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第19話「奇な糸」
人生のノートがあったとして、一年ごとに一ページ増えたとして。
二十歳なら二十ページ分あるはずだけど、俺のノートは一ページしかない。
そのたった一ページの中で、途中から行を埋めるのは間違いなく彼のこと。
何もない暗闇の中で、もう少し生きようか、と思わせてくれた人。
彼は俺を見てどう思っただろう。想像とはだいぶ違ったはずだ。だって、「ちゃんと生きてる」ように見せかけていたから。
実際は狭い箱の中で膝を抱えて育った。
成長したら彼の役に立つよう言われていたけど、そんな日は来ないまま……何ヶ月も、何年も月と太陽を見上げた。
ずっとずっと昔のことだ。
『白希。手紙を書きなさい』
久しぶりに姿を現した母に、万年筆と便箋を渡された。
不思議なことに、会ったこともない人に手紙を書けと言う。
『水崎家と関わりを絶ってはならない。……生き残る為に、貴方は彼らの庇護下に入らないと……』
母が言ってることは、その時の自分にはよく分からなかった。
ただ今与えられた役目を全うすることで頭がいっぱいだった。
ペンを持つ手が震え、何度も書き損じた。焦りすぎてペンが熱くなったり、冷たくなったり。一枚の手紙を書くのに何日もかけた。火傷もしたし、凍傷もした。
泣き叫びたくなるのを抑えて、胸を掻きむしった日々。手は爛れ、痛みで眠れないこともあったけど、その手紙は私と世界を繋ぐ唯一の糸だった。
こんなにも死に物狂いで手紙を書く人は少ないだろう。
けど必死の想いで書いたぶん、愛着は強くなる。
宛名を自分の名前よりも上手く書けることがちょっとだけ誇らしかった。
水崎宗一さん。
彼が存在する。そんな当たり前のことが奇跡に思える。私を認識して、私が書いた文章に返してくれる人。
彼が世界だ。
ようやく会えたとき、どれほど嬉しかったか……今はまだ伝えられない。
適切な言葉がいまいち浮かばなくて、ずっと悩んでる。
だから、今日も目を覚ますのが少し怖い。
「おはよう、白希。今日は寝癖ないね」
「ふあ……おはようございます」
寝巻きから服に着替え、リビングへ顔を出す。珈琲をいれていた宗一を見つけ、白希は頭を下げた。
昨夜は大変なことをしてしまったが、宗一の様子は変わりない。むしろ機嫌が良さそうだ。
常ににこにこしてるのに、何でそう感じるのか自分でもよく分からなかった。
「私はこれから仕事だ。一緒にいられないのは悲しいけど……」
食卓につき、宗一は心から残念そうにため息をついた。
「こうして朝から君の顔を見られることが幸せなんだ。これまで出勤してきた中で、今日が一番幸福な朝だよ」
「ははは、そんな……」
大袈裟過ぎる言い回しに、笑って返した。ところが彼は突然自身のスマホをテーブルに置き、なにか操作し始めた。
直後にシャッター音らしきものが鳴る。どうやら写真を撮ったらしい。
「食べてる時の白希は本当に愛らしいね。ありがとう、今日はこれを見て乗り切るよ」
「……」
ありがとうも何も、自分は大口開けてパンを食べようとしてただけだ。
「ちょ……絶対変な顔してますから、消してください」
「変? とっても可愛いよ」
宗一はスマホの画面にキスし、胸ポケットに仕舞ってしまった。彼のペースについていくのは至難の業だ。何より、行動が予測できない。
彼が作ってくれたスープを完食した時、宗一は目の前で両手を組んだ。
「さて……白希、今日は少し出掛けてもらう予定があるんだけど、大丈夫かな」
「お出掛け? は、はい。何処にですか?」
「たくさんある。十時に真岡がここへ来るから、分からないことは何でも彼に訊くといい」
久しぶりに真岡さんと会えるんだ。少し嬉しくなって頷くと、彼はこちらに手を伸ばし、頬を撫でてきた。
くすぐったくて少し身じろぎしたけど、そのままの体勢で彼を見返す。宗一さんは微笑み、席を立った。
「昨日は羽目を外しちゃったから、今日の朝は軽いボディタッチにしよう。続きは夜ね」
また夜に、昨日みたいなことをするんだろうか。想像したらすごく恥ずかしくなって、何も返せなかった。
スーツに着替え、鞄を持つ宗一さんを玄関まで見送る。
取り残されるのは正直不安だ。でも仕事に行く彼に余計な心配をさせるわけにはいかない。
「じゃあ、行ってきます」
「あ。い、行ってらっしゃい。お気をつけて」
最大限頭を下げ、彼の出発を見守った。
大きな背中が見えなくなるまでドアから身を乗り出していた。あまり近所の人には見られない方がいいだろうから、頃合を見てドアを閉め、鍵をかける。
退院後、自分の様子を知ろうと取材に来る記者もいたらしいけど……皆宗一さんが帰してくれたらしい。警察以外は会わせる気はないと言って、躍起になってる人達から守ってくれた。
感謝してもしきれないな。
洗い終えた食器を取り出し、棚へ戻していく。植物に水をあげたり、テーブルを拭いたり、できる限りの家事は率先して動いた。
家事ひとつとっても、知識のなさ故苦戦する。
「ちゃんとしてる」ように見せかけた数年間だったけど、顔を合わせたらすぐにバレると思って、自分から暴露してしまった。
外へ出ても弱いままだ。
充電スタンドからスマホを外して、大事に握り締める。
今はこれで簡単に連絡がとれるから。
手紙の存在は、彼の中でもう色褪せてしまっただろうか。
ふう、と息をついた時、インターホンが鳴った。
「白希様。ご無沙汰してます」
「真岡さん! 先日はどうもありがとうございました」
頭を下げると、彼も慌てて頭を下げた。そして周りを見回した後、廊下側へ手を向ける。
「お車を用意してます。ご支度が終わりましたら、お声掛けください」
「ええと……はい!」
よく分からないが、しっかり返事する。支度と言っても戸締り以外にすることもない為、スマホだけ持って外へ出た。
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