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第1話 少年と吸血鬼 ①
トタンに小石が落ちるような振動が断続的に、徐々に大きくなっていく。ハッと顔を上げれば開いた壁の穴から銀の糸が数本。天から落ちては地面にぶつかり、瓦礫に黒いシミを点々と作っていく。
あまりに自然な音で気づくのが遅れた。
「いかんいかん」
作業の手を止め、郵便受けじみた覗き窓をパカッと開ける。顔を近づけて執拗に周囲を確認してから軽羅(かるら)は外に出る。
十七くらいの少年で、肩につきそうなレモン色の髪に黒い瞳。力強さすら感じる面相を手助けするきりっとした眉。どこかの良家のお坊ちゃんと言われても違和感のない容姿だが、身に着けているのは縫い目が雑な、何種類かのゴミ袋やシーツをキメラにした服。
軽羅は長持ちさせるために日光で乾燥させていた肉を、手早く回収していく。
「俺予報では今日一日は曇りの予想だったが……まあ、外れることもあるな‼」
一人で虚空に向かってバチーンとウインクをしていると、ザルが干し肉でいっぱいになった。その間も雨は勢力を増し、レモンの髪を濡らしていく。
「昨日のタオルがまだ乾いてないというのに」
一人で楽しそうにザルを抱え、あまり濡れる前に拠点に戻ろうとする。
そんな軽羅のすぐ近くで、蠢く影があった。
「グルルルル……」
雨粒の演奏の隙間に、獣の唸り声。ドアノブを握ろうとした手が震える。軽羅はそのままの体勢で、呼吸すら止めて耳に神経を集中させた。
「ウウゥ、グルルル」
やはり聞こえる。唸り声と、散らばったガラス破片や建物の残骸を踏む、素足の音。
緊張で腹の辺りが痛みを発する。
(奴らはここには入って来られないはず……)
考えられるとすれば、バリケードが壊れたのだろうか。近辺には気性の荒い個体や、やけに賢い個体がいないからと油断していたかもしれない。
絶対に音を立てないように気をつけながら、首だけを動かす。網目のように折り重なった街灯や建物の隙間から、二本のどす黒い足が見えた。明らかに生きている生物の肌の色ではない。何日も放置された死体のそれ。だが爪だけは伸びた奇妙なもの。
瞼を閉ざし感覚を研ぎ澄ますが、気配は一つ。距離はすぐそこ。五~六メートルといったところか。この距離ならば。
(ふむ。一体だけか。それなら俺でも何とかなるっ!)
カッと目を見開き、両手を開いてザルを手放す。地面に落ちたそれは音を立てると、どす黒い足の持ち主を呼び寄せた。足音はタッタッ……ダダダダダッと獲物を見つけた肉食獣の加速を披露する。
「ははっ!」
犬歯を剥き出しにして笑うと、軽羅も同じように走りだす。
だが、相手の方が少しだけ速かった。
「グルアアアアァッ‼」
よだれをまき散らせ、四つん這いの獣のような走り。上半身のほとんどが腐り落ちたその『動く肉』は、――誰が見てもゾンビだった。
我ながら安直な名付けセンスだとは思う。それだけ、映画やゲームで見慣れた風貌。
ふらふら彷徨っているイメージが強いが、ゾンビは足が速く、ひび割れたコンクリートの壁を粉砕して飛びかかってきた。
軽羅はまだ三歩しか進んでないというのに。
だが少年は強気に笑ってみせる。
「よく来た!」
眼球や耳も腐って機能していないはず。なのに、奴らは光ではなく音に反応する性質がある。わざと声を出してやれば彼らははっきりと軽羅の位置を認識し、ブレることなく真っすぐに進む。
それでいい、と内心ほくそ笑んだ。
「はっ!」
助走をつけてジャンプする。伸ばした手の先にはワイヤーに吊り下げられたフック。それは重みを感じると、ギュリリッとワイヤーが巻き取られ、フックに捕まった軽羅ごと上空に持ち上げた。
――チリッ。
間一髪。
ゾンビの伸ばした爪を、靴の踵部分が掠める。
「ウウゥゥ……、アッ?」
爪が空ぶったゾンビが情けない声を出す。勢いよく飛び掛かったのに目的を見失ったゾンビは、ポーンと空中に投げ出されていた。
足元にあるはずの地面が、無い。
「―――」
翼を持たない動く肉はなんの抵抗も出来ずに、重力に従い落下していく。それは幅二十メートル深さ奈落。大地の裂け目。世界の異変と共にあちこちに現れた、どこまでも続く文字通りの地獄の入り口。
鳴き声が無くなり、裂け目から吹きあがってくる生温い風が前髪をめくる。
「……はぁ」
キィ、キィと揺れるフックにぶら下がったまま、軽羅は地獄の裂け目に冷めた目を落とす。
世界に、「死ら雪(しらゆき)」が降りそそいだあの日から、何年経っただろうか。地上は荒廃の一途を辿った。
パソコンがあり、クーラーが夏を冷やす快適な部屋。友と過ごす学校。会社。図書館。東京ドーム。「死ら雪」は日常を踏み潰した。
世界中に降り注ぐ白い雪。
事の始まりはいつだったか。
最初の感染者は、イギリスの田舎町で見つかった。
当時は正体も分からず、人々はただの季節外れの雪だと騒いだ程度だった。気象庁は原因究明に走り、大人はスマホで動画を取り、子どもは楽しげに外を走り回る。
――人類を蝕む、美しい病原菌だと気づかずに。
月日の流れと共に人々が雪に飽き、気にしなくなった。ある日突然。人々の中に髪の色が変化する者が現れた。
レモン色や鈍い金に変化し、元々金髪だったものは黒に染まっていく。
後から分類分けされたのだが、髪色だけの変化だったものを「軽度感染者」とし、――世界は滅んだ。爆発的なまでに増殖した「重度感染者」によって。
それが先ほどの「動く肉」。ゾンビだ。自我も知性もなく、凶暴で、頭を潰さない限り動き続ける。
季節外れの雪が、人類をゾンビ化させる病原菌だと気づいたのもその頃だ。が、すべてが遅かった。ほぼ全人類が触れた「死ら雪」。新鮮な肉を求めて襲い掛かってくるゾンビに、人類は戦争を余儀なくされた。
敗北。
人類は勝てなかったのだ。不死身の軍団に。押し寄せてくるゾンビの雪崩に。津波に。飲み込まれた。
「よっ」
ワイヤーをよじ登り、クレーンの上を慎重に進んで崩れかけのビルに飛び移る。割れた窓から内部に転がり込んだ。
割れたガラスに映った自分の姿。軽羅はフッと笑う。もう、髪が黒かった自分の顔が思い出せない。「軽度感染者」でも、自我を失う者はいた。自分は幸運だったのか。それとも自我を失い、彷徨うだけの肉になった方が幸せだったのか。それはまだ分からない。
靴を脱いで確認する。一筋の線が斜めに刻まれていた。弱そうに見えて、ゾンビの爪は人体の肉など簡単に切り裂く。
「ゾンビは落とすに限るな」
靴に穴が空いていなかったことに安堵の息を吐く。靴は貴重品だ。
一階まで直通できる穴の開いた階段を下って外に出る。また使う機会があるかもしれないので、フックは下げておかねば。
「このクレーンもいつまで動いてくれるか」
重機の免許など持っていないため、青いボタンだけを押す。ガーッと、フックが先ほどの位置まで下がった。
これでさっきの作戦はまた使える。……ついでなら、上手くいく保証も欲しいところだが。
「ふんっ。贅沢言っても始まらんな」
邪魔くさそうに髪を払い、強気に笑う。
余韻に浸るように操縦席にもたれ、足を組む。透明なガラスに無数の雫が付着し、流れていく。
雨音が周囲を取り囲む。
空は曇天。霧がかる視界。大地の裂け目の向こうに広がる、ビル群だった物の影。
「……」
つまらなさそうに唇を尖らせ、何の恨みも無い雨雲を睨む。
聞こえてくる、自分に石を投げる者たちの罵声。
戦争時。ゾンビの仲間だと決めつけられ、自我のある「軽度感染者」まで大量に殺された。そんなことやってっから戦争に負けるんだよと思いつつ、仕方のない事なのかなと理解はしても、怖かった。周囲の人たちが、知人だった者までもがじろりと軽羅を睨み、殺そうと襲い掛かってくる。「軽度感染者」は人間と変わらない。再生能力も化け物じみた腕力も運動能力も、何も無い。
「おお、しまった! 干し肉」
ほんの数年前の思い出に浸っていたが、ぱちんと目が覚める。
食料の存在を思い出し操縦席から飛び出す。
その時、完全に油断していた。ゾンビを一体倒したことで気が緩み、警戒を怠ったのだ。
「……ぁ」
喉から声が零れる。
瞬く間に服が濡れていく。
さっきのゾンビが砕いたコンクリートブロックを踏みつけて。雨の中、不自然なまでに細長い人影が立ちすくんでいた。
黒に染まった肌に、細長い手足。特に腕は指先が地面に届きそうなほど長く、風に吹かれてかすかに揺れている。衣服は一切身に着けておらず、頭部は口しか残っていなかった。
眼球は無いはずなのに、呆然としている軽羅と目が合った気がする。ニヤリと吊り上がる歯の並んだ口。
「重度感染者」の変異型。
「――ッ」
まずい。
拠点の壁に隠れようと動き出す。が、細長いそいつの速度は、先ほどのゾンビの比では無かった。
「キャーハッハァ」
子どものような無邪気な笑い声が、耳のすぐ近くで鳴り響く。耳周辺に、ぞわっと鳥肌が立った。
顔の向きを変えて視認しようとすると、剥き出しの歯茎。不自然のほど白い歯が軽羅の鼻先に迫る。
速すぎる、と舌打ちする暇もなかった。
「――はっ」
冷や汗を流しながらも、軽羅は笑っていた。呆れるほど平和だった日常を奪ったこいつらに、死ら雪に、変わってしまった自分に……ただ、負けたくなかったのだ。
子どもの頃から何事も一番じゃないと気が済まなかった。親が呆れるほど負けず嫌いだったのだ。
最期まで笑っていようと、心に決めた。
「っ!」
肩を掴まれるととんでもない力で押し倒される。
痛みで一瞬息が詰まった。目を開けると、もう片方の腕を振り上げている変異種の姿。
「アハハッ。キャアーハハハッ」
「はんっ! 腹を壊すだけだぞ」
ナイフを引き抜くが、恐らく何の意味も無いのだろう。変異種からすれば、人間の動きなどスローモーションに見えるはずだ。長い、長い腕を振り下ろす方がきっと速い。
それでも、目をつぶって蹲るのは性に合わないし、何より思いつきもしなかった。
ナイフを突き刺そうと腕を伸ばすが、長い腕が首をへし折ろうと振り下ろされる。
――ドッ。
変異種の首が千切れ、サッカーボールのように吹き飛んでいく。
「え」
あ然とする視界に映り込んだスニーカー。それに蹴られたのだと分かったのは、雨粒がまつ毛を叩いてからだ。速すぎて何も見えなかったが――軽羅は口角を吊り上げた。
「助かったぞ! 歳星(さいせい)」
「……声が大きいってば。お前がどこに居るのか、すぐに分かるよ」
頭のすぐ後ろで土を踏む音がする。
雨粒と共に見下ろしてくる。喧しそうに片耳に指を突っ込んでいる、同い年の少年。靴先でトントンと地面を叩き、ズレたスニーカーを調整していた。
歳星。純日本人らしく黒髪茶目ながら、ゾンビと同じ鋭い爪に再生能力のある肉体。背中には皮が貼りついたような大翼を生やし、「重度感染者」を上回る強さと自我を持った「超重度感染者」。
新鮮な肉ではなく血を求め、牙を伸ばすその姿から、軽羅は勝手に吸血鬼と名付けた。
平均以上ある軽羅より頭一つ高く、吸血鬼の名にふさわしい美形である。
歳星は指先で襟を摘むと、ひょいと仔猫のように持ち上げた。
「怪我は?」
「無い! 嘘。背中が痛いな!」
「ああそう」
軽羅を放すと、起き上がろうとしていた肉体を大地の裂け目に蹴り落とす。
回転しながら落ちていく首無しゾンビ。それを見送ることなく、軽羅は腕を頑張って背後に回し、痛めた肩甲骨を撫でる。
「入ってきやがった。バリケードが壊れたのかもしれん。見てこよう」
走って行きかけたレモン髪の肩を掴む。
「単独行動禁止」
イラついたように目元が痙攣しそうな歳星の顔を見て、軽羅は大笑いした。
「ハッ――ははッ! そうだな、悪い! なに、そう怒るな」
「っ……。だから。なんなの? 小さい声で話したら死ぬの?」
歯を食いしばり、うざそうに両耳を塞いでいる美形。ネズミの足音さえ聞き分けられるようになってしまった歳星からすれば、鼓膜的にも精神的にもきついだろう。
「俺といたら白髪になるのが早そうだな。歳星」
「分かってんなら自重してよ、バカ」
丸めた拳で、ぽこんと軽羅を殴る。
何が楽しいのかにやっと笑みを浮かべたまま、背面泥だらけ軽羅はバリケードを見に行く。
勤勉な性格の歳星は軽羅を追い越し、何もいないか確認してから広い道に出る。この先道が細くなる場所に、軽羅とバリケードを築いたのだ。
「うげ……」
素直な感想を漏らす軽羅の前で、歳星も顔をしかめていた。
何も考えず歩いてきたゾンビが突き刺さるように配置した杭の列。ゾンビが何十にも突き刺さり、なだらかな肉の坂になっていた。バリケードが完全に腐敗肉で埋まってしまっているのだ。
杭の盾がなくなったため、普通に入って来られるようになってしまっている。
「なんっじゃこりゃあ……。昨日見た時はこんな風になってなかったぞ」
ゾンビ一体二体が突き刺さっているくらいだった。
「重度感染者」のなかには、稀に知能らしきものを有する個体もいる。妙に頭が働くのだ。
「そいつがやったのか⁉」
「……どうだろう」
前に出そうになる軽羅を腕で制止する。
「さっきの長細いやつか?」
「そんな賢しい奴に見えなかったけど」
「では!」
「ちょっと黙って」
永遠に喋りそうな口の手のひらで塞ぐと、歳星は首を左右に動かした。わずかに尖った耳をぴくぴくと揺らす。
「……周囲に気配はない、な。今のうちにバリケードを作り直そうか」
「フゴフガ」
頷いた気がするので手を放す。
「よし‼ さっさとやってしまうぞ歳星。一度破壊してくれ!」
「ガムテープ落ちてないかな……」
うるさい口を塞ぎたい。
歳星は手ごろな石を拾うと、気安くぶん投げた。石は肉の塊に当たると大爆発を起こす。いや爆発はしていないのだが、爆発したかのように肉が粉々に吹き飛んだのだ。
べちゃ。ぼとっ。
血と腐った肉片。一瞬だけ、赤い雨が降る。吸血鬼はそれを頭から被り、軽羅は軒下に避難していたため赤に染まることはなかった。
「見事だ‼」
「うん……」
バシーンと歳星の肩を叩くと、さっそく駆け出していく。
組み立てるのは前回と全く同じバリケード。建物の破片を重ねて道を塞ぎ、バリケードに杭を真横に突き刺して棘の防壁を作る。
重い物は吸血鬼である歳星が担当。ひょいひょい運んでくれるのは有り難いが完成すると日が暮れ始めていた。
暗くて周囲が見えなくなり始める。闇に沈んでいく。街灯や電気のある生活を思い出しては便利だったなと、哀愁がチクリと胸を刺す。
「ひとまずこれでいいか! これも攻略されるようだったら別の策を考えるぞ」
「……うん」
腕を組んで偉そうにしている軽羅を横目で盗み見る。「軽度感染者」とはいえ普通の人間。けろっとしているということは、元から体力馬鹿なのだろう。吸血鬼に引かれる軽羅である。
「もう帰ろ……。雨降ってるの忘れてた。軽羅、びしょ濡れじゃん」
雫を垂らしているレモン髪を指で払い、耳にかけてやる。吸血鬼になってからというもの、風邪を引くことが無くなりうっかりしていた。人間は雨で体調を崩すのだ。
「そうだな‼ 戻るぞ歳星」
「はいはい」
ビシッと天を指差している軽羅に続いて歩く。スニーカーも服も水を吸って重くなっている。酷く不快。歩くたびに靴の中に溜まった水を踏む。
「ああ。しまった」
彼の声に顔を上げれば、軽羅がザルを抱え上げている。
「干し肉が……」
「あーあ」
歳星もザルの中を覗き込む。肉は雨水でふやけていた。
ーーー
拠点内。
広々とした建物ではない。辛うじて原形を保っていた建物を見つけ、住み着いただけの車庫。車庫の主のオートバイに、ソファーや工具が並べられた棚。育ちまくった観葉植物。泥だらけの絨毯。
車庫としては広いだけで、男子二人が生活するには狭い。手に入れた便利そうな道具や非常食も置いていくと、生活スペースは半分しかなくなる。
壁に穴は開いているが、屋根も柱も残っている。何もかも崩れた今、この車庫は豪邸の部類だった。
申し訳ないが、オートバイには外に出てもらっている。
「はあ。濡れた濡れた! 干し肉もな!」
「まだ、食べられるとは思うけどね」
濡れた服を脱ぎ散らかし、吊るしてある予備の服を手に取って着替えていく。洗濯機も無いため着ていた服は破棄するしかない。泥だらけになってしまったうえ、少し破けている。
飲み水の確保がやっとな現状、のんきに洗濯すらできない。
角が破けたソファーに腰を下ろした。
「冬でなくて助かったな! 絶対に風邪を引いている」
「お前、風邪引くの?」
生乾きのタオルを持ってきた歳星が隣に腰掛けると、レモン頭にタオルを乗せた。がしゃがしゃと拭いてやる。
軽羅はそれを手の甲で払った。
「で? 手ぶらか?」
「猪の子連れを見かけたよ。明日には、牡丹鍋……だっけ? が出来るかもね」
「今日は?」
狩りは、歳星担当だ。それ以外の家事は軽羅の仕事。
自分の髪は一切拭わない歳星が言い淀むように目を伏せた。散髪屋が消え、伸びっぱなしの黒い髪。のれんのように垂れ下がる隙間からチラ見えするまつ毛が、心震えるほどに美しい。濡れているため、儚さすら感じる。
「ふっ」
軽羅は頬杖を突き、美術品でも観賞するかのようにそれを堂々と眺める。娯楽が消えた世界で、彫刻じみた美形を眺めるのは一種の娯楽だろう。贅沢なことだ。
「えっと。あの」
ぱっと顔を上げた歳星は、やっと見られていることに気が付いたらしい。反射的に軽羅を突き飛ばした。
「おうっ⁉」
「見んな! あ、ごめ」
ソファーから落ちた少年を拾い上げる。怒るでもなく、軽羅は親指を立てた。
「トラクターが突進してきたような衝撃だ。実に素晴らゲボッ‼」
「ごめん……」
うつむいてしまう同居人に、軽羅はふんぞり返る。
「何。気にするな。その力に助けられている」
歳星は爪がぶつからないように左右の指を絡め合わせた。褒められて、まんざらでもなさそうに。
「猪は、軽羅の声が聞こえたから、放置してきちゃった」
「なんだ。俺のせいか」
「違! ……ま、まあ。明日行ってくるし」
夜は、ゾンビの動きが活発化する。歳星も夜の方が動きやすい。どういうわけか、視力も探知能力も攻撃性能も、昼間の倍は上昇している気がするのだ。軽羅を襲っていた細長いゾンビも、夜中だったならばもうちょっと手ごわかっただろう。軽羅は殺されていたかもしれない。そう思うと恐ろしく、軽羅を夜一人にしておけなかった。
自分はここにいなくてはならない。狩りは、明日朝一ですればいい。
「歳星」
「ん?」
横を見ると、顔を両手でがっちりと挟まれた。美形の顔が潰れ、タコのような口になる。
雨に打たれたはずなのに。軽羅の熱いくらいの温度に、じわっと、心のどこかが解けていく。
「え?」
冷静に見えて酷く混乱していると、軽羅の顔が近づいてくる。
え? 何? と狼狽えた。
「軽っ」
鼻先と鼻先が触れ合う距離。どれほど不意打ちだろうが不測の事態だろうが、即座に動ける吸血鬼の身体は、金縛りにあったように動かなくなった。
「羅……」
軽羅の吐息が顔の皮膚に当たる。一番弱い「軽度感染者」の真っすぐな瞳から、目を逸らすこともできなくなる。
(な、え? 近い。近いって!)
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