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第89話
夜はぐっすり眠ることができたが、問題は翌朝。またまた宗一から、理解に苦しむ難題を提示された。
朝食を食べ終えた白希の目の前に、真っ白な便箋が差し出される。怪訝な表情でそれを見下ろす白希に、宗一は笑顔で人差し指を立てた。
「今日の宿題だよ。私にラブレターを書いてみてくれ」
まるで書く気力がない。彼のリクエストに応えるのは不可能だ。
しかしこちらの意見を聞くこともなく、彼は慌ただしげに仕事に出掛けてしまった。
「手紙か……」
そういえば、あまり書いたことがない。
まるっきりない、わけじゃないが。やはり何も思いつかないまま、あっという間に夜を迎えた。
十九時前、インターホンが鳴り玄関へ向かった。扉の前にいたのは宗一だったが、隣には知らない青年が立っていた。
「白希! ああ、本当に良かった……!」
安堵した表情を浮かべる彼は、自分を知ってるようだ。しかしこちらは彼の名前も分からない。宗一に視線を送ると、彼は困ったように笑った。
「白希、私の友人の雅冬だ。以前はよく家に遊びに来てたんたよ」
「そうですか。雅冬、さん……」
初めまして、と言うと、彼は複雑そうな顔をした。
白希が記憶を失っていることにショックを受けてるようだが、そんな色は一瞬しか見せなかった。すぐに微笑み、持っていた紙袋を翳す。
「今日は、俺が夕飯を作りたいと思って。お邪魔してもいいかな」
彼はとても礼儀正しく、上品に笑った。宗一の美貌は日本人離れしているが、彼の隣に立っても遜色ないほど端整な顔立ちの青年だった。
「ありがとうございます。あと私の家ではないので、私に許可をとる必要はありませんよ」
思ったまま答える。雅冬はまた驚いていたが、宗一がすかさずフォローした。
「またまた~。ここは白希の家だからね? じゃ、早く上がろう」
「そ、そうそう。お邪魔します」
どこかぎこちない二人を尻目に、リビングへ戻る。
気を遣ってるのが見え見えだ。
二人には申し訳ないと思う。でも適切な接し方が分からない。
居心地の悪さが最高潮に達して、逆に食が進んだ。雅冬が作ったビーフシチューは、鍋を空にしてしまうほどだった。
相当食べたというのに、何故かそれほど満腹感がない。
ひとまず美味しかったことを告げると、彼は安心したように頷いた。
「食欲もあるみたいで良かった。……記憶を失くしたって聞いて戸惑ってたけど……俺達なんかより、君の方がずっと混乱してるよな。無理しないで、何でも聞いて頼ってくれ」
雅冬は前で手を組み、優しく微笑む。
……宗一と同じく、良い人そうだ。
以前の自分が好きそうな人間だと皮肉っぽく考えてると、彼は呆れたように苦笑した。
「……にしても、こいつも実はキャパオーバーだったんだな。少し安心した」
「え?」
彼は隣で酔い潰れている宗一に視線を向けている。
宗一はワインを飲み過ぎたようで、テーブルに突っ伏して眠っていた。疲れてるから尚さらだと思っていたのだが、雅冬の話ではどうも違うらしい。
「こいつ、すごい酒豪なんだ。そうそう酔い潰れることなんてないんだけど。今日は無理やり、酔う為に飲んでるみたいだった」
「……」
彼の言う通りなら、宗一もいっぱいいっぱいだった、ということになる。何ら動じてなさそうな彼も、実は現実逃避がしたかったのか。
「かなり余裕ないみたいだよ。……俺はそれで良いと思うんだけど」
雅冬は瞼を伏せ、ワインを口にする。
白希は驚いていた。自分の前ではあれほど毅然と振舞っていた青年が……。
でも、多分それだけじゃない。
「宗一さんはあなたのことをとても信頼してる。だから気が抜けたんでしょうね」
心を許せる人が近くにいると、安心してしまうものだ。酔って寝ても大丈夫と思えるぐらい、宗一が彼に心を開いている証拠である。
静かに宗一の寝顔を眺めていると、雅冬は可笑しそうに吹き出した。
「何か不思議だな。……白希に初めて会った日のことを思い出した」
彼は目を細めて立ち上がり、宗一をソファに誘導した。白希も別室からブランケットを持ってきて、宗一の体に掛けてやる。
時計を見ると、何だかんだでもう二十二時を過ぎていた。
「あの。今日は泊まっていきますよね?」
何の気なしに尋ねると、彼は慌てて首を横に振り、食器の片付けを始めた。
「まさか、もう帰るよ。家主も寝てるし」
「そうですか……」
雅冬は笑っていたが、なおも見つめていると、徐に振り返った。
「なにかあるみたいだな。どうした?」
「……こんなこと訊かれても困らせてしまうと思うんですけど。手紙って、どんな風に書いたらいいんでしょうか」
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