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第3話 清水田学園のキング_奇妙な現象
市岡は幽霊が大の苦手だ。そしてそうなったきっかけは「時計塔の千夜」が原因でもある。
時計塔に現れる霊のうちの一体である美しい少女の霊は、市岡が三年前に受け持っていたクラスの生徒だった「並木千夜」にそっくりなのだ。
元々第三寮が建てられた当初より、時計塔には幽霊が出るという噂があった。一時期は「幽霊塔」と呼ばれていたこともあるくらい、ここには霊が出やすかった。その当時は、特に目立った霊などおらず、名前もついていなかった。
しかし、千夜が入学した年に教師たちが彼女の姿を見て慄き、その理由が幽霊に似ているからというものだという事が生徒間に知れ渡ったことで、幽霊のうちの一体が「時計塔の千夜」と呼ばれるようになった。それくらいに二人は似ている。
そのことが原因で彼女がいじめに遭うようになり、それを苦に自殺をしたのだという噂が立って以来、真面目で善良な教師である市岡直樹は大変に苦しむことになった。
担任である自分がいじめに気がつけなかったことへの後悔、そのことで彼女を亡くしてしまった事に対する拭いきれない罪悪感が、日に日に彼を追い詰めていく。
そのうちに、市岡は幽霊の類は全て、さらには暗がりや高いところも苦手になってしまっていた。
そういうわけで、今の市岡はその場に凍りついている。時計塔に近づくけば「時計塔の千夜」と対面することになるだろう。どうしてもそれだけは避けたいのである。
ただ、温田見が落ちたことを、誰かに知らせなくてはいけないということだけは理解していた。必死に息を吸い込み、腹に力を入れる。そして力の限りの大声を張り上げた。
「だ、だっ、だ、誰かー! 誰か来てくださーい! 時計塔にっ……ぬ、温田見くんがぁっ!」
目にも耳にも落ちたところは確認出来ているが、実際に落ちた後の温田見の姿を確認出来ているわけではない。どうなっているのかを知るためには、その場に見にいかなければならないだろう。
「それに、三階から茂みの中や土の上に落ちたのであれば、助かっているかもしれないんだし」
そう言って自分を納得させると、ポケットの中のスマートフォンへと手を伸ばした。
「救急車を呼ばなくちゃ……」
手に取ったスマートフォンを操作しようとするが、手が震えてパスを解除することすら出来ない。
「うっ……く、うご……け、よ。動い……てっ……!」
必死に指をテンキーに合わせようとするが、大きく外れてしまう。何度も入力に失敗し、市岡は端末を投げ捨てた。
通報をすることも叶わず、足も微動だにしない。市岡は自分の情けなさに打ちひしがれて俯き、ただ涙を流すことしか出来なかった。
「誰か来てください……」
彼は項垂れたままその場に座り込んだ。
「市岡先生! どうされました? どちらにいらっしゃいますか!」
「……才見先生?」
市岡の声を聞きつけて、才見が慌てた様子で校庭を突っ切り、寮棟の方へと走って来る様子が見えて来た。
若い彼は、驚くほどの速さで校庭と寮棟を仕切っている生垣の間を通り抜けると、第三寮と第二寮の間の通路へと入ってきた。声はするのに姿の見えない市岡を探して、敷地の隅々まで視線を巡らせながら走っている。
市岡は向かってくる才見を見て、ヒーローが現れたような気がした。自分に出来ないことを、彼はきっとやり遂げてくれるだろう。
そう思うと、力が湧く。座り込んだまま彼に向かって大きく手を振り、少しでも早く存在に気がついてもらおうとした。
「才見先生! こっち! こっちです! 階段室の入り口のドアのところです!」
市岡が涙で顔を濡らしたまま才見に向かって大きく手を振っているのを見て、彼は何か問題が起きたのだろうと気がついた。即座に表情を引き締めると、さらにスピードを上げて市岡の元へと急ぐ。
「先生! どうされたんです、こんなところで……だ、大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ!」
市岡の顔色が蒼白である事に気がついた才見は、震える背中を摩りながら「先生、取り敢えず落ち着きましょうか」と優しく声をかけた。
「才見先生、ぬ、温田見くんが、時計塔の……」
状況をうまく説明しようとしてもうまく回らない口に、市岡はまた情けなさを感じた。
——どうして僕はいつもこうなんだろう。
そんな問いかけをすることは、一度や二度の話ではない。彼は、生徒がすぐそこで苦しんでいるかもしれないのに何も出来ずにいる自分のことを責めた。
彼は、これまでずっとそのことに悩まされて来た。普段どれだけ生徒に好かれようとも、今のような時に生徒を守ることの出来ない自分に、いつも苛立ちと呆ればかりが募っていく。
チリチリと痛む胃を疎ましく思いながらも、激しく弾もうとする心臓に苛立つ。どうにかして冷静さを取り戻そうと彼は必死に自分を律しようとしていた。
才見はそんな市岡の意を汲み取ったのか、市岡の背中を優しく摩った。
「パニックは誰にでも起こり得ることです。そうなったら自分を責めるのではなく、まずは深呼吸をしましょう!」
そう言って市岡の背中を優しく摩り続けながら、ゆっくりと深い呼吸へと誘った。それを数回繰り返と、その手の温もりとゆったりとしたリズムによって彼の自責の念は次第に緩み、それから解放された市岡はようやく大きなため息を吐き出した。
「……よかった、少し落ち着きましたね。それで、あの時計塔とは第三寮のことで合っていますよね。つまりここでしょう? ここに温田見くんがいるんですか?」
「い、いや、違うんだ。温田見くんが、その屋上から落ちたんです。あの、大きな時計のあるところから、あれです。そこから下まで……」
悲鳴を上げるようにそう告げる市岡を見て、才見は一瞬返答に詰まってしまった。市岡が指を刺しているのは、三階建ての第三寮の突端にある小塔で、大きな金飾りの文字盤が美しい大時計のある部分だった。
内部は電子構造化されているため、時計は煌びやかさが生かされてかなり大きな作りをしているが、塔自体はとても小さい。
そこに、人が一人ギリギリ立てるくらいのスペースがある。時折生徒がそこに立ち、遠くを眺めていたりするのだが、ここに通う生徒は大多数が息苦しい名家の出身であることから、そこへの立ち入りをあまり厳しく取り締まっていなかった。
「あの時計があるところからですか? 落ちた? どこにです?」
戸惑う才見に、市岡も同じ表情を浮かべた。彼は足がすくんで動けず、温田見の姿を確認できていない。
「お、落ちていくところと落ちた音は聞いたんです。でも、姿は確認出来てません。情けない話なんですが、足がすくんで動けなくて……」
「そうなんですか、落ちるところを見たんですね。それは怖かったでしょう。足がすくんでも仕方がありませんよ。僕が見てきます。こっちにいないということは、向こう側に落ちたってことですよね?」
「そ、そうです! あの、駐車場と時計塔の間に舗装されてない通路があるんですよ。そこに落ちたのは間違いないです。ここまでドスンって音が聞こえてきましたから……」
そう言って市岡はまた顔を青ざめると、自分を両手で抱きしめた。
「草が生えてるし未舗装のところだから、もしかしたらケガしてるだけかもしれないんですけれど、でも音が凄かったんです。ドスンって、大きな音がして。温田見くんは体格がいいから、衝撃も……」
「とにかく見てきます!」
才見は市岡の説明を聞き終わるまでもなく、駐車場と寮棟の間の通路へと走り出した。彼は物理教師だ。市岡の説明を聞くまでもなく、どれくらいの衝撃があったのかを予測していく。
「うまく落ちてれば骨折で済むだろうけど……」
そう独言ながら市岡が言う場所へと向かった。
才見は新任教師であるため、そこがどういう場所なのかを知らない。そのためか、なんの躊躇いもなくどんどんと現場へと近づいていった。
そして、市岡が言っていた階段室の入り口からちょうど対面にあたる駐車場との間の通路を見渡す。するとそこに、職員用の駐車場から一人の女性が入って来るのが見えた。
「あのっ……」
才見はその女性に声をかけようとした。もしかしたら、雑草の中で見えなくなっている温田見を踏んでしまったりするかもしれないと思ったからだ。
しかし、声をかけようとした途端に、彼女は突然細く甲高い悲鳴をあげて後ずさった。
「きゃー!」
それはあまりにも突然のことで、才見は身構える事も出来ずにびくりと体を跳ねさせたた。そして、背後を確認せずに迫ってくる彼女を避ける間も無く、二人はそのままぶつかってしまった。
「うわっ!」
二人でもつれ合ったまま尻餅をつくように倒れ込んだ。そのまま雑草の中へと突っ込んだ才見は、その手を生温い絵の具のような液体の中へと突っ込んでしまった。
「うわっ! な、なんだ、これ……」
それは明らかに人の血液だった。
草むらの中から染み出してきたであろうそれは、舗装されていない道路の上の足跡に沿って溜まっている。先日降った雨でできたぬかるみに、職員たちの足跡が残されたものだろう。
スニーカーの跡のようなものの中に、赤黒いものが溜まっていた。
「こんなに血が出るケガをしてるのか?」
才見は、不思議に思いながら草を避けてその中へと進んだ。草むらの中に落ちてこれほどの血液が溜まるという事は、着地に失敗してかなりの大怪我をしていると思われた。
焦りの色が、彼の顔いっぱいに広がる。
「ちょっと! ねえ、それどういうこと? し、死んでるの?」
つい先ほど才見とぶつかった女性が、金切り声を上げながら彼にそう尋ねてくる。まだ自分も何も掴みきれていないのにと思いながらも、ここにいる職員は全員彼の先輩にあたるため無碍にも出来ず、渋々説明をしようとした。
「もしかしたら生徒が落ちたかもしれなくて……」
そう言いながら女性へと顔を向けると、そこには音楽教師の戸田 が青ざめた顔をして座り込んでいた。
「戸田先生! なんでこんな……あ、そうか! 今日は遅れて来るんでしたね……」
駐車場は職員専用だ。こんな時間にやってくる職員はいないだろうと、才見はたかを括っていた。彼は戸田へと会釈をするとその側へと駆け寄る。戸田は駐車場と学校敷地内を分ける縁石の近くを指さして彼に言った。
「そ、そこに誰か倒れてるのよ。びっくりして……。あの子誰? 落ちたの? どこから? もしかして、時計塔?」
「いや、それがまだ何もわからなくて、とにかく姿を……」
才見は、セイタカアワダチソウやハナニラの茂る縁石の近くへと進む。職員が日常的に利用している割には手入れがされておらず、雑草が伸び放題になっていた。
あまりにも密集して生えているため、掻き分けるようにして進んでいく。これほど多ければクッションになって助かっていてもいいはずなのにと思っていると、足元に制服のスラックスが見えてきた。
その足は長く、上背もあった。その先を辿ると、かなり鍛えているであろうがっしりとした体格の男子生徒が、頭から血を流してうつ伏せに倒れていた。
「いた! と、戸田先生! 彼が温田見くんで間違いないですよね? 顔を確認してもらえませんか? 僕まだはっきり言い切れる自信がなくて……」
才見は腰を抜かしたままの戸田へそう呼ばわり、確認するように頼んだ。すると戸田は目を泳がせ、迷惑そうに表情を歪めていく。
教師としては褒められたものではないだろう。しかし、転落した人の姿をまじまじと確認するように言われて喜ぶような人間は、それはそれでおかしいというものだ。
戸田は心底嫌だという気持ちを臆面なく浮かべ、それでも渋々近寄って来る。立場上、断るわけにはいかなかった。
「うー。いくら生徒でも、死んでるかもしれない姿なんて見たくないわ……」
そう言いながらも、義務感がその体に近づくようにと説得してくる。必死になってそばまで行くと、チラリと生徒の顔を覗き込んだ。
相手が誰であるかをはっきりと認識すると、恐怖は消えていった。ようやくやるべきことへと意識が向かい、冷静に才見へ彼の名を告げる。
「温田見くんよ。間違いないわ」
温田見厚の体は、頭部から血を流してはいるものの、そのほかには目立った傷もなく、穏やかな顔をしていた。まるでそこで昼寝をしてサボっているかのようにすら見える、穏やかな顔をして眠っていた。
しかし、その考えを打ち消すのは、やはり夥しい量の出血とその容貌だった。彼の体は蒼白になっており、誰の目にも明らかだと言える程に、亡くなっているのは明白だった。
魂が抜けてまるで蝋人形になったような、奇妙な透明感がある。そして、自らが流したのであろう血液は周囲の雑草にも散っていた。
才見が踏んだ血溜まりは、その場所まで流れて伝ってきたもののようだ。
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