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第39話 別れへ_記憶が消えた理由1
◆
「ん……。あれ、寝てた……?」
真っ暗な部屋の中に、窓から一筋の月明かりが差し込んでいる。冷たいコンクリートに囲まれたこの場所には灯がなく、その青白い光だけが異様なまでに浮いて見えていた。
——ここ、どこだろう。……先輩、どこ行ったのかな。
その姿を探そうとして体を起こそうとしてみるけれど、まるで肉体が床に張り付いているかのようにピクリとも動かない。覚醒しているようでしていないのだと気がつく頃には、だんだんと目が闇に慣れ始めていた。
「……っ」
目が慣れてくると、今度は何か音が聞こえることに気がついた。誰かが何かを訴えているような、言葉にならない声のような、音。短くて苦しそうで、早く助けてあげたくなる。どこから聞こえているのか突き止めて、すぐに手を差し伸べてあげなくてはならないと思った。
「……先輩?」
月明かりの届かない暗がりのさらにその先の闇の中から、その声にならない訴えが聞こえてくるような気がした。でも、どうしてあんなところで苦しんでいるのだろうか。ここには私と先輩しかいないはずだ。鍵は私たちが勝手に変えてしまったから、他の誰かが入ってくることなど出来るはずがない。
そう思って必死に先輩を見つけようと、何度も名前を呼んだ。私の声が聞こえたのだろうか、唐突にガタンと大きな音が聞こえた。まるで人が倒れ込むような音だった。私は焦り、やや声を張り上げた。
「先輩! どうしたの? そこにいるよね? 具合が悪いの?」
私はなんとかしてその音の聞こえる方へ行こうと、布団から這ってその音の方へと近づいて行った。肘を使って体を引きずり、前へと進んでいく。誕生日だからとプレゼントしてもらったレモンイエローのワンピースは、床の埃や土を巻き込んでざらざらとした嫌な肌触りになっていった。折角買ってもらったのにという思いはあったものの、もし先輩が具合が悪くて倒れたのだとしたら、そんなことは構ってはいられない。
「っ、……うっ、ううっ!」
私がその音のする方に近づくにつれ、それが先輩の声なのだとはっきりとわかるようになった。闇の中に白い足が見える。裸足の足が、二つ。その周りに、何かが巻き付いているように見えた。
「先輩、なにそれ……。どうしたの?」
その足はロープで椅子に固定されていた。そして、彼を縛り付けている椅子は、背もたれを床につけるようにして倒されている。私からは、足の裏が時折ビクリと跳ねる様子が見えるだけだった。そう思っていた。
「あーあ、大変だ。見られちゃったね」
感情を押し殺したような声がそう言うまでは、この場所には私と先輩しかいないのだと思っていた。驚いて視線を上げると、誰かが先輩にまたがるようにして座っているのが見えた。まるで幽霊のように突然現れたそれに、私は驚いて思わず声を上げてしまった。
「だ、誰っ?」
驚いて顔を上げると、突然その靴先で目を蹴られた。目玉が潰されたのかと思うほど、強烈な痛みが込み上げる。
「きゃーっ!」
あまりの痛みと熱さに耐えかねて、私は悲鳴をあげた。すると、その男は突然大きな声をあげて笑い始めた。真っ暗闇な時計塔の中で、異様なまでに大きな笑い声が響き渡る。
「きゃーとか言ってんじゃねーよ、気持ち悪いなあ。お前が悪いんだろう? 俺のものを取るからだよ。目をつぶされるくらいの罰を受けても、文句なんて言えないんだからな」
あまりの痛みに、目を押さえて蹲った。男が言っていることは聞こえるけれど、何を言っているのかを理解出来ない。いつの間にか、目が覚めたばかりの時よりも体は動きやすくなっていた。でも、目の痛みがひどくて、体を折り曲げるようにして耐える事しか出来ない。言葉を発しようとすると、その部分に響いてさらに痛む。黙って唇を噛む事しか出来なかった。
「なあ、お前俺のゼミに来るつもりなんだろう? でも、ごめんね。無理だから。一哉は俺のものなの。お前を近くに居させてあげるわけねーだろ? 俺が断れば、この大学でホログラフィの研究は出来ません。別の大学受けな」
その男は、そう言いながら私の顔を覗き込んで笑った。よく見ると、服がかなりはだけている。ほぼ半裸のような状態で近づかれ、私は嫌悪感から顔を顰めた。
「あー、ごめんね、こんな格好で。ちょっと盛り上がっちゃってさあ。お前、誕生日だったんだってね。特別な日だから今日は休ませろって言われたんだよ。でもさあ、そんなの俺には関係ないんだよね。それに、意味わかんないし。腹が立ったから、申し訳ないけど俺とこいつも今日を記念日にさせてもらったよ」
ニヤニヤと笑いながら身なりを整えていくその姿に、私は足元から震えが来るのを止められなかった。相手が誰なのか、わかってしまった。
「戸田、教授……?」
震える声で男の名を呼ぶと、相手は満面の笑みを浮かべて「そうでーす」と答えた。この状況でそんな話し方をするとは、どう考えても頭がおかしい。そうでなくても、この男には悪評があった。それは、生徒にクスリを売っているというものだった。近づいてくる生徒をクスリ漬けにして、校内での権力を手に入れているのだと、一時期騒ぎになったことがある。
その噂と、最近の先輩の悩みを思い出して戦慄が走った。どうして私はこんなにも動けないのか、なぜ先輩は椅子に括り付けられているのか。あの男の体は、どうしてあんなにも汚れているのか……。答えは一つしかない。
「あんた、私たちに何をしたのよ」
怒りで声が震えた。涼しい顔をしてその場を立ち去ろうとするその男に、吐き気が催す。
——教授のスキンシップがさあ、ちょっと笑えないくらい酷いんだよね。
私は先輩に、大学に訴えてみたらどうですかと答えたはずだ。でも、それがなんの意味をも為さないことくらい、私にだって分かっていた。私だって校長に訴えてみた。恵那はそれを私の勘違いだと一蹴した。あの学校は、そういうところだ。
「あんたね! いくら権力があるからって、何をしてもいいと思ったら大間違い……」
あの頃の私は、そんな思いをしていても尚子供のままだった。正義感に任せていればそれでいいと思っていた。その言葉が、それから先の二人の人生を狂わせていくなんて、全く思っていなかった。私の言葉に、男は足を止めた。そして、ゆっくりとこちらへ振り返ると、ひどく悍ましい顔で笑って見せた。
「あれ……? お前、俺がなんで大学で権力を持ってるか、ちゃんと知らないんじゃないのか? ホログラフィの研究がうまくいってるからだとか思ってない?」
男は、左手の薬指に光る指輪を触っていた。そして、それを忌々しそうに見つめると、ふんと鼻を鳴らす。
「そうじゃないの? 企業との商品開発に協力してて、その利益を学校法人に寄付してるから、誰もあんたに逆らえないって……あとは、クスリでしょ。それを売ってお金を巻き上げてるって聞いたことがあるわ」
「っははは。いいねえ、清い考えだ。いや、クスリを売ってるやつは清くはないか。でも、それよりももっと俺に負担の少ない方法でできることがあるんだよ。よく考えろよ、正攻法で俺みたいな若造が成功するわけないだろう? それが通用するのは、最上辰之助みたいな本物の金持ちだけだよ。俺はなあ、この薄汚れた学校法人で頑張ってるおじさんたちに、そのストレスを解消するための生け贄を捧げてるんだよ。そして、その見返りに教授という立場を貰ったんだ。詳しいことは一哉に聞けよ。それを知れば、お前もあいつと別れたくなるだろうからさ」
そういって、男は「じゃあな」と手を振りながら出ていった。一人で朗々と響く声を発していた男がいなくなっただけで、時計塔の中はしんと静まり返ってしまった。私は、男が消えると同時に椅子へと目を向けた。急いで近づいて行き、先輩の足を縛り付けているロープを解いた。
「先輩、大丈……ぶ」
でも、それ以上の言葉はかけられなかった。その姿はあまりに酷く、助け起こすことすら躊躇われてしまった。一緒に眠った時と変わらない、白いパジャマの前は全てはだけていた。そして、その肌の色がわからなくなるくらいに、全身にアザが広がっていた。
「どうしたの、それ」
こんなもの、さっきまで無かった。それなのに、まるでそういう模様のように一面に広がっている。そして、下半身には何も身につけられていなかった。さっきの男の悍ましい笑顔を思い出し、背筋が凍った。
「記念日にしたって……そういうこと?」
その事に呆然としながらも、先輩の体調が心配で状態を確認する事に集中した。それは、とても辛い作業だった。
上半身と同じように夥しい量のアザが広がっていて、靴を履いたまま蹴られたのだろうとわかるような痕がいくつかあった。よく見ると、タバコが押し付けられたような痕もある。でも、それはかなり古かった。
「ねえ、靴履いたまま蹴られたの?」
猿轡を解きながら問いかけると、先輩は涙を流した。唇を引き結んだまま何度か頷いてくれたけれど、とても辛そうな顔をしている。自分が教授に蹂躙されていたことなど、私にはそれを知られたく無かったんだろう。そう思うと、胸がずきりと痛んだ。
「千夜ぁ、殺して……。お願い、僕のこと殺してよ。研究も奪われて、今は私生活すら自由にさせてもらえない。あの人おかしいんだ。僕に恋人がいるって知ったらしくて、それからずっと……」
一哉先輩はそれから疲れて眠るまで、ずっと殺してほしいと言い続けていた。その話ぶりから察するに、男が言っていた生贄というのは先輩のことなのだろう。それが分かったとしても、十八歳になったばかりの私には、その苦しみを拭ってあげられるだけの力が無かった。ただその嘆きを聞きいてあげる事しか出来ない。
「千夜、君だけを愛してる。忘れないで」
そういって眠りに落ちたあと、二度と元の先輩に戻る事はなかった。
◆
扉が開かれると、気を失った才見の体が倒れ込んできた。八木はその体を右足で支える。直接床へと落ちる衝撃を少し和らげると、ゆっくりと倒れ込むように調整して足を抜いた。そして、才見の向こうに立っている人物の腕を掴み、部屋の中へと引き入れた。
「きゃあーっ!」
外に立っていた人物は、勢いよく引き入れられた事でバランスを崩した。前のめりに倒れこむ。八木は後ろから腕をとり、関節を固めた。そして、その人物の上に馬乗りになって動きを完全に封じた。
「痛いっ!」
腕を決められて悲鳴を上げたのは、ヒールにスカートという装いの女性だった。タバコの香りのするフードを被ったその人物は、苦しげに頭を振っている。その衝撃で、中から長い髪が垂れてきた。光彰がそれに気がつき、フードを押し上げてその顔を確認する。
「お前……」
千夜は光彰の隣に並ぶと、その顔にかかる髪を手でかき上げた。そして、彼女が隠し持っていたスタンガンを奪うと、それを床に投げつて壊し、吐き捨てた。
「やっぱりあんたなのね、戸田先生……」
そこにあったのは、才見を壊した男である清水田大学の教授である戸田純夫の妻、高等部の音楽教師である戸田明美の姿だった。
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