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第44話 別れへ_さようなら1

◆  才見の事件は大きく報道された。一人の教師が禁止薬物に手を染めた挙句、何人もの生徒を死なせたということで、ついに学校の責任を問う声が上がり始めた。そして、才見が手にしていたナイフが戸田純夫(すみお)のものであったことから、戸田もその妻も事情聴取を受けることになった。そのタイミングで才見と戸田教授の関係性がSNSで拡散され、いつの間にか戸田夫婦が矢面に立たされるようになり、才見は凶悪な犯罪者という評価から一転して、一途な恋心を抱いた不幸な青年として扱われるようになっていった。 「才見は戸田との出会いが不幸の始まりだったんだろうな。死んでやっと戸田から解放されたんだったら、ようやく穏やかな時を迎えられるってことか。本当に好きな人と結ばれて……。あー、いや、でもなあ。本当にやりきれないな。もっと早い段階でどうにか出来なかったのかよ。怒りの持って行きようがねえわ」  八木はそう言って勢いよくタバコの煙を吐き出した。その煙は、最上邸の光彰の部屋の窓辺で、小さな雲のように固まっている。ブルーグレーの空の下にうっすらと散って消えていく煙は、それだけで物悲しく見えた。 「お前なあ、人の部屋で勝手にタバコ吸うなよ。俺は許可した覚えはないぞ。吸うならテラスに出ろ」  光彰は気だるげにそういうと、手に持った灰皿をヒラヒラと振りながら、テラスへ出る掃き出し窓を開けた。そこには、二階部分とは思えないほどに広々としたテラスがある。彼は先にそちらへと歩いていくと、広いベンチの一つに優雅な所作で腰掛けた。目の前にあるテーブルに手に持っていたものを置くと、薄い金属製のそれはカランと軽い音を立てる。その響きは、次第に黒へと近づいていく空の中へと吸い込まれるように消えていった。 「成人さま、吸うならここで吸えよ。……その方が気が滅入らないだろ」  光彰はそういうと、目の前のデッキチェアを指差した。 「はいはい。仰せのままに、ご主人様」  八木はそう言って光彰を揶揄いながらも、言われた通りに彼の向かいに座った。再びゆっくりとタバコを燻らせて煙を吐き出すと、その煙の向かう先を眺めながら、 「成人ね。大してめでたくもないし、あいつの成人した日のことを考えるとなあ。成人した途端に信頼してた先生に売られるとか、信じらんねえ。それを三年も隠してたんだもんな。誰にも言えない苦しさってのは、すげえもんなんだな。あんな風に人を壊すなんて、恐ろしいよ」  と悲しげに呟いた。  光彰は王様然とした態度でゆったりとベンチに座り直すと、 「そうだな。でも、だからと言って、人を殺すことを生き甲斐にするのはダメだろう。そうなると、やってることは戸田と同じか、それ以上の悪手だ。才見はそれに気がつくべきだったんだ」  と言い放った。  その言葉は冷徹なようでいて、その奥に才見への憐憫が含まれている。彼なりの最大の気遣いのようだ。八木もそれを感じ取ったようで、 「まあ、そうだな。それに、そうでも言わないとやってられねえよ」  と言い、また無言で煙を吐き続けた。二人が、やりきれない思いをどうしたら良いものだろうかと思いあぐねているところへ、部屋のドアをコツコツと叩く音が響いた。 「どうぞ」  テラスから光彰が大きな声で応えると、黎がひょっこりと顔を表した。 「うーす、コーヒー持ってきたぞー」  黎は真剣な面持ちで、コーヒー四つとクッキーを載せたトレイを持ち、心許ない足取りで二人の方へと近づいて来た。マグカップに並々と注がれたそれを持って歩いている姿は、仕事をしっかりやろうとして必死だ。光彰はそんな黎の姿を見てふわりと微笑むと、すぐにベンチから立ち上がった。そして、足元を見る余裕もない黎の手から、すっとトレーを受け取る。 「お前こういうの苦手だろう? 代わるよ、千夜」  くすくすと楽しそうに笑いながらトレーを運ぶと、カップとクッキーをおろしていった。 「え、ちょっと。なんでわかったの? せっかく黎っぽく振る舞ったのに!」  無邪気な顔で驚く千夜に、光彰は指で早く隣に座るようにと伝える。千夜は大人しくそれに従うと、ちょこんとベンチに腰掛けた。八木はやや逃げ腰になりながらも、二人のその様子をまじまじと見つめる。ややパニックに陥ったのか、頭を抱えて呻き始めた。 「あーもう、これも本当に意味がわかんねえ。でもどう見ても千夜さんだもんなあ。柳野にしか見えないけど、千夜さんなんだもんなあ。今、この中身が千夜さんって事だろう? こえーよ、お化けと話すなんて……。俺絶対今日眠れねー」  八木は実は幽霊が苦手なのだという。八木の叔父が依頼を受けた後に、八木本人が辰之助に「お化けだけは勘弁してほしい」と泣きついて来たことがあったそうだ。最上と組む以上はそれは無理な話だと言われると、渋々了承したらしい。 「ちょっとー、失礼ね。私だって、穏やかに成仏してやろうと思ったのに、急に呼び出されたから来ただけよ。用が済んだらさっさと先輩と逝かせてもらいますから、ご心配なく!」  そう言って八木を小突くと、花が咲いたように笑った。小さく肩を揺らしている。どうやら彼女は、ゆっくりと三人で話が出来るという状況を、心から楽しんでいるようだ。 「そうだぞ、八木。千夜ももう体は荼毘に付されたから、ここに長くは止まれない。楔の効力は、持って二時間だ。その間に、これからのことを考えないといけない」  光彰はそういうと、スマートフォンのタイマーをセットした。これからの話というのは、才見に最上家の使役下に入らせるための準備の話だ。 「あ、そうだった。先輩が最上に協力すれば、贖罪になるんだよね? そのために、過去の話を全部知っておかないといけないんでしょう? この数週間で私が思い出したことと、調べたこと、おじさまが知っていた情報をまとめたから、聞いて」  そう言って、戸田と才見の過去の話を始めた。 ◆  才見は小さな頃からファンタジックなものが好きな少年だった。カラフルな世界と科学が大好きで、特にキラキラと輝くものに目が無かった。高校在学中に教頭で科学教師だった恵那に勧められ、学内推薦で大学へ行った。そこにいた戸田の輝かしい実績を恵那から繰り返し聞かされていたことで、光工学の研究へ携わりたいという思いを深めていた。言うなれば、恵那に誘導されて戸田と出会ったようなものだ。  二人が互いを認識したのは、才見が戸田の授業を熱心に聞いていたことがきっかけとなっていた。まだ二年生であったにも関わらず、戸田に連れられて学会に出向いたり、自宅へ招かれたりするようになっていた。自らが深く興味を示しているものを学ばせてくれる戸田に、才見は完全に心を許してしまっていた。それがそのうちに、戸田がお互いに想い合っていると勘違いしてしまった原因となる。のちの悲劇の始まりだった。  戸田はこの時既に結婚して家庭を持っており、幼児の子供が二人いた。愛妻家で子煩悩な父としても知られていて、そんな人が自分を襲ったりするなど、才見は考えもしなかったらしい。 「戸田は可愛い男の子が大好きだったらしくて、いつも身近にそういうタイプの子を侍らせてたらしいの。一哉先輩はまさにそんなタイプでしょう? だから、みんな『食われるんだろうな』って思ってたんだって。しかも、周りは先輩がそれを望んでいるんだろうと思ってた。だから、誰も先輩にその危険性を忠告してくれなかった。それに、先輩は戸田を本当に尊敬してたから、あいつがそんなことをする人だなんて思いもしなかったみたいなのよね。でも戸田はその敬愛を恋情と勘違いした。そして、一人で勝手に恋心を募らせていって、劣情を抱いていくの。その思いに苦しんでいた時に、偶然先輩が私と付き合い始めたと知ったみたいなのよ。それから先輩を支配するようになったみたい」  才見としては、なぜ自分が教授の逆鱗に触れたのかがわからず、狼狽えることしか出来なかった。何度も千夜と別れるようにと口を挟んでくる彼に、次第に恐怖を抱き始めた。 「そして戸田は権力を振り翳した。研究を続けたければ、私を捨てろと言った。それまでそういうことをされなかった先輩は、思わず戸田を罵ってしまったの。それで……」  激怒した戸田は、才見に性暴力を働く。そして、一度振り切れたリミッターは戻ることが出来なくなってしまった。才見はそこから地獄の日々を過ごすことになる。凶暴な愛で叩きのめされた自尊心は、日を追うごとに砕けていき、無惨に散っていった。日々続いた屈辱に、才見の精神は早々に破綻してしまう。 「私と遊びに行こうとする度に捕まって、苦痛から逃げるために正常な判断能力を無くしてしまった。それでもどこかに残っていた『ちゃんとした人のふりをしないといけない』っていう思いは捨てられなくて、それがまた大きなストレスになってしまってたみたい。その頃から、命を奪う行動を生き甲斐にするようになっていってしまったの」  野良猫や野良犬を殺しては笑っている才見の姿を、最初に見つけたのは恵那だった。恵那は学内で最上の次に権力を持つ戸田に取り入るため、才見を監視していた。彼が禁止薬物に手を染め、飛び降りをさせては喜んでいるという報告書を早い段階で受け取っており、被害を最小限にとどめることが出来たかもしれない唯一の人物だった。  しかし、恵那は自分の利益のためにそれを隠した。辰之助はこの頃既に話だけは聞いていたが、証拠が掴めておらず、手が打てなかったらしい。しかも、才見が職員として採用された際に、彼が千夜の恋人だった「一哉先輩」だということに気がつけなかった。彼は、そのことを今でも悔やんでいる。  八木は千夜の話を聞きながら、胃を抑えていた。腹黒い人間たちに利用された才見を思ってなのか、その才見に殺された家族を思ってなのかは分からないが、真っ青で苦しそうな表情をしており、その目には涙を浮かべていた。 「大丈夫か、八木」 「大丈夫、ではないな……。俺なあ、姉さんの遺体を確認したんだよ。転落死した姿なんて、大体想像がつくだろう? 飛び散った血や肉片を見ただけでも恐ろしいのに、それが足りない遺体と対面した時のことを思い出すとなあ……。飛び降りをさせて喜んでるなんて、信じられねえよ。吐き気がする。それなのに、姉さんにそうさせたあいつのことも憐れに思うんだぜ……。もっとスッキリ恨めたら楽なんだけどな」  八木は苦悶の表情を浮かべていた。千夜はそんな八木の優しさに胸を打たれた。苦しそうにしている肩に手を添えて、宥めるように摩る。 「八木くん、先輩への優しい気持ちをありがとう。でも、光彰のそばにいたら、そういう人はたくさん現れると思うわ。少しは冷たく突き放すことも覚えていいんだからね」  千夜もそう言ってはいるものの、苦しそうに眉根を寄せていた。そして、隣に座る光彰の手をそっと握った。 「あんたが守るのよ、光彰。八木探偵事務所は、これまでずっと最上の総領と依代(よりしろ)を陰で支えてくれてるの。あんたたちは、これからも仕事上での付き合いが続くのよ。お互いに支え合っていかないといけないんだからね」 「じゃあ、お化けが怖いとか言ってられないな、八木」  光彰は八木を揶揄うようにそう言った。 「またそんなこと言って! 黎のことも頼んだわよ、光彰。依代の体にかかる負担は、とても大きいんだから。黎は一般的な寿命よりも短い年数しか生きられない。そして、あの子はまだそれを知らない。ちゃんと話して、これからもそばにいてあげてよ」  千夜はそういうと、借りている黎の体を両手でギュッと抱きしめた。 「もう私が黎を抱きしめてあげることは出来ない。その分を、あんたに託すね」  寂しそうにそう言う彼女の頭に、光彰はポンと大きな手を乗せた。そして、その髪をさらさらと手で梳いていく。手に馴染んだその感覚と千夜の魂が同一に感じられるのは、これが最後だ。そうと思うと、さすがの光彰でも寂しさを感じずにはいられなかった。 「心配するな。俺はずっと黎のそばにいる」  それでも千夜に心配をかけまいとして、どうにかその気持ちを心の奥へと押し込めた。もう日は暮れてしまい、部屋の明かりだけが手元を照らしている。濃藍に染まった空の中に白く輝く星々を見ながら、 「あんたがいればなんとかなるわよね」  と笑った千夜の目には、小さな光がいくつも煌めいていた。

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