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第38話 別れへ_扉が開く時

 その音は、間違いなく光彰の耳元に聞こえる呼び出し音に呼応していた。それはつまり、このドアの向こう側に売人がいるとみて間違いないということだろう。四人は、売人と彼らを隔てているドアを凝視したまま、どうすべきかを決めかねてしまい、動けなくなっていた。 「なあ、ど、どうする? 多分相手は一人だよな。歩いてくる足音とか全然聞こえなかったし、大人数ってことは無いだろう。それならこっちの方が人数多いし、このまま引き入れて警察に突き出すか?」  無言に耐えかねた葉咲は、そう言って震える指先でドアを差している。そうして光彰へと指示を仰いだ。どうしてそうしたのかは、彼にもよくわからない。ただ、この息が詰まるような状況においても、光彰にはどこかしら余裕があるように見えていた。  葉咲は、光彰のその様子を見た瞬間に、自分が彼に抱く思いが変わっていくのを感じた。この場合、自分は光彰に従うべきだという考えが生まれ、少しの躊躇いもなくそうすることを選んだのだ。そうすることに、少しの迷いもなかった。 「どう思う?」  それに、今は仲間内で揉めているような場合では無い。平時は敵対心を持ったとしても、有事にそれをするほど彼らも子どもではなかった。生き残るためには、瞬時に敵から仲間へと立場を変えることが出来るくらいには、強かになりつつある。 「確かに相手は一人だろうな。そして、ここまで騒ぎを起こさずに入って来れたことを考えると、学校関係者であることは間違いない。ただ、相手がもしジャンキーだったら、どうするんだ? そんな奴とまともにやり合うのは危険だ。だから、相手を確かめてからにした方がいい」 「あっ、そうか。もし『キングの怒り』意外にも何か使ってたら……」 「そうだ。それこそバッドトリップに巻き込まれでもしたら大変だぞ。それに、凶器を持ってたらどうする。相手が突っ込んで来るようなら分かるが、あまり短絡的に動こうとするな」  緊迫した状況の中であっても、まるで子供を嗜める親のように冷静な光彰に、葉咲は「……はい」と素直に答えた。その返事に、光彰は思わず「素直でよろしい」と笑みを溢す。葉咲もそれに笑顔を返した。 「なあ、光彰。さっきの話の流れからすると、売人は才見ってことになるよな。つまり、そこにいるのも才見、ってことでいいんだよな?」  八木がこっそりと葉咲に聞こえないように小さく聞く。光彰はそれに対して「なぜそう思うんだ?」と問い返した。 「メスカリンの材料になるサボテン、ペヨーテが才見の花壇にあったんだ。さっき、柳野と二人でそこの草刈りをさせられたから間違いない。あのサボテン、観賞用として育てるだけなら法には触れないから、学校も何も言わなかったんだろう。ただ、『キングの怒り』の成分はまだわかってないから、それがメスカリンだと断定されれば……」 「ペヨーテが花壇にあったんだな?」  八木の言葉に食い気味にそう返して、光彰は彼の肩を思い切り掴んだ。その顔には、見たことも無いくらいに余裕の無い表情が浮かんでいる。 「……そうだ。でも、才見だと決めつけるには早いかなとも思うんだよ。材料があったとしても、あのシロップを作ってる証拠はまだつかめて無い。まだ柳野の血液分析も終わってないだろう?」  八木は僅かに狼狽えた。八木にはまだ証拠が不十分であるように思えるのに、光彰がやたらと答えを急いている気がしたからだ。緊迫した状況下にあっても、光彰が慌てる様を見たことがないというのが専らの評判で、辰之助からもそう聞いていた。八木自身も彼にはそういう印象を抱いている。それなのに、今の光彰は結論を急いでいる。それも、確たる証拠があるような素振りをしていた。 「何か他に知ってることがあるのか? そうでないと、お前にしては性急すぎる気がするんだ」  そう問われた彼は、黎の化粧水スプレーを取り出した。 「これを見ろ。これは才見が黎に使わせていた化粧水だ。スプレーして使うから、毎日何度か吸い込んでいたらしい。そして、この化粧水の材料はサボテンだと才見自身に言われたそうだ。つまり、これもメスカリンの可能性が高いんだ。そしてこれを見ろ」  光彰が「千夜、見せてやってくれ」というと、(千夜)は八木にあの小さな傷跡が密集しているものを見せた。 「これ……、もしかして針で刺された痕か?」 「おそらくそうだろう。注射なんてどうやってたのかは分からないが、ここに打ち続けていたんだ。一度に打つ量がわずかなものであっても、半減期を待たずに打ち続ければ蓄積するのかも知れない。黎はさっきその影響を受けたみたいで、少し暴れたんだ。だから、今はあいつを眠らせて千夜を出してる」  八木は、(千夜)の首筋に密集している青みがかった小さな点を見つめた。それは、髪が邪魔をして見えづらい場所ばかりを選んで打たれている。全てがホクロのある場所に近いため、その痕もそうなのかと思われそうな位置が選ばれている。 「……こんなに周到にクスリ漬けにするなんて、どういうつもりなんだ。それに……、いつだ? 俺はずっと柳野を見張ってたし、お前もそうだろう? それに、なんでこいつを狙うんだ。あいつ、毎日彼を抱きしめて励ましてたんだぞ。溺愛してるようにしか見えなかった。それなのに……」 「俺にもそれはまだ分からない」  才見が黎を狙う理由は、まだ何もわかっていない。そして、彼が生徒に「キングの怒り」を与え続けるのはなぜなのか。あの爽やかな笑顔の下に、何を抱えてこんなことをしているのだろうか。それは全く見えて来なかった。 「なあ、千夜さんは才見と接してて何か感じることはあった? それと、メスカリンという言葉は記憶の中にはない?」 「……ごめん、分からない。でも、才見先生が黎を見る目は、好きな人を見る目よね。それは間違いないと思う。私は黎の中にいるから、彼が黎を見つめれば、私も見つめられることになる。だから、そこに込められた想いはよくわかるわ」 「才見が柳野を好きってこと……?」  八木は(千夜)に関する報告を思い返していた。亡くなった時(正確には生きている)の彼女の体には、メスカリンが付着していた。それは、液状のものと粉状のものの二つの状態で記録されている。その容器であるカプセルは、彼女自身が留置するには難しいであろう場所で見つかっていた。  それはつまり、彼女の体に『キングの怒り』を仕込むことが出来る人物がいたのではないかという疑いを持たせた。それも、その場所を(千夜)がその人物に許していたのであれば、それはおそらく恋人だった可能性が高い。 「……光彰。才見先生って、名前は何ていうの?」 「名前? あー、なんだったかな。八木覚えてるか?」  光彰が面倒くさそうに話をふると、呆れたように八木は答えた。 「はあ? 普通覚えてるだろう? あいつの名前は一哉(かずや)だよ」  その名前が八木の口をついた時、ドアの向こう側から 「千夜」  とか細い声が聞こえて来た。ドアの向こう側であることを考えても、あまりに小さく弱々しい声だった。しかし、その中に強い意志があることも伝わってくる。 「いるんでしょ、千夜」  その声は、期待に震えていた。会いたくてたまらないという思いが、その声を発する体を突き破りそうになっていて、それを抑えるのに必死になって震えているようだ。 「ねえ、顔見せて。千夜だって僕に会いたいでしょ? お願いだから、ここを開けてよ」  それは間違いなく才見のものだった。彼は愛おしそうに千夜の名前を呼んでいる。相変わらず電話は鳴り続けたままだ。やはり売人は才見で間違いないのだろう。  しかし、彼にとってそれはもうどうでも良くなったのだろうか。ただひたすらにドアをノックしながら、甘えた声で千夜を呼んでいる。 「千夜、お前才見と知り合いなのか? 会いたいでしょって……もしかして、お前の恋人だった『先輩』って才見のことか?」  光彰の問いかけに、千夜は何も答えない。ただ、カタカタと体を震わせて、必死になって恐怖に飲まれまいとしていた。 「わか、ない。わかんない、の。でも、あのよる見たのは……」  千夜はドアを見つめたまま、熱に浮かされたようにブツブツとそう呟いている。気を失うほど、記憶を無くすほどに辛い思いをしていたはずの彼女は、よほどこの事件を終わらせたいのか、震える体を律して耐えようとしていた。 「千夜、千夜ぁー。開けてよぉー。ずっと探してたんだよ! やっと見つけたんだ。ねえ、お願い!」  才見はいつまでも開かないドアに痺れを切らしたのか、ドアを壊そうとするかのように体当たりをした。そして、突然何かをドアに叩きつけた。ガシャンというものが壊れる音がして、それと同時に外で鳴り響いていた呼び出し音が消える。光彰の手の中には、通話終了の文字が光っていた。 「一哉(かずや)先輩……」  千夜はドアをまっすぐに見据えていた。今向こう側から聞こえた声が、彼女の脳内にうっすらと最後の日の光景を蘇らせていく。 ——千夜、ワンピース着て来てね。  千夜がいつも着ている、目が覚めるようなレモンイエローのサマードレス。それをくれたのは、彼女が一哉(かずや)先輩と呼ぶ恋人と付き合い始めてすぐの誕生日。 「一哉。一哉……せんぱ、い」 ——ねえ、千夜。今日遅くなってもいい?  手術を受ける準備はしていたものの、まだその日は迎えられていなかった。そんな彼女の全てを受け入れてくれたのは、一哉(かずや)先輩が初めてだった。 「デートした。あの日、映画見に行ったの」 ——ずっと一緒にいようね、千夜。約束だよ。 「映画見てご飯食べて、先輩のウチにお泊まりして。幸せだったのよ。でも、夜中に目が覚めて……どうしてか時計塔で目が覚めた。そこで、見てしまったの」  千夜は扉に近づくと、それにそっと寄り添った。才見はそれを外から察知したらしく、突然騒ぐのをやめた。そして、また囁くように「千夜」と彼女を呼ぶ。その声は、喜びに震えていた。 「……何を見たんだ、千夜」  光彰がそう尋ねると、千夜は答えるのを躊躇った。一瞬生まれたその無音の中に、才見が短く悲鳴を上げる声が聞こえた。同時にガタンと何かがぶつかる音が聞こえる。 「……なんだ、今のは」  八木と光彰が、千夜の前に回るようにしてドアへと近づいた。危険が迫っているのであれば、彼女を先に立たせるわけにはいかない。 「光彰、先輩もしかしたら倒れたかも知れない! 今、ドンってぶつかって来たんだけど、なんか変だったの!」  千夜はそう言って才見を助けようと再びドアへ近づこうとした。しかし、光彰が彼女を抱きしめてそれを阻止する。 「バカ、倒れた理由が分からないのに、迂闊に開けようとするな! 俺たちが開けるから、お前は下がってろ」 「でも!」  千夜は珍しく声を張り上げ、下がらせようとする光彰に抵抗している。その千夜を制するようにして、八木がドアに手をかけた。そして、呆然となりゆきを見守っていた葉咲を手招きする。 「ほら、葉咲くん。こっち来て、キミがドアを開けてよ。大丈夫、才見が乗り込んできたら俺が相手をするから。君は開けるだけだから。ほら」 「ええっ、嫌だ。刺されたらどうするんだよ!」  それまで蚊帳の外にいたにも関わらず、突然巻き込まれ始めた葉咲は、必死になって抵抗しようとした。しかし、大柄で力の強い八木に敵うはずがない。彼はニコニコと笑いながら葉咲にドアノブを握らせると、その肩を優しく叩いて彼を励ました。 「大丈夫、中に入ってきたらすぐに制圧するから。俺は普段から鍛えてるから信用してくれていいよ。ほら、俺絡まれやすいでしょ?」  そう言って、太い腕を見せつけた。そして、ドアの前に立つと 「開けたらそのままドアの後ろに隠れててね」  と葉咲に言う。 「大丈夫か?」  光彰が八木の背に声をかけると、彼はサムアップしてそれに答えた。 「任せろ! 葉咲くん、いい? カウントダウンしまーす。さーん、にー、いーち……」  張り詰めた空気の中で、やや間の抜けた八木の声が響く。その声が「ゼロ」と叫んだ瞬間、葉咲は「えーい!」と叫んで勢い良くドアを開けた。

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