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第32話 囚われの身_暗示2

◆ 「なんだって、また人が落ちたのか? いますぐセキュリティの見直しをしなさい。施錠に問題があるのなら、せめて警備をつけなさい。今までそれをしていなかったことが……。いや、それは後にしよう。で、警察への連絡は? ……どうしてだ。彼のご両親がそう言っているのかね? ああ、いやもういいよ。今からそちらへ向かう。理事を集めておいてくれ」  辰之助は、仕事から帰るなりかかってきた電話の応対に追われて、終始厳しい表情を浮かべていた。玄関を入り靴を脱ごうとしていたが、それをやめて踵を返そうとしている。今夜も話し合う予定で父を待っていた光彰は、その通話が終了するのを待っていた。しかし、彼がそのまままた家を出ようとしていることに気がつくと、彼を捕まえようとして慌てて声をかけた。 「父さん、お帰りなさい。すみません、お話ししたいことが……」  珍しく出迎えをしてくれていた光彰に、辰之助の表情は一気に綻んでいく。彼は今たまたま停学中とあって家に帰ってきているが、普段は寮で暮らしているため二人が言葉を交わすことなど年に数日あればいい方だ。  反抗期は終えたらしく話かければ応えてはくれるものの、彼が辰之助に自分から話しかけることなどそうあることではない。家族愛の強い辰之助には、それがよほど嬉しいのだろう。およそ冷血漢と呼ばれている人物とは思えない程に緩んだ顔をすると、嬉々として息子へと近づいていった。 「ああ光彰、ただいま。出迎えてくれるなんて嬉しいよ。でもすまない、今帰って来たばかりなんだが、これからまた学校へ行かなければならないんだ。どうやらまた時計塔から人が落ちたらしい。これから緊急の会議をすることになってね」  忙しなく玄関を出て行こうとする辰之助の背中へ、「えっ?」という光彰の驚いた声が響く。滅多に聞くことのない我が子の狼狽えた声に興味を惹かれた彼は、すぐに戻らなければならない事態であるにも関わらず、思わず振り返ってしまった。 「そんな……またですか? それで、落ちたのは誰なんでしょうか?」  本当に驚いている様子で何度も瞬きをしている光彰を見て、辰之助は不謹慎ながらもやや安堵した。息子である光彰は、普段はどんな時でも落ち着き払っていて、まるで人生の荒波を越えてきた老人のよう感じることがある。そんな光彰が、こうして時折子供らしい感情の揺れを見せてくれると、辰之助としてはどうしても安堵が先に立ってしまうのだ。  しかし、事が事だけに、あまり浮かれた話し方をするわけにもいかない。一つ咳払いをして気持ちを切り替えると、光彰の質問に答える心づもりをした。 「今回落ちた生徒は、田岡歩夢くんらしい。君と同じクラスじゃないかな」 「えっ、田岡がですか? あいつは飛び降りなんかするタイプじゃないでしょう?」  光彰は怪訝そうな表情をすると、何かの間違いではないかと辰之助を問い質した。その彼の様子に、辰之助は大きく目を見開き、深い感動を覚える。 「きみ、人に興味を持てるようになったんだね」  光彰が黎を託したという八木の存在ですら、辰之助にとっては奇跡のように思えていた。それが今、また別のクラスメイトの名前に彼が反応を示したのだ。辰之助にとっては、それは青天の霹靂とも言える衝撃だった。 「……どう言う意味でしょうか。黎になら昔から興味がありますよ。彼も人でしょう?」 「そうだけれど、黎くん以外に全然興味を示さないからね。親としてはずっと心配だったんだよ」 「それは失礼しました。俺が興味を持たないのは、あなたの権力にすり寄るために俺を利用しようとする奴らと、俺が守る必要のない強い人たちだけですよ。そうでない者や面白いと思う者には、それなりに興味を持っています。千夜も八木もそうじゃありませんか」  父からの不躾な問いかけにむくれながら、光彰はそう答えた。彼は最上の後嗣としての立場が決定して以来、いくらかの感情の欠落を起こしている。それは生まれつきのものではなく、後天的なものであるとの診断を受けていた。何かの気持ちを押し隠すようにしているうちに、人への興味を失ったのだろうと言われていた。  しかし、それが杞憂であることが今証明されのだ。彼がこれまで黎以外に興味を示さなかったのは、ただ単にそういう対象がいなかっただけだったようだ。そうは言っても、これは一人の生徒が亡くなった事故の話だ。辰之助は、僅かに高揚しそうになっていた気持ちをなんとか抑えた。そうして、亡くなった田岡に関する情報を彼と共有することに努めようとしていく。 「田上くんとは親しい?」 「いえ、特に親しいわけではありません。ただ、田岡は悪目立ちするタイプなので、色々と知っていることはあります。自由奔放で、ルールなんてお構いなしに生きていくような人間ですね。でも、自分の行動が規則に違反していると言われるなら、その時はきちんと罰を受けるような、妙な矜持を持ったやつです。きっちりしているのかそうでないのか、よくわからない。はっきりと言い切ることは出来ませんが、物事を引きずって思い悩むようなことは無かったように思います。一度だけ一緒に音楽室の掃除をさせられたことがありました。……あ、そうです、俺に『牡丹の朝露』と言った生徒というのは、田岡のことです」  光彰はそう言いながら、あの日の田岡の様子を思い出していた。戸田が普段から音楽室を清掃していたら、ここの掃除なんてなんの罰にもならないはずだとこぼしながら笑っていた姿を思い出す。  あの時、彼は飛び降り自殺をしたくなるほどの悩みを抱えていただろうか。いくら思い出そうとしても、そういうふうには思えなかった。むしろ、戸田の話をしている時の顔はとても輝いていて、ただならぬ関係があるのでは無いかと勘繰ってしまったくらいだ。 「田岡くんが牡丹の朝露……意外だね。彼の素行の悪さはよく理事会でも話題に上がるので、私も彼のことはそれなりに知っているんだ。でも、君の言うとおり、罰をちゃんと受けるんだよね。だからなんとなく扱いに困るって先生たちの間でよく噂になるんだ。ただ、失礼だけど彼が『獅子身中の虫』を理解して、牡丹の朝露を常用しているとは私には思えないな。そういうのは嫌いそうだ。彼なら体に虫を飼って痺れを切らすまで耐えたりしないだろう。嫌いなものはすぐに切り捨てて、距離を置きそうだと思うよ」  それを聞いて光彰は思わずくすりと笑ってしまった。まさに田岡はそういうタイプだ。嫌いなこととは徹底的に距離を置き、自由に生きたいと願っているように見える。それでも、自分なりに考えて必要だと判断したことはきちんとやるタイプで、自由について回る責任はしっかりと果たそうとする。不思議で掴みどころのない男だ。 「確かにやや性急なところはありますし、俺には全く理解出来ないタイプです。理解は出来ませんが、だからと言って何かを嘆いて屋上から落ちて死ぬようなことは無いと思うんですが……」 「それはこれから話を聞いてみないとわからないよね。まず、どうして家族がこのことを通報されたく無いのかもわからない。彼が何か世間に知られてはいけないような問題を抱えていたのなら、理解出来ないことも無いけれど……。そういうわけで、ここで問答をしていても埒が開かないから、私は取り敢えず学校へ行ってくるよ」  そう言ってドアに手をかけた辰之助の背中に、「あ、待ってください!」と光彰はまた声をかけた。どうしても、彼に頼まなくてはならないことがあるからだ。 「何度もすみません。あの、昨日黎がまた狙われたんです。どんな方法をとったのかはわかりませんが、また幻覚剤の影響を受けたようなんです」  それを聞いた辰之助は、ドアノブに手をかけたまま光彰の方へと向き直った。そして、眉間に深い皺を刻みながら光彰へと問い返す。 「どんな方法をとったのかはわからない? 何かを飲んだわけでもないと言うことかい?」  辰之助の問いに、光彰は何度も首を縦に振った。それについては、間違いないと言い切れるだけの根拠があったからだ。 「そうです。八木と俺で黎の行動を監視していたのですが、飲み物も食べ物も、全てこちらで用意したものしか口にしていません」  黎は、ここ最近は食堂も利用せずに過ごしている。彼らには、最上の家で調理されたものがお弁当として渡されており、それを八木の部屋で一緒に摂るようにしてもらっていた。口にするもので薬物らしきものに触れたことは、小野から渡されたあの時以来一度も無いはずだ。 「うーん、そうか。でも、黎くんが狙われたことは間違い無いんだね?」 「はい。それに、ニセ千夜を見て突然動揺し始めました。それも気になっています」 「……ニセ千夜? そのニセ千夜というものが生徒を誘い込んで屋上から落とすから、呪いだって言って問題になっているんだったよね。それはいつの話だった?」 「昨夜です。呪いの被害者は俺に狙われた人だと言われています。キングの怒りを買ったから、千夜を使って飛び降りに誘われるという理屈らしいんです。そのせいで俺は今停学させられています。あの、もしかして田岡の件も昨夜の話なんですか?」 「そうだね。昨日の二時ごろの話らしい」 「二時……黎が倒れたのと同じ時間です。黎は時計塔の方が見えたんでしょうか。田岡が落ちるのを見て動揺したんでしょうか……。いやでも、倒れた時は校庭を見ていたはずですし……」  田岡が時計塔から落ちた時、黎がもしそれを目撃していたのなら、驚いて叫ぶなり様子を見に行こうというだろうと光彰は考えている。  しかし、昨日の黎はそうではなく、校庭にいるニセ千夜の何かを見てただ怯えていた。おそらく、田岡が落ちたことには気がついてもいないだろう。他のことに気を向けることも出来ないほどに、彼はパニックを起こしていた。 「光彰、黎くんは倒れた時は『だれ』だったのかな?」 「……その時は、『千夜』でした。黎が幻覚剤の影響で暴れていたので、それを静止するために千夜に代わってもらったんです」 「なるほど、そうか。じゃあやはり、この一連の事件と千夜さんの事件は、同じ人物が絡んでいるんだろうね。だから彼女はニセ千夜を見て倒れたんじゃ無いだろうか。ニセ千夜に何か嫌なことを思い出させる何かがあって、それを嫌がって気を失っていると思うと自然じゃないかい? これまで記憶を無くしている時も、いつも時計塔とニセ千夜が絡んでいただろう? 千夜さんは、時計塔で何か嫌な目に遭って落ちて亡くなった。だから、それを思い出すようなものに近づくと、意識を失ったり忘れたりする。一種の防衛反応だろうね」 「なるほど……そうですね。そう考えるのが妥当だと思います。でも、二つの事件に手がかりが全くありません。霊的な面でも証明できていませんし、物的証拠と言えばもっと難しいと思います」  辰之助は腕を組み、片方の手で顎を触りながら考え込んだ。親指と人差し指で顎を擦りながら考え込むのは、昔からの癖だという。これまでに共通する出来事で、物理的に何か証拠となり得るものが無いか。そう考えると、キーになるものは幻覚剤しかないように思えていた。 「父さん。幻覚剤が特定されれば、話はもっと単純になりますよね」 「ああ、私も今そう言おうと思っていた。しかし、これまでの子達はもう遺体は荼毘に付されているし、田岡くんのご家族も何かを隠そうとしているみたいだから、協力してくれることはないだろう。黎くんの血液を採取できるなら……」  辰之助がそう提案すると、光彰はグッと口の端を持ち上げた。そんなことは想定内だと言わんばかりの、勝ち誇った笑顔を見せている。 「お願いします。サンプルなら、八木が採ってくれているはずです。俺がキットを渡しておきました。黎を苦しめているのが幻覚剤だというのなら、徹底的に定量検査させればいいでしょう。外部の検査機関を頼らなくても、父さんならどうにかなりませんか?」  そう言って再び口の端をぐいっと持ち上げる。その顔は、楽しげに笑っているというよりは、脅迫に近いものがあった。それを見て初めて、辰之助は光彰が自分にも怒りの感情を持っていることに気がついた。  何度も起こっていた飛び降り事故を防げなかったのは、教師たちだけではない。理事会の人間の怠慢でもあると彼は思っているようだった。それでも他の生徒が被害に遭うだけなら、彼は鼻にもかけなかったのだろう。  しかし、今は彼の愛する黎が巻き込まれている。そうなっているのであれば、相手が誰だろうとやるべきことは全てさせようという、凶悪な意志がそこには見えた。 「さすが我が息子、抜かりない。こんな子が同級生にいたら、確かに心中穏やかには過ごせないだろうね。……では、私は今から学校へ行き、会議後にそれを回収して来るよ。君が言うように、私のツテを頼って分析させておこう」  そう言って手をかけていたノブを回すと、手を振りながら出かけて行った。 「はい。では、お願いします」  光彰は、その凶暴な悪魔を精神のうちへと閉じ込めると、辰之助の背中へ慇懃なお辞儀をしてそう呟いた。

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