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chap.5 ドクター・ロバート

ここで、マイケル・ホワイトの異常性に、早くから気づいていた人物を挙げておく。それは、他ならぬドクター・ロバート(Dr. Robert、またはRobert Jr.)である。 彼は彼の父から、名前と、臨床のための聖コスマス病院と、もっとも親しみのある町医者という称号、万能の父性たる医療の精神、そしてつるりとした禿頭で丸眼鏡をかけ、口ひげをたくわえた小太りの容姿を受け継いでいた。 1939年に徴兵令が下された際にも、遺伝子の導きに従い、「良心者(コンチ)」(※宗教をはじめ個人の信条により、国家における戦争など暴力行為への参加を望まないconscientious(良心的兵役) objector(拒否者)の略。「小心者(チキン)」と呼ばれる場合も。)として、軍医でなく町医者のまま、傷ついた人々を支え続けた。 そんなロバートと、彼より20歳は若いマイケルは、1950年に知り合った。24歳の注意力散漫な撮影助手が撮影スタジオの機材にはさまれて右腕を骨折し、彼の元に運び込まれたのがきっかけだったそうだ。 物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(Wilhelm Conrad Roentgen)によって、体の内部を撮影するエックス線が発見されたのは1895年。 それ以来、技師と科学者たちの涙ぐましい努力と、飽くなき探究心によって、医療機器は目覚ましい発展を遂げていた。 診察と治療を施されている間に、マイケルは外科医の仕事内容および仕事場に興味を示した。 「ここでは、死体を取り扱っている?」 その顔つきは人生を歩み始めたばかりの青年のように見えた。一方で態度は、まだ人生の退屈を知らず、他人の視線ひとつに希望と絶望を見出しては一喜一憂する同世代の若者に比べれば、かなり落ち着いて、大人びているとも取れた。 驚いて見返したロバートに、マイケル青年は、 「いいや、あなたが殺したなんて言っていない。病理解剖や何かの時に、運ばれてくる事もあるのでは?」 と、無表情のまま尋ねた。 そのブラウンアイは、話している相手の顔よりわずかばかり遠くにフォーカスを合わせているようだったと、“あの事件”の後にドクター・ロバートは振り返っている。 人体解剖の歴史は、紀元3世紀まで(さかのぼ)る。 初めて病理解剖が行なわれたのは、1286年、まだ統一前のイタリアで、ペストが流行した時期だと記録されている。1970年代にバイオエシックス(※医療にまつわる倫理、社会、宗教および法的問題について考える生命倫理学。)の概念が成立するよりも、ずっとずっと前の話だ。 そこから、突然死の原因を探る司法解剖と、疾患によって命を落とした患者の病理解剖に分かれ、さらに絵画や彫刻をより精巧に仕上げるための芸術解剖なる分野も生まれた。 これは、死者への冒涜ともとられる解剖学に挑んだ者たちの知的好奇心や探究心が、倫理に打ち勝った結果と言える。 『すべての殺人犯は、処刑後、解剖されるか、鎖に吊るされるものとする』 こう記した殺人法が議会を通過する1752年まで、解剖に用いる事ができるのは、死刑と解剖の刑を言い渡された犯罪者の遺体のみだったからだ。 その人数は年間55人と、学者の需要をとうてい(まかな)えるものではなかった。 この点において、土葬されたばかりの墓を掘り起こす死体盗掘人は、知識と技術の発展のために必要だったと言えるだろう。解剖法で、救貧院からも遺体を引き取ると決まるまでは。 もちろん、遺体を盗まれた遺族にとっては許しがたい行為であり、時期を同じくして、死体金庫(モートセーフ)、死体盗掘人用の罠や銃といった対策も発展していった。 この歴史は、現実に起こりうる物事が、ひとつの側面からだけでは判断できないことを示す例の1つだ。 先人の意志を継いだ20世紀の医師ロバートは、人体構造に興味を示したらしい撮影助手の青年に、医学を志す者へ向けての解剖学の話をした。学びのための場は万人に開かれるべきであると、2人のロバートたち(本人とその父)は考えていたからだ。 しかしマイケル青年は、ギプスを巻いた腕をしきりに動かしたり、短い間に何度もあくびをしたりして、いっさい興味を示さなかった。 そして、 「臓物には興味がない」 とあっさり言い、片手で荷物をまとめて席を立った。 肉体と精神の年齢が合致しない例は、現代でもたびたび目撃される。よって、当時はまだ見えない何かを疑ってまで引き止める必要があったとは言えない。 その後、彼は何度か治療に通ったが、ロバートの仕事内容および仕事場に対して何か聞こうとしなくなった。 さらに窮屈なギプスから解放されるとその足は遠のき、カルテに記録されたリハビリテーションは中途半端に終わってしまっている。 やがて写真家として独り立ちしたマイケル青年、改めホワイト氏が、サード・ストリートに自宅を兼ねた小さな写真館を持つようになると、ふたたびロバートに顔を見せにくる機会が設けられた。 ロバートはまだすこし若かったその写真家が人物写真を生業にしたのを知っており、本人よりもっと若い解剖学者の“卵”たちのため、解剖学の権威に提出するための写真と、解剖後の死体と医師との記念写真を依頼したのだ。 骨折してから7年の月日が経過していたが、その間に街のどこか、病院以外の場所で出くわしても、ロバートがリハビリテーションの続きについて口うるさくしなかったため、彼は医者を嫌ってはいなかった。 話を受けたホワイト氏はむしろ嬉々として、カメラとたくさんの機材とフィルムを携えて、診療時間を過ぎた聖コスマス病院を訪れた。 が、用意された死体を見るなり、白い顔はみるみる青ざめてしまった。 以前はなかなかに感情の読めない顔をしていた彼の見せたあまりの落ち込み様に、ロバートは驚いた。 手術台に乗せられたのは20代の妊婦の死体で、膨らみ始めた子宮には、まだ人間の形を取る前の(はい)があった。もちろんその成長も止まっていたが、医学の領域において彼──彼女かもしれない──は貴重な資料となり得た。 それを撮影するのが、くだんの不貞行為を働いた間男だった事は、単なる偶然に過ぎない。 もし仮に、マイケル・ホワイトに、顔も知らないマイケル・ジュニア(Michael Jr.)が居たとしても、本人がその事実を知らされていなければ、そこに親子としての愛情や思い入れ、絆といった目に見えない関係は成立しない。 手術台の若い妊婦がかつてのブラウン夫人を彷彿とさせるまっすぐなブラウンヘアをしていたとしても、だ。 この世に存在したか否かも不確実な子供は、マイケルにはいかなる負荷も掛けなかった。まだ若かった彼は、父性を知らなかったのだから。 すっかり生気をなくした彼が真っ青な唇で嘆いたのは、 「せっかくの死体をばらばらにするなんて」 という点のみだった。 ドクター・ロバートはこの時に、彼の内側に眠る異常性について疑惑から確信に変わったと、“あの事件”のずっと後のロング・インタビューにて語っている。 ロバートは当初、その異常性は、たいていの者が漠然と恐れる“死”という概念への強い興味に起因すると考えていた。感じやすく疑り深い青年期に、そうした深い淵に魅入られてしまう者は珍しくないからだ。(日本では、医者にこそかからないが病名がつけられている例もあるとか!) しかし、青年が求めていたのは、“死”ではなく“死体”だったのだ! 呆れたことに、この異常をきたした若者は新鮮な死体を求めて、薔薇の別荘や虹の部屋(※霊安室(モルグ)の子供向けの表現。)、時には葬儀の行なわれる教会にまで足を踏み入れんとしていた。本人がそう白状したのだ。 ロバートは撮影の申し込みを急きょ取りやめ、精神科への受診をうながした。 聖コスマス病院には、時おり、こうした患者が身内に連れられてくる場合があった。だがマイケルもそんな一部の患者と同様、自分には治療の必要などないと主張したのだった。 そんなマイケルがジョーと暮らし始めたのは、さらに5年が経った、1962年の秋のことだ。 彼が念願の死体撮影という目的のために、正体不明の男(ジョー・ブラック)を匿っていた衝撃が世間に知れ渡ったのは1963年の“あの事件”以降だが、ロバートにはそれ以前から予感めいたものがあった。 なぜ通報しなかったのかと言えば、確証が得られなかったからだ。 たとえマイケルが誰の物か分からない死体の処理を、超個人的な案件として頼んできたとしても、彼が殺したとは断定できなかった。 5年の間に、みごとな手腕で写真館の経営を軌道に乗せた彼を問い詰めたところで、殺人犯である自白は取れなかったに違いない。周囲の人も、つい前日に彼と夕食を共にしたゴードン市長とその娘たちでさえ、そんな証言はしなかったはずだ。 それは、事実とは異なるのだから。 この時点では、ドクター・ロバートは必要な点をいくつか確認するに留めた。ヘレン・スミスの遺体はどこに“落ちて”いたのか、なぜマイケルが“持って”いるのか、そして彼女を見つけた時の状況などだ。 視野の狭い写真家は、 「ジョー・ブラックによる新たな被害者だ。通りすがりの男性の協力を得て家に運んだが、すでに死亡していた」 と答えた。 ロバート・ジュニアの名誉のために記述しておくが、彼は青年時代から知っている旧友をかばい、捜査の目から遠ざけたのでは決してない。医師は警官と同様、善良で模範的な市民の味方だ。 ただこの気むずかしく理解しがたい感性を持った写真家が、詮索されるのを嫌がり、姿を現さなくなるのを懸念したのだ。 そして、その判断は正しい。マイケル・ホワイトは彼を唯一無二の友人と認め、この後に続く“あれこれ”を打ち明ける相手にまで選んでいる。(お陰で、この一連の記録があると言っても過言ではない。) 発言の中の「通りすがりの男性」が、まさかジョー・ブラックだったなどと、この時、誰が予想しえただろうか! またしても嫌疑という受難を逃れたマイケル・ホワイトにあったのは、死体ひいては死への興味だけで、殺人願望も、希死念慮も無かった。そして、自身の死に対する恐れも……。 世間とマス・メディアを騒がせはじめた“シリアルキラー”ジョー・ブラックによる、同市での2度目の殺人が行なわれたのは、それから28日が経過した満月の夜である。 その日が近づくにつれて、ジョーは、明らかにそれまで──厳密にはマイケルと出会ってから──とは様子が違っていた。満ちてゆく月とは逆に、落ち着きを失くしていったのだ。 特に当日の朝なんかは、居てもたってもいられないと言いたげに、リビング・ダイニングをうろついたり、暗室やスタジオへの階段を昇ったり降りたりしていた。 寝室にいたマイケルがその足音で目を覚ましたほどだ。ちなみに、腕利きの写真家だった当時の彼は忙しく、アーリー・モーニング・ティーの習慣はなかった。 「いったい何をしているんだ、からっぽ頭(パンプキン・ヘッド)」 同じパンプキンでも、何も付かないか、後ろにパイが付くか、頭が付くかでずいぶんと意味合いが変わってしまう。 廊下に起き出してきたマイケルがそう尋ねても の方にをつけた彼は、 「俺に近づくな」 と短く言って、ズボンのポケットを叩いてみせた。その中には、ジョー・ブラックがいつも使っているバリソンが収まっていた。 しかしマイケルは、顔色ひとつ変えず 「なら、そっちが私から遠ざかればいい」 と言い返すと、いつもと同じ動線上にいるジョーに──正しくは、朝食をとるためにキッチンに──向かっていった! 予想外の行動に驚いたジョーが、思わず後ずさりながら罵声を吐く。 「俺の言うことが聞こえなかったのか、寝ぼけ頭(スリーピー・ヘッド)!」 「通してくれ、寝ぐせ頭(ベッド・ヘッド)」 写真に関する時以外、マイケルの声色はいつも一定だった。さらにジョーを追い詰めるように、ずかずかと歩み寄っていく。 ジョーはついにナイフを取り出し、蝶を羽ばたかせるように慣れた手つきで展開してみせた。 「俺は機嫌が悪い。こんな日の俺を挑発するとは、死にてえらしいな!」 寝ぐせ頭と呼ばれたカーリーヘアをふり乱すと、血走った目は髪に隠れて見えなくなり、下品な言葉を吐く牙の生えた口元が吠えた。 「新たな犠牲者は私か。どのように殺すんだ?」 マイケル・ホワイトは死という単語にこそ反応したが、抵抗の意思はなく、むしろ腑に落ちた風で返しただけだった。 「俺が、そのよく喋る喉をかき切ってやる!」 ジョーが宣言しても、マイケルはその顔を見上げ、 「報道されたかぎり、君の手口はそればかりだな。まるで何世紀も前から進歩していないようだ」 見下すように言った。 さらに出会った時と同じ力で、ナイフを握った太い腕をためらいなくつかむと、 「私にあるのは今日のうちに寄稿するべき写真であって、君にかまう暇ではないんだ。ジョー・ブラック」 と、通り名を呼んでたしなめた。 それから、その腕を押し上げ、アーチの下をくぐるようにキッチンに入ってしまった。威嚇するばかりで、ブレックファスト・ティーとバター・マーマレード・トーストを準備しようともしない者には用がなかったのだ。 ジョーは別に、その後を追いはしなかった。 ダイニングから見たジョーは、廊下を歩き回る野菜ではなく、まるでサバンナで麻酔銃によって捕獲された後、船で海の上を運ばれ、陸では冷たい檻に入れられ、見世物にされる肉食獣だった。 ホワイト氏とて暇人ではなかったので、観光客のようにその獣をずっと観察しているわけにもいかず、流行のファッション雑誌にリバーサルフィルムを寄稿しにいかねばならないのは事実だった。 そして、像が反転したフィルムのように昼が夜に変わるまで、やり甲斐を感じて働き、家には戻らなかった。 当然ながらその間、家にシリアルキラーがいるとも、今朝がたナイフを向けられ命の危機に瀕したばかりだとも、誰にも話さなかった。彼が口にしたがったのはやはり、写真に関する事だけだ。

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