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第74話「頬凍つる」
夜明け色の空に、鳥が飛び立つ。
時間が止まったみたいだ。空虚で、寂然で、平和な時間。
平和。
……平和って、何だ?
「退屈って意味だよ」
頭を撫でられ、そうか、と頷いた。
それなら“私”は、平和が嫌いだ。退屈な時間は苦痛でしかない。
外に出たい。体を動かしたい。めいっぱい羽を広げて空を飛ぶあの鳥のように。
「駄目駄目。外には白希を狙ってる悪い奴らがたくさんいるんだから!」
二階のバルコニーから外を眺めていると、ひとりの青年が眠たそうにやってきた。
朝食の準備をしてくれたみたいだけど、その前に寝癖が酷くて気になる。
「大我さん、鏡見ました? 髪が重力に逆らってますよ」
「え~。こいつ今反抗期だからなぁ」
彼はそう言って、寝ぼけ眼で後ろの跳ねた髪を触っている。可笑しくって笑ってしまった。お詫びとして、櫛を持ってくる。
「はい、これで大丈夫」
「お。サンキュ、白ちゃん」
ちゃんは余計だけど、面白い人だ。
屋内に戻るよう促され、言われるまま中に入る。
だだっ広い部屋の中央に置かれたテーブルで、簡単な食事をとる。今日は自分と、大我だけだった。
「……あぁ、あの人は今日は早出だから」
「そう……」
箸を静かに置く。お味噌汁だけは飲んだけど、あまり食欲がわかない。
味もしない。何でだろう。
大我が食事している間は食器の音がするが、それ以外は無音の空間。
嫌なことや困ったことがあるわけじゃないけど、あまりに何もない。……退屈だ。ただ眠る時間がやってくるのを待つだけ。
「じゃあ、俺は学校だから。絶対外には行かないようにね。約束だよ?」
「ええ。……行ってらっしゃい」
大我の背中を見送り、内側からドアの鍵を掛ける。
……これで夜までひとりか。
ため息まじりに部屋の中へ戻る。
訳が分からないまま、この家で目覚めてから三日が経った。
まず分かっているのは、自分の名前は余川白希ということ。そして、少年時代から記憶を失っているということ。
以前は何もないどん詰まりのような村で暮らしていたが、今は何故か東京にいる。同じ村の出身である羽澤家に助けられ、引き取られている。
実家は異質な力を厭う村人達に焼き払われ、家族全員ばらばらになったらしい。私自身は東京へひとりで逃げてきたけど、そこでも追っ手に襲われ、そのショックで記憶障害が起きたのではないか。……というのが、家主の見解だ。
確かに顔には痣があるし、手足も動かす度に痛む。
大我達が言うには、この世界の人は全員敵、らしい。
しかしそれはそれ。とにかく暇で仕方ない。
本日五回目のため息をつき、洗い物や掃除をした。何故か家事は身についていて、考えるより先に体が動く。屋敷では一度もやったことないのに。
鬱陶しい包帯を取り、湿布も全部剥がした。後で説教されるかもしれないけど、シャワーを浴びたい。
「ふう……」
左手が少し気になってそわそわしたり、食事の時間になると動かなきゃいけない気になったり。じっとしてろと言われたけど、とにかく落ち着かない。
「こーら。お風呂は夜、一緒に入るって言ったでしょ」
「わ」
案の定、夜は大学から帰ってきた大我に窘められた。
「しかも包帯とか全部外して。ったく……傷も見たいからもう一度入るよ」
「だって……退屈で、やることがないんですもん」
服を脱ぎ、彼と一緒に浴室に入る。頭なんて自分で洗えるのに、大我は自分を椅子に座らせ、シャンプーを手に取った。
「不貞腐れないの。……言ったろ? ここが世界で一番安心だ。ここには君の命を狙ってる奴らも入ってこられない。今や村で一番権力があるのはウチだからな」
羽澤家の支援は村全体を支えるほどだ。水崎家も相当だと思うが、最終決定権を持っているのは恐らく羽澤の方。いつからか力関係が逆転し、余川家も水崎家も大人しくなっていった。
「……何で私を助けたんですか?」
素朴な疑問を投げると、大我は分かりやすく視線を逸らした。
「さあね」
分からない素振りをしてるが、理由はひとつだ。“あの人”が自分を気に入ってるからだろう。
浴室を出てから、大我は白希のぬれた髪にドライヤーを向けた。
「私はいつまでここにいればいいんです?」
「今はまだ考えなくていい。怪我を治すのが先だ」
「嫌なんですよ。……先延ばしにされるの」
自分でも大人げないとは思ったが、記憶が少年時代で止まっているのだ。体は大人でも、そこは大目に見てほしい。
そして、目の前の現実を隠そうとされることが嫌でたまらない。どれだけ酷かったとしても、自分には確かに、自分なりの生活があったはずだ。早くそこに帰りたい。あの閉塞感に満ちた屋敷よりはよっぽど良いが、今の生活も足元が見えず、怖い。
だけど大我はため息をつき、頭を撫でてきた。
「辛いことしか待ってないなら、動かない方が良いんだぜ? 白希の悩みは贅沢だよ。俺なんて、やりたくもないことをずっとやらされてきたのに」
腰を引き寄せられる。彼の目に妖しい色が灯った。獣のような、獰猛さを孕んだ目だ。
そうだ。それも実はとっくに気付いている。
「貴方は私のことが嫌いですよね」
「……急に何」
シャツしか着てないから、下半身は素肌のままだ。彼のズボンに当たりながら、少しだけ踵を浮かす。
「道源様のこと好きなんでしょう? でもあの人が私を気に入ってるから、私に嫉妬してる。違います?」
わざと笑みを浮かべて見上げると、彼の頬は紅潮した。
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