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第60話

青年は文樹さんの頬をつつきながら尋ねる。 文樹さんはそれに対しなにか喋ってるけど、ろれつも回ってない為、代わりに答えた。 「バイトの飲み会の帰りなんですけど、気持ち悪くなってしまったみたいで……トイレにお連れしようと思ってたところなんです」 「ほんと? それでこんな顔真っ赤になってるんだ」 彼は長身を縮めるように前に屈み、文樹さんの火照った顔を覗き込んだ。 ちょっと距離が近いと思ったけど、仲が良いんだろう。見守ってると、彼は俺の肩から文樹さんを下ろし、代わりに腰を支えてくれた。 「友達が迷惑かけてごめんね。家近いし、こいつは俺が送り届けるよ」 「えっ。でも、急に大丈夫ですか?」 「平気平気。こいつの扱いは分かってるし……あ、心配なら連絡先交換する? 家に届けたら、君に連絡するよ」 友達なら大丈夫だと思ったけど……そういうものなのかと、とりあえず連絡先を交換した。SNSのアプリには、大我と表示されている。 見た目も名前もかっこいい人だ。 密かに思量しながらスマホを仕舞い、トイレへ行くか文樹さんに尋ねる。すると彼は無言で首を横に振った。今にも眠ってしまいそうで不安だ。早く家に帰してあげないと。 大我さんの方に向き直り、両手を前で揃えた。 「あの、……この前はすみませんでした。それと文樹さんのこと、宜しくお願いします」 「はは。オーケー、任せて」 彼は笑って手を振り、ちょうどきた電車に文樹さんを引っ張っていった。 そしてドアが閉まる前に振り返り、口角を上げる。 「じゃ。またね、白希君」 「は……い。……また」 ドアが閉まり、電車が発車する。ホームに残って、小さなため息をついた。 かっこよくて穏やかな人だったけど、ちょっと緊張した。 宗一さんとちょっと似てる。洗練されて、隙がない感じ。 でもそれだけじゃない。この胸がざわざわする感じ、何なんだろう。 何にも触れてないのに、何故か手のひらがビリビリと痺れていた。 「白希! この前はマジでごめん!!」 翌週の出勤日、文樹さんは開口一番申し訳なさそうに両手を合わせた。シフトが中々被らない為飲み会から日が空いてしまったが、元気そうな彼を見てほっとする。 「俺居酒屋出てから記憶があんまりなくてさ……もしかして、お前に何かした?」 「いいえ、何も。どうしてですか?」 「いや、何か大我にめちゃくちゃしぼられたからさ……」 彼はバツが悪そうに頭をかいた。大我さんと何処で会ったのかも覚えていないようだったので、順を追って説明する。 「本当は俺が文樹さんを家まで送ろうと思ったんですけど、大我さんが代わりに引き受けてくださったんですよ。帰ってから連絡もきたので、安心しました」 「そうかぁ……でも本当は俺がお前を送って帰ろうと思ったのに」 「あはは、お気持ちだけで大丈夫ですよ。ありがとうございます」 本当に、俺は人に恵まれている。 こんなに優しい人と出会えたことに感謝しなくちゃ。 更衣室に入って業務開始まで雑談をしてると、境江さんがやってきた。 「おー、文樹。来月のシフト表、何点か変更あるから確認しといてな」 「はーい。お?」 シフト表を渡された文樹さんは、紙を自身の顔すれすれまで近付ける。目は悪くないはずなのに、どうしたんだろう。 心配してると、突然背中を叩かれた。 「白希! お前苗字変わってるじゃん!」 「あ、そうなんです。お伝えするのが遅れてすみません」 名義を変更したものの、店長に伝えるのも遅れてしまった。でも新しいシフトからは、晴れて苗字は“水崎”となる。 「水崎白希って、ちょっと言い難いな」 「あはは、そうかもしれません」 か行が二回くると、はきはき喋らなきゃいけない気になる。あくまで勝手なイメージだけど、電話の際は意識しようと思った。 バイトが終わり、帰り道、自転車の邪魔にならないよう端を歩く。 夕暮れの空を見上げながら、ゆったりと前を歩いた。 結婚後に必要な手続きも何とか終えたし、何もかも順調に回ってる。 順調過ぎて怖いぐらい。だから、何か良くないことが起きるような不安に駆られている。 神様が本当にいたとして、欲しいものばかりくれるはずがないから。 「白希君?」 清流のような、澄んだ声が鼓膜に届く。 「あ。こ、こんばんは!」 顔を上げると、そこには先週ぶりの大我さんがいた。彼は耳からイヤホンを外し、こちらに歩いてくる。 「久しぶり。家この辺なの?」 「はい。大我さんは?」 「俺は、知り合いの家に遊び行ってた帰りなんだ。後、この前はありがとね。文樹は酒弱いくせに飲み過ぎるんだ」 砕けた調子で話す彼に、自然と力が抜けた。やっぱりフレンドリーだ。文樹さんの話とは違い、彼からは警戒心なんて全然感じない。 文樹さんを送ってくれたことに改めてお礼を言い、駅に向かって歩く。 道中、質問攻めにあった。 他愛のないことから、出身地や今の生活に至るまで。軽く半生を語ってしまうところだったけど、宗一さんのレッスンのおかげもあり、ある程度嘘も織り交ぜて誤魔化した。 申し訳ないけど、あまり本当のことは言えないもんな。実家は燃えて、家族は皆行方不明なんて。 それなのに自分は安全圏に逃げ、不自由ない生活をして、好きな人と結婚までしてしまった。……何も知らない人からしたら疑問符しか浮かばないだろう。家族が大変な時に、一体何をしてるのだと。 俺が幸せになってはいけない理由は、それも関係がある。 「ええ、新婚なんだ! おめでとう!」 「ありがとうございます」 宗一さんのことは伏せて話すと、彼は驚きつつも拍手してくれた。結婚相手が同性であることを告げると、今どき珍しくないよ、と答えた。 「羨ましいな。……随分楽しそうに生きてて」 「え?」 突然手のひらがひりひり痛んで、違和感に足を止めた。 それと並行し、重たいなにかが蠢く。 妙な焦りを覚えたけど、その空気は長く続かず、大我さんの軽快な着信によって掻き消された。 「あっ、ごめん! また呼び出されてるのかも……白希君、俺ちょっと電話しないとだから、またね。気をつけて!」 「は、はい。すみません、失礼します」

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