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第9話 清水田学園のキング_時計塔の千夜1

「黎、どうしたんだ? こんなところで何をしている。寮に戻ってろって言っただろう?」  真っ白な肌に幾筋かの汗を伝わせて、黎は校長室の前に立っていた。上下する肩に苦しそうな呼吸音が混じり、それが言葉を発するのを邪魔している。 「何かあったのか?」  光彰は、黎がいつもモヤモヤした気持ちを走って発散させていることは知っていた。そういう時に彼に起きている事も知ってはいたが、走れば解消されるからというのでそれ以上追求しないようにもしていた。  走ることがよほど性に合うのか、最近の黎は、特に何か起こらなくとも暇さえあれば走っている。光彰はそれを離れた場所から見守っていた。その頻度は高く、今ではほぼ日課のようなものになっている。  だから、どのくらいのペースで走ればいいかという事くらい、黎はきちんと把握しているだろう。しかし、光彰の前に立つ黎は、ひどく疲れているように見えた。 「喋れなくなるまで走っちゃダメじゃないか。ほら」  呆然としたままの黎の汗が冷えることを心配して、光彰はカバンの中からハンドタオルを取り出した。そして、そのタオルを黎の頬に当てる。彼の頬を柔らかなパイルが包んだ。 「……ありがとう」  黎はぼんやりとしたままそう言うと、珍しくその好意を素直に受け入れた。その反応に、光彰は片方の眉をピクリと動かす。そして、「ああ、そう言うことか」と呟いた。  小さな頃から、黎はこうだ。彼が傷ついた顔をしている時は、その原因は大体彼自身にはなく、友人を思って心を痛めていることがほとんどだ。自分のことはどう言われようとそれを好意的に受け止める割に、友人が悪しく噂されれば激しく腹を立てる。黎はそういう人だった。  そして、大体その対象は光彰であることが多い。それは、光彰が誰に何を言われようと全く反応を示さないため、周囲がヒートアップしてさらに囃し立てていくのを、黎の方が黙っていられなくなるという理由であることが多い。そうやって自分を守ってくれていることが嬉しくて、いつの間にか光彰の方も黎を大切に思うようになっていった。  彼はあまり誰か特定の人をそばに置きたがらないことで有名だ。しかし、黎だけには必ず隣にいるようにと要求する。二人で一緒にいるようになったばかりの頃は、まだキングなどという呼び方もされておらず、時には二人揃っていじめられたこともあった。それでも、光彰と黎は二人でいられればそれで良かった。何をされても二人で笑い合っているうちに、気がつくといじめも無くなっていた。  そうやって幼い頃からこれまで、ずっと隣にいた。僅かでもいつもと違うところがあれば、光彰にはすぐにわかってしまう。黎の場合、大抵それは目の奥に現れる。瞳の奥が揺らめく時、彼の体がそこにあったとしても、彼の精神はそこにはいないのだ。 「……日中に出てきたらダメだろう? ちゃんと元に戻るんだ」  光彰はそう言うと、黎の目の前にスッと人差し指を差し出した。黎はそれをじっと見つめる。指先にほわりと光が浮かぶのを見つけると、愛くるしい瞳がさらに大きく輝いた。  彼はそれを確認すると、その光を黎の目の前ですーっとスライドさせていく。黎は魅了されたようにそれを視線で追った。まるで引き寄せれるかのように体ごと引っ張られていくと、ぐらりと傾いた。その額に、光彰は手のひらをトンと優しく押した。 「黎、こっちだ」  光彰がそう呼びかけると、黎の目の中の揺らぎが消えていく。その揺れが消えると同時に、体がぶるりと震えた。 「……あれ? 光彰?」  焦点が定まる頃には、いつもの黎に戻っていた。 「大丈夫か、黎。ランニングしてて校長室まで来るなんて、ぼーっとしすぎだろ」  光彰はジャケットを脱いで黎の肩にかけると、彼の返事を待たずにその背中を押して歩き始めた。後ろにいた小野たちに先に行くように目で合図をすると、小野は他の寮長と共に「じゃあ、お先に」と言って足早に寮へと戻って行く。  ぼんやりとしたままの黎は、おそらく今小野と会っていたことに気がついていないのだろう。気づいているのなら、彼のことならお悔やみの言葉の一つでも掛けているはずだからだ。 「ほら、帰るぞ」 「あ、うん……。なあ、光彰、帰ったらさ……」  黎は自分がなぜここにいるのかが全くわからず、走り始めた時のことを思い出そうとした。しかし、それをしようとするとズキリと頭が痛む。額に手を当てて顔を顰めていると、光彰は黎を横抱きにして抱え上げた。 「うわっ! おい、ちょっと……」 「なんでここにいるのかわかってないんだろう?」 「え? あー、うん。走ってたら気分が悪くなって、そこから覚えてない」 「倒れたんだろうな。そこから無意識でここまで来てるみたいだぞ。お前時々そうなるんだよ。その後大体熱を出して寝込むから、このまま連れて帰る」 「いや、ちょっと……。歩く! 歩けるよ!」  光彰はそれには答えずにそのまま歩き続けた。  これまでにも、黎はこうやって意識を失うことがあった。ぼんやりと焦点の合わない目でうろついたかと思えば、その直後に倒れて熱を出す。そして必ず数日は寝込んでしまうのだ。  この現象は中学生の頃に始まり、もう五年ほど続いている。体の方は特に異常はなく、おそらく精神的なものだろうと医者からは言われていた。定期的に検査を受けることを条件に、寮で生活する許可をもらっている。 「ダメだ。お前、顔真っ青なんだぞ。とりあえずこのまま部屋に連れて帰るから」  光彰は黎の言葉を一切聞き入れず、そのまま寮へと向かった。    春先は陽が落ちるとやや冷え込む。ランニングの後の記憶がないのであれば、どれほど体を冷やしていたかもわからない。抱えた黎の体がなるべく冷えにくくなるようにと、ぎゅっと密接するように抱き直した。 「気持ち悪くはないか?」 「う、うん……」  寮へ戻る道すがら、コミュニケーションルームの前を通った。そこには夕食をとる生徒たちの姿が見える。今朝この寮の生徒が亡くなったとは思えないほどに、穏やかな時間が流れていた。  生活に不自由しない程度には金を与えられ、住む場所はルールが緩く至れりつくせりの寮、学業は小さな頃から緩やかに詰め込まれて来たために、そこそこ得意であるものが多いという生徒たちは、何かを判断するという能力だけが欠けていた。  校内で何か問題が起きてたとしても、それを大人が「問題だ」と言わない限りは、誰もそれに疑問を持たない。噂話を楽しむ程度にしか興味を示さないのだ。肝が据わっているのか、それとも何も考えていないのか、とにかく大抵の事では動じないタイプの生徒が多い。それがこの学園の特徴だ。 「……この人たちは温田見くんを悼んだりしないのかな」  噂はするくせに悲しんであげたりはしないのかと、怒りの感情が黎の中に湧き立つ。光彰はそんな彼を宥めるように答えた。 「さあな。まあでも、目に見えることが全てじゃないかも知れないだろう? もしかしたら心の中では悼んでるかも知れないぞ。俺はそれを知りたいとは思わないから気が付かないけれど、黎はよく見てあげればわかるんじゃないのか?」  光彰がそう問いかけると、黎はまさか彼からそんな答えが返ってくると思っていなかったようで、少し目を丸くした。そして何度か小さく頷くと、 「そうだといいけどな」  と呟いた。  黎は光彰から怒りに囚われてはいけないという教えを受けたような気がして、鼻の奥がつんと痛んだ。同い年であるはずの彼の器の大きさに、いつもこうして学ばされる。 ——こういうところをみんなにも知って貰えばいいのに。  そう思ってはみたものの、彼はそれを必要としないだろうと気がついてしまった。彼のいいところは自分しか知らないのだということを認識した途端に、なぜか表情が緩んでしまう。 「何笑ってるんだ?」  それを光彰に見られてしまった。慌てた彼は、ふとランニング中に桜が美しかったことを思い出し、そちらへと話を逸らすことにした。 「いや、別に。校庭の桜がキレイだなと思って」  今日は時計塔の方ばかりを見ていた。その反対側の景色である校庭の花々は、春の空気の中でゆらゆらと揺れている。 「そうだな。今日は全然ゆっくり鑑賞出来なかったから、明日の昼は校庭で食べようか」 「おー、いいねえ」  そうして穏やかに話しながら、寮棟の入り口へと手を掛けた。ちょうどその時、遠くに見える時計塔に目を奪われた。 「綺麗だなあ」  尖塔に、夕陽が反射して輝いている。まろやかな黄金色の光が、二人の顔を染めていた。  あの場所には、今夜も千夜が現れるのだろう。黎は、彼女が現れると言われるその場所を見上げた。そして、ずっと胸の奥に引っかかっていることを、光彰に訊いても良いものかどうかと迷っている。 「……ねえ、温田見くんが最後に一緒にいたのって、千夜ってことになるよね」 「そう言われてるな」  光彰はそう答えながら寮棟の中へと入っていった。 「……千夜って本当にいるのかな」 「市岡を信じるなら、いることになるんだろう。俺はあいつを信じてないからなんとも言えないけどな」  彼の語気がいつもより僅かに棘を含んでいる。黎もそれには気がついていた。 「じゃあ、先生は嘘をついてるってことか?」  それでも、出来ればあの噂を確認したかった。彼の言葉で真実を知りたいと思っていた。 「さあ、どうだろうな。正直、今回の騒ぎ自体はどうでもいいとしか思ってない。気になるのは、温田見がどうしてあの場所にいたかっていうことだけだな」 「あ、そうだった」  話している間に、二人は第一寮寮長室へと辿り着いた。寮監に連絡して開錠してもらっていたため、そのまま扉を開けて中へと入っていく。 「ほら、もう着いたぞ。その話は後にして、とりあえずシャワー使え」  光彰はそう言って黎をベッドに下ろすと、荷物をそれぞれの机に置いて行った。彼の机のそばにある大きな窓の向こうには、時計塔が見えている。  だんだんと陽が翳ってくる時間になり、空の深い青に時計塔の金色、僅かに残る夕焼けの濃いオレンジが美しい。黎がそれに見惚れてぼんやりとしていると、胸の中にモヤモヤしたものがぶり返して来た。  うやむやにするにはもう無理があると思った彼は、思い切って窓の外を眺めている光彰の背中にそれを問いかけることにした。 「ねえ、光彰。今日教室で葉咲くんたちがお前のこと話しててさ……」    黎がそう声をかけると、光彰はゆっくりと振り返った。 「……っ!」  ギラリと目が光る。その光には、何かを射抜くような強い意志が宿っていた。黎は思わずその表情に息を呑んだ。 「呪いの話を聞いたのか?」  光彰はそう言って黎の方へと近づいてくる。彼は何かを言おうとするが、光彰の目がそれをしてはならないと言っていた。怯んでしまった黎のそばまでやってきた光彰は、恐ろしさに縮み上がって言葉の出ない彼の口に、洗い立てのハンドタオルを押し当てた。 「んぶっ!」  驚いた黎が思わず変な声を漏らしつつ顔を上げると、光彰は子供のように笑っていた。それはつい先ほどまで見せていた表情とはあまりに違い、無垢さに思わずドキリとさせられる。 「何するんだよ!」 「ごめん、俺そんなに怖かったのか? あんまり怖がってるから、つい笑わせたくなって」  珍しく大きく口を開けて笑う姿を見ていたら、黎の方もスッと気持ちが落ち着いていた。 「千夜のことを聞きたいんだろう?」  光彰は、今度は怪しげな光を目に宿わせて黎を見た。それがどういうものなのかは、黎には読みきれない。今日の光彰は、こうして何度か黎がこれまでに見たことのない顔をする。  ずっと一緒でなんでも知っている仲だと思っていた黎は、光彰を少し遠くに感じてしまい、寂しくなった。その寂しさが、胸の奥に刺さってチクリと痛む。 「うん、そうだ。今日変な噂を聞いたんだ。あまりにひどかったから、光彰の口からはっきりとそれを否定して欲しくて」  光彰はハンドタオルを振りながら、「わかった」と呟いた。そして、いつも見せてくれる頼りになるキリッと引き締まった笑顔を黎に向けた。その高潔な笑顔は、どんな言葉よりも黎を安心させた。今日一日で度々巻き起こった不安を、それは一瞬にして全て払拭していってくれた。

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