息を吐いた。M・P・ホワイトは独善的で、身勝手だったが、なぜかそれをしてやらなければならない気分にさせる雰囲気もあったのだ。
それは彼の母から“わたしのかわいいマイキー”と呼ばれていた頃の名残で、もし彼が傲慢さではなくその魅力をもっとうまく使っていれば、すくなくともいくつかは、人間関係での衝突や摩擦を避けられただろう。
くすんだブロンドヘアを取り、鋏を走らせながら、ジョーは何とかマイケルを侮辱してやろうとしていた。
「俺に刃物を渡すなんて、命知らずな野郎だ」
しかしマイケルが相手では、むしろ侮辱的に言い返されてしまう。
「どうせ君は、ナイフを使ってでしか人を殺せないんだろう? 鋏が鋏であって、それ以外の何かにはなれないように」
「食人鬼が出所後に開いたステーキハウスにも行くんだろうな」
「もし君がディナーに誘ってくれるなら、喜んで行くとも」
マイケルは目を閉じたまま、あっさりと答えた。
思わぬ返答にジョーの手が止まるが、それにも構わず続ける。
「私は本来はベジタリアンなんだから」
そして、今度は理容室に来た呑気な客のように、今後の展望を口にしたのだ。
「ところで、次は美しい女性の死体が撮りたいんだが」
「お前の希望なんて知らねえ。俺は俺のやりたいようにやる」
「美しい写真には美しい被写体が必要だ。今の君が身をもって知っているはずだが?」
カメラとその中に収められた虚像を撫でるマイケルの手に、ブロンドヘアがぱらぱらと落ちていく。
「俺のどこが女なんだ? 言ってみろ」
美しい青年は殺人を犯したばかりのシリアルキラーのような口調で反論した。
「たしかに、君の言う通りだ。美しさに性別も年齢も、人間もカボチャも関係ないな」
マイケルは納得したように主張を改めた。
このように、両者の論点がずれてしまう事はよくあった。
魔女のような鼻の先に切られた前髪が落ちるのを感じ、それを指で払いのけて、交渉を続ける。
「君が身なりのいい老人を狙うのは金のためだと、私は考えている。だが、この暮らし向きならその必要はないじゃないか? 現に、腹いっぱい肉を食べて、娼婦だって──」
「俺は殺し屋じゃねえ。お前の言うことなんか聞くもんか」
ジョーが提案を止めさせるようにさえぎった。……が、写真に心血を注ぐマイケル・P・ホワイトの説得を止められるはずもない。
「憎い誰かを殺すよう頼んでいるわけじゃない。君に対価を支払うつもりもない。私は芸術家として、作品づくりに必要な材料 を求めているだけだ」
「もし警官 にその気味の悪い写真を見られても同じことが言えるんだろうな?」
「私はカメラを持った写真家であり、奇跡的にも貴重な被写体を撮影する機会に立ち会った。それだけのことを、巡回するしか能のない人形 が理解できると言うのであればな」
「自分で人を殺しもしねえくせに、偉そうに」
ジョーはマイケルに言い返す事に集中するあまり、手元への注意が散漫になっていると自覚できなかった。
目を開き、鏡に映った自分の姿を見るなり、マイケルは声を上げた。
「何てことだ! 信じられない!」
白熱した議論の末、彼のブロンドヘアはどんどん短くなり、あちこちに広がって、何とも不格好な仕上がりとなってしまっていた。
普段は感情の読めないブラウンアイを輝かせ、その斬新な髪型をしげしげと観察する。
「君が残酷さと美しさだけでなく、ユーモアまで兼ね備えているなんて知らなかった! 君の指先にも芸術的な感性が宿っているらしい」
それが本心であったにしろ、皮肉であったにしろ、ジョーにとっては職人気質の自尊心を傷つける言い方だった。失敗であることは、誰の目にも明らかだったからだ。
「俺を馬鹿にするのもたいがいにしろ! 俺はお前なんていつでも殺せるんだぞ! 俺は言われた通りにしただけだ──!」
そう叫んだジョーの鼻先に、彼のバリソンより大型の理容かみそり が差し出された。
全長10インチ以上ありそうなそれをどこから取り出したのか、持ち主のマイケルは口角を上げたまま、当然のようにこう言った。
「では、ついでに髭 も剃ってもらおうか」
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