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第88話

その日の夜、宗一は白希に話を聞かせた。 退院した日のこと、一人で外出したときのこと、バイトを始めたときのこと。 せいぜい数ヶ月の間に起きた出来事だろうに、どれもとても遠いことのように感じる。 また、終始嬉しそうに話す宗一が印象的だった。彼の表情や仕草に注目して、途中から肝心の内容が頭に入ってこなかった。 「お、もうこんな時間か。白希、眠くない? そろそろ部屋に行こうか」 「別に。でも、貴方が寝るなら寝ます」 何故だか、子ども扱いされるのが嫌だ。確かに十年分の記憶が抜けているから仕方ないけど、“子どもだから”と言われると妙な違和感が生まれる。 けどその理由を考えようとすると頭が痛くなるから、強制的にシャットアウトした。 「私は明日仕事なんだ。申し訳ないけど、今夜も一緒に寝てね」 寝室に連れていかれ、寝巻きに着替えさせられる。その頃には少し眠くなって、ウトウトしながら宗一のベッドに腰を下ろした。 「大丈夫? 今日はちょっとはしゃぎ過ぎちゃったか」 「平気です……」 先に横になるよう促されたが、彼が中々ベッドに来ないので座位を保った。てっきり着替えたらすぐにこっちにくると思ったのに、彼はデスクの前でなにか書き物を始めてしまった。 眠い。でも隣に来るまで寝たくない……。 部屋は暖房で暖まったが、布団が温かくないと寝心地が悪い。何とか宗一の作業が終わるまで起きてようと努めたが、限界が訪れる方が先だった。 「いったい!」 「え!?」 寝落ちした一瞬でバランスを崩し、ベッドから落ちてしまった。逆に痛みで目が覚めたものの、驚いた宗一に抱き起こされる。 「大丈夫? どこか打った?」 「うう……いえ、尻もちついただけです」 宗一は心配そうに白希の全身チェックをした。ひとまず問題ないと判断し、胸を撫で下ろしていた。 彼はデスクライトを消すと、ベッドに腰を下ろした。どうやら書き物は終わったらしい。 「仕事してたんですか?」 「いいや。心の整理」 「……?」 相変わらず、意味の分からないことを言う。 露骨に眉間を寄せてしまい、慌てて手で隠した。 「変ですね」 「何が?」 宗一も布団に入り、部屋の証明を落とした。薄暗い空間に早変わりし、身を寄せ合う。 白希は宗一の方に向き、頭を枕に乗せた。 「本当に以前の私を好きだったとして。大事な人の記憶がなくなってしまったのに、何でそんなに落ち着いてられるんですか?」 これは夜の公園で会った時から抱いていた疑問だ。 どうしても解せない。普通パートナーが自分のことを忘れていたら、もっと悲しみ、取り乱すものではないか。この世の全てに絶望し、塞ぎ込んでもおかしくない。 だが宗一は落ち着き過ぎている。白希に対し今まで通りに接し、笑みも絶やさない。それが不自然で、空恐ろしい。 固唾を呑んで返答を待っていると、宗一は少しだけ視線を横にずらし、それから考える仕草をした。わざとらしいが、すっとぼける気満々なのは逆に感心する。 「確かに、何でだろうね? 驚いてはいるけど、白希だから大丈夫……みたいに、ちょっと楽観的に考えてしまってるのかもね」 「何が大丈夫なんです?」 「本質的なところは変わってないというか……いずれ思い出してくれる気がしてる。もしそうならなかったとしても、何度でも再構築してやろうって思ってるから」 こそこそ話でもするような距離で、宗一と向かい合う。 「よく分からないけど、つまり自信に満ち溢れてるってことですよね」 「そうだね。愛のパワーかも」 「はいはい、素晴らしいです」 誇らしそうに笑う彼を賞賛しつつ、瞼を伏せる。 宗一の熱すぎる愛は触れなくても火傷しそうだ。 彼が以前の白希を愛しそうに話す度、何故か胸の奥がきりきりと痛む。 疎外感でも抱いてるんだろうか。自分と“彼ら”の間には、絶対に越えられない壁があるから。 人の関係を羨むなんて馬鹿みたいだ。 内心呆れながら、心地のいい眠りにつくことができた。

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