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第34話 別れへ_朝露1
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田岡歩夢が時計塔から落ちて亡くなった件は、これまで通り事故として処理された。そして、ようやく時計塔の階段室入り口のドアがチェーンで施錠されることになった。これでこれまで同様の事件を起こさずに済むと言って、市岡は胸を撫で下ろしている。
「今更そんなことを言うなら、最初から封鎖しておけば良かったのにな」
窓側の席について寮棟の方を見遣りながら、八木は黎に向かってそう呟いた。
「本当だよね。なんで今まで入れるようにしてたんだろう……。普通だったら、温田見くんが落ちた時点ですぐに封鎖すると思うんだけど。あそこを開けてないといけない理由なんて、特に無いはずだよね。今使ってないんだし」
黎は八木の後ろの席に座り、寮の来客用窓口にあたる場所を眺めながらそう答えた。あの生垣の向こう側に僅かに見えるガラス壁には、最上家の車が映っている。あの中には、停学処分が明けて戻ってきた光彰と、付き添いと理事会でやって来た辰之助が乗っているはずだ。
黎と八木が才見のところでの雑用を終えたあと、四人でコミュニケーションルームに集まることになっている。二人は一刻も早くそこへ行きたい気持ちがあるのだが、肝心の才見がまだ彼らを迎えに来ない。勝手に尋ねることは禁止されているため、仕方なく教室で彼を待っていた。
「田岡ってさ、結局アレなんだったんだろうな」
彼らとは対角にあたる教室の隅で、例の噂好きの集団がまた話に花を咲かせ始めた。語っているのは、またもや葉咲だ。今度は滅多に教室に来る事のなかった田岡について、まるで自分が彼のことを誰よりも詳しく知っているかのように吹聴して回るのだろう。その中身のない得意げな表情を見ていると、黎の中にじわじわと苛立ちが募っていった。
「懲りない奴らだな」
黎は、ふうと短く濃い息を吐き出すと、出来るだけその話が耳に入らないようにしようと思い、あの小説を開いた。物語の中に没頭していなければ、怒りに囚われてしまいそうだったからだ。
「柳野、最近それずっと読んでるよな。面白いのか?」
八木が小説を指差しながら言う。黎は鼻先を指で触れながら、恥ずかしそうに答えた。
「うん……バレてた? これ、児童書なんだ。難しいことを考えたくない時には、物語を読むのが一番だと思ってさ。気晴らしに違う世界に入り込むなら、これが一番おすすめだって才見先生が貸してくれたんだよ。本当に簡単に世界観が想像出来るから、嫌なことを忘れたい時に良いぞ。読み始めたらハマっちゃって。全十巻あるんだけど、ついこの間読み始めたのに、今はもう最終巻を読んでるんだ。スラスラ読めるから、あっという間に読み終わってんだよ」
そう言って黎が八木に本の表紙を見せる。児童書らしくカラフルで幻想的なイラストに彩られたその本は、彼が借りるまで使われていなかったのか、うっすらと埃をかぶっていた。
「お前、それ埃すごくないか。ちょっとは拭けよ」
八木はそれを見咎めて手で払おうとした。するとそこへ才見が慌てた様子で教室の中へと駆け込んできた。
「ごめん、遅くなりました。ちょっと準備に手間取ってて。二人とも、今日は花壇の草むしりを手伝ってね」
才見はニコニコと優しげな笑顔を浮かべながら、両手に軍手を握りしめていた。草むしりなど罰としては優しいうちに入るのだろうが、今日の外気温は今の時点で三十度もある。おそらく花壇は日陰になっている時間だろう。
とはいえ、まだまだ熱中症で倒れる心配があるような環境だ。決してやりたいと思えるようなものではない。二人は思い切り顔を顰めて呻いた。
「ものすごく爽やかな笑顔でえぐいこと言いますね、先生」
八木がため息をつきながらその軍手を受け取ると、才見はニヤリと口の端を上げた。
「これくらいで済んで良かっただろ? 校長先生のお怒りを買って、退学寸前まで行ってたらしいじゃないか」
「停学ですよ、停学。いきなり退学させないでくださいよ」
黎は適当なところのある才見に呆れたようにそう返す。
「ああ、そうだね。即退学なんてことになったら大変だ」
才見は驚いたように目を見開き、恥ずかしそうに頬を赤らめた。そんな彼の様子を二人は笑う。和やかな調子で三人は教室を出ようとしていた。
「あー、怒りを買うっていえばさ。田岡がキングの怒りを買ったって言ってたんだよな」
才見の言葉尻を捉えるような口ぶりで、葉咲が話し始めた。それに、八木は何かを感じ取ったようだ。
「田岡がキングの怒りを買った? ……どういうことだ?」
立ち止まった八木の様子に、黎は何かを感じ取った。八木が踵を返して噂好きの集団の方へと向かう。その表情は、何か思い詰めているように見えた。黎はそれを見て、危機感を感じた。止めなければと思い、彼の後を追っていく。
「八木くん、ちょっと待てよ……」
しかし、黎の静止を振り切って八木は葉咲に声をかけた。止めきれなかった黎は、その後ろ姿を見て不安に陥っていく。八木が探偵であることが葉咲にばれてしまったら、おそらく恵那にすぐ伝えるだろう。
そうなってしまうと、光彰と共に行動することが出来なくなるかもしれない。その状況は避けたいと思い、どうしたものかと考えあぐねていた。
「ねえ、田岡くんが言ってた『キングの怒りを買った』って話、僕も聞いていいかな。なんだかすごく気になって。だめ?」
八木は黎の心配をよそに、探偵としての心構えをしたまま、この学園の生徒である八木和希としてのキャラクターを徹底して貫き通く。焦りがそれを邪魔してはいけないと思った黎は、八木が仕事をしやすいようにと間に入ることにした。すっと隣に並んで立つ。八木はそれで黎の考えを察したのか、ほんのわずかに口の端を持ち上げた。
「俺にも聞かせて。光彰が関わってるかもしれないんだろう?」
「なっ、なんだよお前ら。最上に告げ口でもする気か?」
突然近づいてきた二人に、噂好きの集団は驚いて返事に詰まってしまった。ここにいないからと派手に光彰をバカにしていた彼らには、今日がラストチャンスでもある。明日には光彰は停学が明けて戻ってくるからだ。
それなのに、この場をしらけさせるかもしれないこの二人は、招かれざる客に違いない。しかし、噂好きの血はそう簡単には抑えが効かないようだ。一から話せる相手が増えたとあって、彼は次第に嬉々として口を開き始めた。
「まあ、聞きたいなら話してやってもいいんだけど」
よほど暇を持て余しているのだろう、すぐに気を良くしたようだ。そして、まるでとてもいいものを紹介する営業マンのように、自分の知る情報をイキイキと語り始めた。
「あのさ、田岡が死んだ日の話なんだけど。あいつが誰かと電話で揉めてるのを、俺は寮で偶然聞いたんだよ。その時、『キングの怒りを買いたい』って言っててさ。俺、何言ってんだ? と思って。だから気になって聞き耳立てたんだ。そしたら『ついこの間も買ったのに、少しくらいまけてくれないか?』って言い始めて。『高いんだよ。もう金ねえよ』って」
誰も知らないレアな情報だろうと言わんばかりに得意げに話す様子は、普段なら鼻持ちならないものだろう。しかし、今はそんなことよりも、二人の心の中では大きな衝撃が起きていた。
「高い? 金がない?」
その話の詳細を知ろうとして急いたのか、八木はボロを出しそうになった。すると、黎が咄嗟に八木の肩に手をかけた。そして、彼のものとは思えないほどに強い力で、八木の肩をぐっと押さえていく。
「八木くん。落ち着いて」
いつもより低く落ち着いた声でそう言う黎の様子を見ていると、八木ははっと我に返った。そして、ふうと一つ息を吐き、葉咲に話の先を促していく。
「それはつまり、怒りを買うっていう表現が慣用句的なものじゃなくて、田岡くんが誰かから『キングの怒りという名前のものを、文字通り購入している』っていう話をしていたってこと? それを君が偶然聞いたっていう解釈で合ってる?」
八木がいつも通りの様子で葉咲に問いただすと、彼はそんな八木の様子に驚いていた。普段の八木なら、この手の話題にはのってこないはずだからだ。
「お前、そんな話気になるタイプだったっけ?」
そう言って怪訝そうに八木を見つめる葉咲に、八木は
「これだけ人が死んでれば、些細なことでも気になるだろう。何もかもがおかしいここにいるとわからなくなるのかもしれないけれど、これはかなり異常な事態なんだよ?」
と返した。
葉咲は八木の言葉に「まあ、そうなんだけど」と言いつつ、バツが悪そうにしている。そして、ため息混じりにはっきりと
「俺が話を聞いた感じだとそうだった」
と言い切った。
「田岡みたいなサボってばっかりで素行の悪い人間なら、やばいクスリにでも手を出してるんじゃ無いかっていう話を今してたんだ。不倫とかも平気でするみたいだから、もしかしたらクスリとかも平気なのかもなって」
「クスリ? それはドラッグとかそういうこと?」
「そうじゃ無いかなっていうくらいの話だけどな。あいつならやりそうだなって。お前もそう思わない?」
尋ね返された八木は、それには何も答えなかった。代わりに黎が「どうなんだろうね」と言ってお茶を濁す。
「薬物を買う……。それなら、田岡の所持品を調べれば、売人は分かるかもしれないな」
八木がそう考え始めたところへ、バタバタと派手な音を立てて才見が走って来た。一緒にいると思っていた二人が、ふと気がつくといなくなっていたと言って喚いている。
「こらー! ちゃんとついてこないとダメじゃないかー!」
才見はそう言うと、有無を言わせずに二人の腕をガシッと掴んだ。
「罰なんだから、ちゃんとやんないとダメだよ! 停学処分に切り替わったらどうするんだよ!」
二人の手を掴んだまま力を込めて握りしめる才見に、黎は申し訳なさそうに答えた。
「す、すみません」
「ほら、いくよ。君たちも噂ばっかりしてないで、早く寮に戻りなさい」
二人の手を引きながら教室を出ようとしたところで、話し込んでいる生徒たちにも声をかけた。何時間も噂し続けていることを知っているからだろうか、呆れたような表情で彼らを見ている。
「はいはい、帰ります、帰りますよ。寮監には言わないでね、才見ちゃん」
生徒たちは慌てて席を立つと、それぞれ才見に声をかけながら教室を出ていく。その姿を見送りながら、「先生って呼んでよー」と返す才見は、朗らかな様子で笑っていた。
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