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第2話 清水田学園のキング_温田見厚

 新学期初日という日であるとはいえ、それは清水田学園のいつも通りの朝の光景だった。  しかし、その中で一人の女子生徒が騒ぎを起こし始めていた。 「先生、(あつし)……温田見(ぬくたみ)くんがまだ登校してません。いつも誰よりも早く教室に入るんです。それなのに、まだ来てません。寮監の先生に聞いたら寮にもいないみたいなんです」  普段なら誰よりも早く登校しているはずの、真面目で知られている温田見厚(ぬくたみあつし)という生徒が登校して来ないと言って、クラスメイトで元恋人でもある小野結梨(おのゆうり)が騒いでいるという。  それを聞きつけた教頭が、ちょうど職員室に引き上げたばかりの市岡に、寮までの登校ルートで彼を探すようにと命じた。 「市岡くん、始業式前にちょっと見て来てくれないか。寮監が寮棟内を探してくれているから、君は校舎から寮棟までの登校ルートを探して来てくれ」 「あ、はい。わかりました。温田見くんがサボるなんて無いでしょうから、何かあったのかもしれませんね。すぐに行って参ります」  挨拶を繰り返して掠れていた声を絞り出して教頭へそう答えつつ、市岡は踵を返した。素直に指示に従う彼に向かって、教頭は侮蔑の表情を浮かべながらふんと鼻を鳴らす。 「役に立たないのだから、雑務くらいするんだな」  ドタバタと走る不器用な背中に向かって、そう吐き捨てた。  市岡は教育熱心な教師だ。三十分以上立ちっぱなして生徒に声をかけ続け、ようやく座れるかと思った矢先に仕事を押し付けられたとしても、それを文句ひとつ言わずにやり遂げるような実直な男でもある。   「温田見くーん。授業始まっちゃうよー」  上司からの覚えは決してめでたく無い市岡も、こののんびりとした口調と穏やかな人柄で、生徒には絶大な人気を誇る。そんな彼は、やる気と推しの弱さに漬け込まれて三年生の学年主任を押し付けられている。  つまり、担任を持ってはいないものの三年生の生徒と関わる機会はそれなりにあって、温田見がどういう生徒なのかは寮長会議で顔を合わせることもあり、よく知っている。  間違っても無断欠席するようなタイプでは無いし、そもそもこの学校で無断欠席をしても寮にいればすぐにバレてしまう。  届も無しに外出などしようものなら即停学になってしまうため、大学部へ進むであろう三年生の彼がそんな愚行を働くとは到底思えなかった。 「温田見くーん」  市岡は校舎と寮棟を繋ぐ通路を通り、第二寮と第三寮の間にある通路へと入った。そして、第三寮の最奥にある時計塔へと向かう。  校内でサボっている生徒がいるとすれば、時計塔にいることが定番だからだ。 「あー、出来ればここには近づきたく無いんだけどなあ……。教頭先生もわかってて僕に頼んでるよね、きっと……」  そう独言ながらも、なんとか中へ入ろうと階段室のドアノブへ手をかけた。あまり良い思い出の無いこの場所へ立ち入ることを考えると、手が小刻みに震える。  それでもここに生徒がいるのであれば、その安全を確保しないといけない。そう思って覚悟を決め、その扉を開けようとした。  その時、ふと目の端に紺色の物体が転がっているのが目に入った。 「カバンだ。教科書、参考書と……。あ、温田見くんのものだ」  始業式である今日は、授業は行われない。寮も目と鼻の先にあるにも関わらず、しっかりと勉強道具を持って来ているあたりは、優等生である温田見らしい。  そんな真面目な彼が、なぜカバンをこんな所に放ったままにしているのだろうかと市岡は訝しんだ。  そして、そのカバンを脇に抱えた時だった。  無人の第三寮の建物の向こう側、隣接する職員用の駐車場との間にある通路の方に、大きな影が動いていくのが見えた。しかし、その場所には影を落とすようなものは何もない。 「なんだ、あの影……」  そう呟いて顔を上げた。  そして、市岡はがらんとした空き部屋のガラス窓の向こう側に、ゆらりと何かが揺れるのを見つけた。さらにはその側に見えたものに、驚愕して手にしていたカバンを思わず落とし、叫び声を上げてしまう。 「ぬっ、温田見くんっ!」  屋上にいたのであろう彼の姿が、屋上からすうっと降って来た。その全貌が市岡の目に映った時、彼は戦慄を覚えた。 「あっ……そんなっ!」  飛び降りる温田見の側にいたもの。それは、その彼に手を差し伸べて微笑む「時計塔の千夜」だった。  千夜に誘い込まれるように落ちて行くその表情は、心の底から幸せそうに笑っている。まるでそうすることに一欠片の迷いもないかのような、まっすぐな喜びを秘めた目をしていた。  三階建とはいえ、屋上だ。そこから落ちれば無事ではいられないことくらい、温田見にはわかるだろう。それなのに、そうしたくて堪らないといった表情で彼は落ちていったのだ。  ラグビーをしていた温田見の大きな体が、腕を伸ばして千夜の手を取ろうとするかのように、何もない空間へと伸びていた。  ちょうど体育館側から昇った朝日に時計塔が照らされ始める時刻で、温田見と千夜の姿はまるで何かの絵画を見ているような幻想的な雰囲気を醸し出していた。  市岡は迂闊にも一瞬その美しさに目を奪われてしまった。言葉を発することも出来ずに、ただ二人を見ていたのだ。自分が立っている入り口とは反対、三階の部屋の窓から一階の部屋の窓に至るまで、ただ眺めてしまった。  そして、そのままゆっくりと落下していく温田見を見ているだけの自分に気がついた頃には、絶望した彼は目を覆ってしゃがみ込むことしか出来なくなっていた。 「わあああああ!」  温田見は、そのまま通路の上へと落ちた。第三寮と駐車場の間の通路は、舗装されていない。土の上に落ちた人間が叩きつけられる音は鈍く重く、それが耳に届くとともに市岡は総毛だった。 「お、落ちた? 落ちたよね、今……。温田見くん……温田見くんがっ……」  震える体もそのままに、市岡はただ独言ることしか出来ない。落ちて行く二人を見た頭は、混乱を極めていた。 「どうしよう、い、行かないと。ちゃんと確認……。でも、動けない……」  本来の市岡の性格ならば、おそらく死に物狂いで駆け寄って、何かしらの声かけをしようとするだろう。  だが、彼にはそれは出来なかった。必死に足を動かそうとしても、その場を動くことができずにいた。 「並木くん……」  そこにあの「時計塔の千夜」がからんでいる、それが市岡にとっては何よりも大きな問題だからだ。

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