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第43話 別れへ_総領からの命令3
「あんたね……、夫婦揃って本当に身勝手すぎるわよ! 戸田が怖いなら、シェルターなり何なり逃げる場所なんていくらでもあるでしょう? あんたがそれをしないのは、今の生活レベルを落としたくないからでしょう! 自分を守るためなら、人は苦しんでも殺してもいいと思ってるの? 田岡くんまで見捨てて……。あんた、彼を愛してたんじゃないの? 戸田との生活で疲れてたところを、彼が癒してくれてたんでしょう? でも結局お金が無くなるのが嫌で、戸田の商売に彼を引き摺り込んで……。高校生を誑かして絶望させて、挙句にクスリに溺れさせてるのよ。それなのに自分には責任がないって、それ、本気で思ってんの?」
黎 は戸田の責任逃れに激昂し、彼女の襟首を掴んだ。黎 は性別不合で生まれて来たことで、祖父が柳野から勘当している。それが影響して、大人が子供をぞんざいに扱うことに大きな嫌悪感を抱いてしまうようになっていた。その拒否反応は、理性で抑えるのが困難に感じられるほどに強い。
その怒りが戸田への暴力となって現れてしまっていた。魂が女性であっても、今の肉体は高校生男子だ。千夜自身が自覚しているよりももっと強い力で戸田は首を絞められてしまい、その衝撃に目を回した。
「ちょっと、くる、しい……」
「ち、千夜さん。落ち着いて。手を離してくれ」
八木が千夜を止めようとして間に入る。二人の間に入り慌てているその向こうで、背を向けたままの才見が、肩で息をしているのが光彰の目に入った。
「おい、八木。千夜と戸田を奥へ連れていけ。才見の様子がおかしい」
黎 はまだ戸田の襟を掴んだままで、彼女を引きずりながら睨みつけていた。
「離してよ!」
八木が力任せに黎 を引き離そうとすれば、出来ないわけではない。ただ、男性同士が力でぶつかり合うとなれば、どちらかがケガをする可能性もある。彼としては、その前に黎 を落ち着かせたかった。
「おい、八木!」
しかし、そこでもたついたのが悪手となった。光彰が八木へかけた言葉は、彼の耳には届いていなかったのだ。才見は次第にその身のうちに秘めていた凶暴性を明らかにしていく。戸田の身勝手な言葉は、千夜だけでなく才見の神経をも逆撫でしてしまっていた。
「千夜の言う通りだよね。戸田教授の変な性癖や学内での地位確立のためにやっている事が、もっと早く明らかになっていれば……。僕はこんなことをせずに済んだ。あんたが自分の配偶者の管理から逃げて、別の男に逃げてばっかりいたから……」
俯いたままの暗い瞳の中に、ぎらりと嫌な光が宿る。緊張したまま才見を見張っていた光彰の目に、何か別の光が写った。
「僕が僕の望む結末を迎えられないなら、せめてあんた達は消させてよ。それくらい、いいだろう?」
そう言った彼の手には、アーミーナイフが握られていた。
——……まずい!
光彰が反応した速度と、彼がそれを開いたタイミングはほぼ同時だった。その手が戸田めがけて振り上げられた時、光彰は才見の腹目がけて前蹴りを放った。
「う、んぐっ……!」
暴力沙汰など慣れていない才見には、腹部への蹴りは大ダメージとなった。そのままドアの前まで飛ばされ、ごろごろとのたうち回っている。手に持っていたナイフは、ドア付近にいた葉咲の目の前で、乾いた音を立てて回転していた。
「葉咲! それ拾え!」
「わ、わかった!」
葉咲は刃が出たままのナイフへと手を伸ばした。普段そんなものを扱うことの無い者にとって、それは手を出すには構えてしまうシロモノだったのだろう。握ることを躊躇っていると、嘔吐したものを垂れ流したままの才見が、あっと言う間に彼のそばまで迫って来ていた。
「うわっ!」
思わず怯んでしまう。その隙に横からナイフを奪われてしまった。
「……邪魔するなら、みんな死ね!」
そう叫んだ才見は、掴んだナイフで葉咲の腕を切り付けた。白いシャツが切り裂かれ、腕を掠めた刃先から真っ赤な血が飛び散っていく。
「うわああああ!」
切り付けられた腕を庇い、葉咲はへたり込んでしまった。才見はその上に馬乗りになり、手近な獲物から仕留めてやろうとその刃物を振り上げる。そして、その顔に浮かんだ表情を見て、黎 はあることを決意した。
「光彰、命令して」
それは、ついさっき光彰が千夜へ尋ねたことへの答えだった。才見をどうしたいのかという決定を千夜に任せるという、主人から部下への慈悲。黎 は今、才見が笑いながら葉咲を刺し殺そうとしているのを見て、その答えを出した。
「光彰!」
光彰は、彼女が求めていることを理解していた。このまま才見を警察へ引き渡せば、おそらく彼は死刑になる。だから光彰は黎 に才見をどうしたいかと尋ねたのだ。警察に引き渡さないのであれば、残った答えは一つ。彼女が才見の命を奪うことだった。
「……いいんだな? 俺が命令すれば、お前の私怨や魂の罪にはならない。ただ、恋人の命を終わらせたと言う自責の念は拭えないぞ」
光彰は黎 の顔を見た。悲しげに眉根を寄せてはいるものの、ほんの少しだけ安堵しているようにも見える。最初に命を落としたこと、そのことを思い出せなかったことでたくさんの人に迷惑をかけたこと、そして、自分がそれに向き合えなかったせいで巻き込まれて亡くなってしまった生徒達への想い。それからの解放を願っているように見えた。
「それが先輩本人の望みでもあるし、最初の約束でもあった。私が先輩に貰ったもののことを考えると、返してあげられることはしてあげたい。早く迎えに来てあげていたら、こんな風に殺人鬼になることもなかったかもしれないでしょう?」
そう言って笑った。八木が才見を捕え、ナイフは葉咲が必死に遠くへと蹴飛ばした。なす術の無くなった才見のもとへ、黎 がゆっくりと近づいていく。
「千夜、やっと僕の願いを聞いてくれる気になったの?」
捕えられているにも関わらず、才見は嬉しそうに黎 へと問いかけた。その姿を見て、彼女も同じように微笑んでいる。
「うん。先輩、一緒に逝こう。待たせてごめんなさい」
そう言って、そっと彼の左胸に手を当てた。光彰はそれを確認すると、大きな決断の前にごくりと喉を鳴らした。彼にとってもまた、これは大きな出来事になる。心を落ち着かせるために深く息を吸うと、それを吐き出すと同時に千夜へ最後の命令を下した。
「……殺れ」
黎 はそれに微笑みながら頷くと、才見の胸に当てた手をグッと押した。才見はびくりと体を大きく跳ねさせる。そして、引き攣った笑いを浮かべたまま、しっかりと千夜の目を見つめ、「ありがとう」と言って旅立った。そして、そのままゆっくりと頽れていく。
魂が消えた肉体は制御を失い、ずるりと八木の手から滑り落ちた。千夜は無言のままその体を引き寄せると、その腕の中で才見が熱を失うまで抱きしめ続けていた。
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