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第1話 清水田学園のキング_始業式の朝
「おはよう」
小高い山の上にある高級住宅街の中に、全寮制の私立高校がある。古くから続く名門の家系の後嗣と学力で選ばれたエリートたち。わがまま放題に育った生徒たちが、三年間親元を離れて過ごす学舎だ。
その校門に立つ教師たちは、敷地内にある寮から校舎への短い通学路に揃って立ち、生徒たちに朝の挨拶を繰り返している。登校時の光景としては珍しくもないものだが、この教師たちには別の目的があった。それは、小遣い稼ぎである。
彼らは今、校則違反の生徒を捕まえてボーナスへのポイントを稼ぐことに集中している。毎日朝から夜まで目をギラつかせては、軽微なものであっても捕まえてやろうと息巻いていて、少しの乱れも許そうとはしない。
その行いはそれなりに成果を上げており、生徒が校則違反へのメリットを感じなくなったために学園の風紀の乱れは、ここ数年ほとんど見られていない。もちろん例外というものは往々にして存在するものだが、清水田学園に通えば生徒は礼節を弁えた子になるという評判を恣にしていた。
この制度が始まったのは、ある理事長の鶴の一声がきっかけだった。
当初は教育者にあるまじきと反対する声も上がったのだが、日が立つにつれてモチベーションの維持には何よりも金が大切だったということを、全ての教員が知ることになる。今や学園の関係者の殆どに歓迎される制度となっていた。
そして、その制度を提案した理事長の最上辰之助 の息子である最上光彰 は、父が納める多額の寄付金の後押しと自身の優秀さにより確固たる地位が確立され、本人の意思とは関係無く絶対的な権力を持つ存在へと祭り上げられていた。
彼だけは多少の違反であれば目を瞑られ、多少の揉め事であれば揉み消される。光彰自身はそれに甘んじているかと言われればそうでは無いのだが、人と関わることに興味を持たないために異を唱えようともしなかった。
本人が何も言わないため、周囲はその扱いが正しいのだと思い込み、その待遇は日を追うごとにエスカレートしていった。
今年度の寮長になることが決まったあたりから、教師が光彰に媚びる日が続いている。
「最上くん、おはよう。昨日も君のおかげで第一寮は平和でしたね。第二寮の寮長に君の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいですよ」
彼自身は人の機嫌をとる人間の心理が全く理解できないため、それを否定することもなく、今朝もいつものように「それはどうも」とだけ告げてその場を去ろうとした。
「君、先生に対してその態度は失礼じゃないかい?」
光彰は普段あまり校内で人に声をかけられることがない。驚いて振り返ると、いかにも新卒の新米教師といった容貌の男が、光彰を鼻息荒く睨みつけていた。
——あーあ、これはめんどくさいな。
光彰が軽くあしらったところで、おそらくこの男はそれに対して大騒ぎをするだろう。しかし、まともにぶつかれば、彼が上から目をつけられるかもしれない。
どう転んでも面倒なことになりそうだと思っている彼の前に、いつもより気だるげな様子の柳野黎 が現れた。
「おはよう、光彰」
光彰はあくびを噛み殺す黎を見て、ふわりと微笑んだ。特別扱いのほとんどを拒否している彼も、一つだけ願い出たわがままがある。それは、同室の生徒は三年間黎だけにしてほしいというものだった。
「黎、やっと起きれたのか。ごめんな、俺今日は早く行かないといけなかったから」
自分以外の人間の大多数に興味を抱かない光彰も、愛してやまない人がいる。それが幼馴染の黎だ。彼が目の前に現れると、それだけで光彰の顔は綻ぶ。周囲はその彼の表情を見て、すかさずスマホを掲げて写真を撮り始めた。
光彰はいわゆる眉目秀麗と呼ばれるタイプで、同じ三年生だけでなく他の学年にもファンが多数いる。滅多に見ることの出来ない彼の笑顔を少しでも多く写真に収めようと、生徒たちは色んな場所から撮影を始めた。
鳴り響く様々な電子音と共に、歓声が上がる。毎日が撮影会のようで、彼はまるでアイドルのような扱いをされていた。
「いや大丈夫、最後の目覚ましで起きれたから。ありがとうな、時計で目覚ましを掛けて無かったら起きられなかったかもしれない」
「そうか。役に立てたなら何よりだ」
光彰がそう言って喜ぶと、また狂ったようにスマホのシャッター音が鳴り響く。その異様な光景に、黎は困ったような顔をして笑った。
「三年になっても相変わらずすごいなあ。今日も撮影会みたいじゃないか。毎日同じ制服を着ているのに、何がそんなにいいのか俺にはわかんないんだけど」
黎がそう言っていると、シンプルな電子音が彼の耳元で鳴り響いた。振り返ってみてみると、光彰がスマホを構えて黎の写真を撮っている。取り終えたデータを確認すると、ポツリと「可愛い」と零した。
「俺を撮る奴らの気持ちはわからないけれど、自分が可愛いと思う人間の写真を毎日撮りたいっていう気持ちだけなら理解できるぞ。俺だって黎の写真なら毎日撮りたいし、眺めていたいからな」
そう言って撮った写真を眺めては、またふわりと顔を緩める。黎はそれを見ていると何も言えなくなってしまった。
光彰が黎に向ける愛は、幼馴染だからだというレベルを超えている。それに対してどう答えていいのかが、彼にはいつもわからない。
「ええ? お前さあ、それって結構気持ち悪いこと言ってると思うんだけど、それをわかってて言ってる?」
「ああ、もちろんわかってる。そんなことどうでもいいんだよ。だって黎は可愛い。大事なことはそれだけで、他のことは俺にとってはどうでもいいことだ」
キッパリとそう言う光彰の手元が気になり、黎は彼のカメラロールを盗み見た。するとそこには、自分の写真だけが画面いっぱい並んでいた。
光彰が自分を好きでいても危害が及ばなかったために何も思わずにいられたのだが、それを見るとさすがに嫌悪感が湧く。
なるべく見ないようにしようと思い、素早く視線を外した。
「ん?」
そして、たまたまそれがぶつかった先にいる人物が、じっとこちらを眺めていることに気がついた。
その視線の中には、ほんの僅かに何かしらの感情が込められているように見える。しかし、その感情がどんなものなのかは分からない。驚いているような、慄いているような、喜んでいるような、そんな不思議な視線だった。
ただその視線を送っている人については、思い当たる。その人がつい先ほど光彰と話していたことを思い出し、隣を歩く光彰の肩をトントンと叩いて彼を呼んだ。
「なあ、あれって新任の先生? こっちをずっと見てるんだ。そういえばお前、さっきあの人と何か揉めてなかった?」
そう言って、件の教師を指差しながら尋ねた。それがいけなかったのだろう、それを見咎めて何か言いたそうな顔をしたかと思うと、猛烈な勢いで二人の方へと歩み寄って来た。
「君! 人に指を差してはいけないよ! そして、君。先ほどの話だが……」
その教師は、新人らしくやる気に満ちた表情で、鼻息も荒く大股でズカズカと歩いてくる。光彰は彼のその姿を見て、深いため息をこぼした。
まだ大学を卒業したばかりで、社会人経験はここからがスタートになるのだろう。それなのに、教員になるとなぜか何もかもを知ったような顔をする彼のような者は、少なからず現れる。この教員もそのタイプのようだ。
光彰は毎年そういうタイプに絡まれてしまう。彼自身はそれをどうとも思わないのだが、周囲はそれを許さない。それが原因となって相手が解雇されていくことすらあった。
光彰は人に興味を示さないが、悪い男ではない。自分に向けられた敵意のせいで解雇されたのだと知ると、胸を痛めるだけの感性は持ち合わせている。
こうなった場合、彼が高圧的な態度に出て話を一方的に終わらせるのが一番いいと経験上で知っていた。一つ大きなため息をつくと、大きく息を吸い込み、新米教師を睨みつける様にしてキッパリと言い放った。
「先生、あなたも黎に指を差していますよ。ご自分の態度を改めずに、そういう中途半端な態度で他人を指摘するのはやめてください。ちなみに僕の名前は最上光彰です。三年一組、第一寮所属です。こちらは、柳野黎。俺と同じクラスで、同じ寮の所属です。そして、幼馴染です。よろしくお願いします。では」
光彰は、相手への指摘と自分達の自己紹介だけを済ませると、急いでその場を離れようとした。
こうしておけば、言葉では彼を叱責する者がいても、高慢な生徒から反抗されたら腹が立つということ自体は教師同士で分かち合えるだろう、そう思っていた。
「あ、ちょっと。光彰、待てよ」
光彰を追いかけて黎もその場を去ろうとする。しかし、去り際にふと何かに気がつくと、咄嗟に
「よろしくお願いします、先生」
と、その新任教師に頭を下げてきっちりと挨拶をし、パッと花が咲くように笑った。
「あっ……」
その教師が何か言おうとする間も無く、黎は「光彰!」と叫びながらバタバタと走り去って行った。新任の教師は、思わず彼を追いかけたい衝動に駆られた。
しかし、着任したばかりであまり生徒と揉め事を起こしてはいけないと思い、昂った気持ちを収めて踵を返す。
「才見 先生ー。そろそろ戻りましょうかー」
そこへ、古株の数学教師で教務主任でもある市岡直樹 が、彼を呼びに来た。気づけばすでに始業時間を過ぎている。
「はい、わかりました」
才見は、慌てて市岡の方へと走った。そして、教師の群れに合流すると、雑談を交わしながら眩しい笑顔を振り撒き、早々に周囲と馴染んでいった。
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