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第33話 囚われの身_暗示3

◆  ざわざわと室内の空気が揺れる。今し方決定したことに対して、口を挟もうとする者は誰一人していなかった。理事会の開かれている応接間の中央、校長室の隣にあるやたらに瀟洒な部屋のシャンデリアの下で、黎は無言のままに立ち尽くしている。自分が選んだとはいえ、こんなことが罷り通るようなとんでもない学校に通っていたのだという事実に、ひどく打ちのめされていた。 「えー、では臨時理事会を終了します。柳野くん、君は今日から無期限停学処分となります。すぐに寮から出るように。これは退学にもっとも近い処分です。期間中に少しでも問題を起こせば、君は即退学のリスクを負っています。そのことを忘れないようにして下さい」  田岡歩夢が時計塔から転落した夜に寮の自室にいなかったとして、黎は光彰と同じ停学処分を受けることになった。ただし、黎の場合は無期限となっていて、恵那の言うとおり下手をするとこのまま卒業できなくなる可能性が高い。この決定に対して強く言い返せるだけの証拠を示すことが出来なかったため、黎は自分という存在の無力さを痛感することとなった。 ——そもそも、俺が弱いのがいけない。  二度も幻覚剤に振り回され、二度目は錯乱状態に陥るほどの影響を受けた。その事実自体は、この学校で薬物騒動が起きているという証拠としての利用価値があると言えなくも無い。警察へ行けばそれだけでも解決してもらえるかもしれないものだろう。  しかし、それをすることで一生消えない傷が残るのではないかと思うと、どうしてもそれを出来ずにいた。そして、おそらく犯人にはそこまで自分の性質を見抜かれているのではないかという思いがあり、そのこと自体も情けなく思っていた。 「黎くん」  退出していく理事たちを呆然と見送りながらもそこから動けずにいると、辰之助が彼に声をかけて来た。優しい声音で話しかけてくる辰之助の姿を見て、黎の中で自分への嫌悪感がさらに募っていく。 「おじさん……」  辰之助にはいつも助けてもらってばかりで、その上今や彼の溺愛する息子の光彰の経歴にさえ傷をつけそうになっている。そのことがどうしても彼を苦しめていた。もちろん、辰之助もそれをわかっている。黎の性格を知っているからこそ、今彼に出来うる限りの優しさを与えたいと思っていた。そして、そもそも彼を苦しめている今下されたバカバカしい決定事項に、強い憤りを感じていた。 「黎くん、私と一緒にこのままうちに来なさい。|万智《まち》と|克之《かつゆき》は今も仕事でパリに行っているんだ。あと半年は帰って来れないだろうから、今回も私が君を預かるように頼まれている。いいね?」  黎はさながら抜け殻のようになっていた。呆然としながらも、心配してくれている辰之助になんとか言葉を絞り出して答える。 「はい、おじさん。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」 「うん、心配しなくていいからね。必ず戻れるようにするから」  辰之助は、黎を元気付けるように優しく声をかけた。それに対して、黎は力無く笑う。その穏やで悲しそうな微笑みは、辰之助の心を激しく揺さぶった。  起きている事件に対して正面から向き合わずに、自己保身のための身勝手な行動を取り続ける学校側の対応に、じわじわと腹を立てていく。校長である恵那の権力が、理事会の力をも凌駕し始めていることが原因だった。今の話し合いの中に、公正な判断など何一つ無い。何かしら裏で糸を引いているものがいるか、恵那が理事たちの弱みを握っているとしか思えないような状況だったのだ。  黎から預かった血液サンプルを入れたケースは、カモフラージュするために辞書のような見た目にしてあるのだが、辰之助はそれを歪めてしまうほどに強く握りしめていた。分厚い紙の束を歪めるほどに溜め込んだ怒りをぶつけ、ギリギリと歯を鳴らす。そして、すました顔で校長の椅子に座っている恵那を、鋭く睨みつけた。 「恵那くん、君がしていることは子供の未来を潰すことだ。例えどんな綺麗事を並べ立てようと、彼の人生を狂わそうとしていることに他ならない。私はそういう大人が大嫌いだ。必ずこの決定を撤回してもらうよ。その椅子を降りることを覚悟しておきなさい」  すると、恵那は不気味な笑いを浮かべながら、辰之助をあしらった。 「ええ、先輩。出来るものなら。楽しみにしていますよ」  辰之助はその嫌味な笑顔を目に焼き付けながら、 「必ずこの一連の事件の犯人を捕まえてやるからな。それも、私ではなく光彰がね」  そう吐き捨てると黎の手を取り、乱暴に校長室のドアを閉めて寮へと急いだ。  校舎と寮を隔てる生垣の隣を歩きながら、黎はじわりと涙が目に浮かぶのを感じた。自分がなぜ泣いているのかも、泣くほど悲しい事は何なのかも、もうわからなくなっていた。彼には、今起きていることの全てが、何一つ理解出来無い。温田見や小野、田岡が死ななければならなかった理由も、自分が幻覚剤の影響を受けている理由も、今停学を言い渡された理由も、その全てがわからなかった。 「おじさん。どうして俺たちは、こんなに苦しまないといけないんですか? 俺たち、一体何をしたんでしょうか」  そう呟く黎を見て、辰之助は胃がちぎれそうな思いをした。  黎は辰之助の妹の万智の子で、兄の千晃との二人兄弟だった。辰之助にとっては甥だ。そして、柳野兄弟の父である克之は、辰之助の長年の友人でもある。自分の妹と友人の家族となれば、一般的な兄妹の家族よりも気軽に顔を合わせる機会が多くなるだろう。仕事の面以外でも、家族ぐるみでの深い付き合いがある。  無愛想で感情の起伏の乏しい辰之助の息子の光彰と、可憐で愛想が良く可愛げのある黎は、顔を合わせる機会が多かった上に気が合ったらしく、ずっと仲良く育ってきた。そんな姿を見ているからか、辰之助にとっては黎も甥である以上に、まるで自分の子供のように愛してやまない大切な存在の一人となっている。 「大丈夫だよ、黎くん。君は何も悪くないんだ。あの日、八木くんが一緒にいてくれたんだろう? だから安心していいんだよ。君はどれほど人に利用されようとも、決して人を殺すような人間じゃないってことは、私も光彰も、万智も克之もちゃんとわかっているよ。そして、それを八木くんが証明してくれるはずだ」  そう言って優しく頭を撫でる辰之助に、黎は涙ながらに訴えた。 「でも、俺は何も覚えていません。記憶が無ければ、否定することすら出来ません」  咽び泣く黎を不憫に思いながら、辰之助は光彰と今後について早急に話し合わなければならないと考えていた。このままでは、誰かがいいように事態を動かし続け、二人の未来が閉ざされてしまうかもしれない。その前に、自分が出来る事は全てやらなければならないと感じていた。 「大丈夫。私と光彰、そして八木くんに任せてくれ。その根拠は家で説明するよ。だから、今はとにかく帰ろう。必要最低限の荷物を持っておいで」  そう言って、来客が寮生を待つためのカフェスペースで、黎の手を離した。 「わかりました。ありがとうございます。荷物、急いで取ってきますね」  真っ赤な目をして黎はそう言うと、深々とお辞儀をして自室へと向かう廊下を歩いた。辰之助はその後ろ姿を、複雑な面持ちで眺めている。  黎は食堂を通り抜けて左へ曲がり、そこでカードキーを翳して第一寮へと入って行こうとしていた。  しかし、その直前で一人の教師に声をかけられ、立ち止まって話を始めた。その相手は、今年新任としてやってきた物理の教師で、生徒に対する対応がスマートで授業もわかりやすいとして、かなり人気があると噂の人物だ。黎が「才見先生」と呼ぶのを聞いて、辰之助はやはりそうかと独言た。 「黎くんは物理の成績もいいと言っていたし、彼もよくしてくれているのかな」  才見は黎の停学に腹を立てていると大声で叫び始めた。辰之助がその熱血ぶりを微笑ましく思っていると、彼は突然黎を抱きすくめた。それはまるで教師と生徒の間に起こる感情とは違ったもので、彼の目の中には愛しい存在を手中に収める行為のように見えていた。  それを見て、彼の中に妙な違和感が芽生えた。どうしてなのかはわからないが、その光景に既視感を覚えたのだ。才見の行動により黎の涙腺は決壊してしまったらしく、その場で大声をあげて泣き崩れてしまった。その彼を慰めている姿にも、辰之助はまた既視感を感じた。 ——今のは、なんだ?  記憶の中の奥深くに、忘れ去られた何かがあるのだろうかと逡巡してみるが、どうやらそれ以上は思い出せないらしい。あとで黎に確認すればいいと思い、彼はその場でそれ以上の詮索はしないことにした。 「……そうか、最上くんだけでなく自分も疑われてしまったのが辛いんだね。大丈夫だよ、俺は柳野くんを信じてる。必ず犯人が見つかると信じていてね。諦めてはダメだよ」  才見はそう言って黎の頭を何度も撫で、頬を手で擦っている。愛おしそうに抱きしめるその姿には、恋情と思しきものさえ見え隠れしていた。特に目を覗き込んだ時にそれが強く現れている。辰之助は、「まさか」とある可能性に思い至ってしまった。  そこへ、廊下をバタバタと走る音が聞こえてきた。それと同時に 「柳野くん! 待って!」  という声が響き渡る。  その声のあまりの大きさに、寮監の教師から 「廊下を走るんじゃありません!」  と注意をされたその人物は、それに対して 「すみません! 緊急事態なんです!」  と叫んで答えながら、黎の元へと辿り着いた。 「どうしたんだ、八木くん。寮長なのにそんなに走って……」 「そうだよ。君が走ったら、他の寮生に示しがつかないじゃないか」  驚く黎の隣で、才見も教師らしく注意した。それに対して、八木はまっすぐに才見の目を覗くと、しっかりと通る低い声で言い放った。 「すみません、でも早く伝えなければと思ったので。先生、柳野くんの停学はなくなりました。僕があの日、あの時間に柳野くんと一緒にいたと話すと、先生方はすぐに手のひらを返しました。一緒にいたのが僕であるなら、それは信用に値すると言っていただけたんです。僕が彼を見かけたのは、寮長の巡回途中です。それは正当な外出理由になりますから、その途中で見かけた彼が時計塔には行っていないと話したら、すぐに停学取り消しになりました。その代わりに、また才見先生のところで放課後の雑務を手伝うことになります。僕も同席するように言われたので、二人で放課後にお手伝いに伺います。……と言うわけだから。柳野くん、部屋に戻ろう。出ていかなくてもいいんだよ」  八木はそう言うと黎の手を取り、半ば強引に彼を自室へと連れ帰ろうとした。その行動はとても八木のものとは思えないほどに強引で、黎は驚いた。展開の速さにも頭がついていかず、ただ狼狽えることしか出来ない。 「え? えっ? どう言うことだ?」  しかし、八木はそれには何も答えず、少しもその歩を緩めようとしない。半ば引きずるようにして黎をその場から離れさせようとしていた。黎は混乱したままではあったものの、光彰が信用した男である彼を信じることにした。才見に向かって頭を下げると、振り返って今度は辰之助へと呼ばわった。 「おじさん! また連絡します!」  そしてそのまま、八木に手を引かれて自室へと消えていった。 「了解! またゆっくり話そう!」  辰之助がそう叫ぶと、廊下のガラス窓からこちらに向かってブンブンと大きく手を振る黎の姿が見えた。さっきまでとは打って変わって、とても元気そうな笑顔を見せてくれている。ほっとした辰之助は、才見に向かって 「なんだかわかりませんけれど、良かったですね」  と笑いかけた。先ほど感じた既視感が、彼を穿った目で見させてしまう。しかし今はまだ何もわかっていないため、何事もなかったように過ごさねばならない。努めて冷静を装っていた。  嵐のように去っていった二人に呆然としていた才見も、はっと我に帰ると 「ええ、そうですね。上層部の先生方の考えることにはついていけませんが、柳野くんが停学にならないのでれば、良かったです」  と答えた。その様子には、これといって不審なところはなさそうだ。 「では、僕はこれで失礼します」  そう言って踵を返した才見の横顔を見て、辰之助はまたひっかかるものを感じた。流石に看過できないと思い、仕事用に持ち歩いているスマートフォンを取り出すと、清水田学園の教員名簿を開いた。 「物理教師の才見……。名前はなんだったかな」  そう独言て教員名簿を開いた彼は、その名前と経歴を見て驚くことになる。

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