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第100話
本当はとっくに気がついていた。
“私”は傷ついた彼の代わり。彼を守る為だけに目を覚ました。
でももう大丈夫だ。
床も天井も、壁も何もない真っ白な空間で、優しい声が聞こえた気がした。
それはとても短い、感謝の言葉だった。
太陽が一番高い位置に昇っている。涼風に背中を押されながら、賑やかな街中を小走りで駆けていく。
世界は何も変わってないのに、心臓は大袈裟に跳ねていた。自分の気持ちひとつで、この通りは優しくも厳しくもなる。
何てことないと強く言い聞かせて、商業ビルのエスカレーターに乗った。離れていたのは一ヶ月程度だが、ひどく懐かしさを覚える。
「文樹。朝入荷した商品、倉庫に仕舞っておいて」
「はーい」
開店前の楽器店で、文樹は元気よく返事した。どこか空白が目立つ心を隠しながら、店の前に積まれたダンボールを解いていく。下に屈み、重いものから台車に乗せようとした時、ふいに目の前のダンボールが持ち上がった。
「おはようございます。運びますよ」
清流のように鼓膜に透き通る。初めて聞いた時から心地良いと感じていた、中音の声。
文樹は立ち上がり、目の前で微笑む青年に目を奪われた。
「……お久しぶりです。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません、文樹さん」
「白希」
懐かしい匂い。眼差し。
その全てが文樹の時間を止めた。持っていたダンボールを危うく落としかけたが、白希が片手で受け止めてくれた。
「お前、もう体は大丈夫なのか!?」
「はい、おかげさまで。一ヶ月も休んでごめんなさい。俺の家にも来てくださったんですよね?」
「あ、あぁ……?」
何故か疑問形で話す彼に違和感を覚えたが、今はどうでもいい。白希の腕を引き寄せ、髪がぐしゃぐしゃになるまで頭を撫でた。
「とにかく良かった!! あ~~マジで良かった!!」
「あ、ありがとうございます。そんなに喜んでいただけるとは……」
歓喜している文樹の声を聞き、店長の境江がやってきた。彼も白希の姿を認めると、満面の笑みで声をかける。
「白希君! 久しぶり! もう出てこられるの?」
「お久しぶりです、店長。ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした」
白希は深く頭を下げ、顔は上げきらずに続けた。
「私の方から連絡を入れるべきなのに、文樹さんに休みのお願いをしてしまって……無断欠勤と同じことです。今日はそのお詫びと、退職の件で参りました」
お忙しいところすみません、と謝ると、境江は笑いながら手を組んだ。
「ああ、その件なら君の旦那さんからも連絡をもらったよ。幸いシフトの調整も問題なかったし……君さえ良ければ、続けてくれても良いんだけど」
微笑む彼に対し、白希は戸惑いながら顔を上げる。
「で、でも……ここで働くこと自体、たくさんご配慮いただいてたのに」
「白希、店長がこんな風に言ってんだぜ? フツーはないだろうけどさ。あと一回だけ甘えてもいいんじゃねえの」
文樹は前屈みになり、悪戯っぽく微笑む。見れば、境江もため息まじりに笑っていた。
「白希君のエプロン、洗ってロッカーに入れておいたからね」
心の芯まで染み入る……優しい言葉。
「ごめんなさい……」
頬を伝い、雫が床に零れる。白希は再び頭を下げ、震える声で返事した。
「本当に、ありがとうございます……!」
世界を温かくするのも、冷たくするのも、全部自分だ。でも前を向いて歩けるのは、周りで支えてくれる人達がいるから。それだけ決して変わらない。
自分は生かされている。優しい人達に……そして、自分自身にも。
「羽澤さん、そろそろ休憩行って大丈夫ですよ」
「あ、どーも。行ってきまーす」
街の図書館内にあるカフェは、客は多いが基本静か緩やかな時間が流れている。
ひとり客が多いから会話も聞こえない。そういうところが気に入ってバイトを続けている。
大我はエプロンを外し、スマホを開いた。いくつか大学の友人からメッセージが来ていたが、一番最初に確認する相手は決まっている。
文樹のやつ、また変なもんに金使ってんな……。
写真付きのメッセージだったが、筋トレグッズを安く買えたから家に試しに来い、という内容だった。
スマホを仕舞い、コーヒーを持ってカウンターを出る。テラスに出てひと息つこうと思っていると、名前を呼ばれた。
「大我さん」
危うく段差で転びそうになったが、咄嗟に手すりを掴んで振り返る。そこには、二週間ぶりの青年がいた。
「白希!」
「すみません、お仕事中に。ちょっと時間ができたので……大我さん、お元気かと思いまして」
大我は周りを見渡し、白希の腕を掴む。そして人のいないテラスへ連れ出した。
「元気は元気だけど、こっちの台詞だっての。怪我大丈夫か?」
前髪で隠れているが、白希の額にはまだ痛々しい傷がある。大我が確認していると、彼は明るい笑顔で頷いた。
元気かどうか知りたかったら、それこそ電話でもしてくれたら良かったのに。わざわざ会いに来るところが本当に律儀だ。
“以前の”白希のまま、変わっていない。
「……全部思い出したのか?」
森林に囲まれたテラスで、青い空を見上げる。柵にもたれかかった大我に、白希は「うーん」、と困ったように微笑んだ。
「多分、記憶喪失ではないんです。ちょっと前の俺は、確かに十年前の状態でリセットされていたけど」
「はあ?」
意味が分からず、大我は首を傾げる。しかし白希の口から飛び出したのは、もっと理解に時間のかかる言葉だった。
「何て言えばいいのかな。一時的な、二重人格……と言うのが正しいんでしょうか」
「はあ!?」
あまりに驚いて、同じリアクションをしてしまった。口を開けたまま閉じられない大我に、白希は実に真剣な表情で告げる。
「マンションの前で村のおじさん達に襲われた時、俺は自分の心に蓋をしました。自分を殺してしまおうと思った。……代わりに出てきてくれたのが、力を発現して間もない、子どもの頃の自分。だと思います」
その証拠に、“彼”が前面に出ている時もうっすらと意識があった。羽澤家に居た時も、宗一と再会した時も、別の次元から眺めていた記憶がある。
「自分の心を守る為に、有り得ない力が働いた……としか思えない」
白希は自身の胸に手を当て、不思議そうに呟いた。
確かに信じ難い話だが、記憶喪失なんてそうそう簡単に起こることじゃない。
襲撃された後に目を覚ました白希は、今の白希とは性格が違った。子どもらしい面もあれば、やけに大人びた一面もあり、どこかアンバランスな印象を受けた。
未だ驚きを隠せず腕を組む大我に、白希は静かに首を横に振る。
「何の確証もありません。ただ、大我さんのお世話になってた時の俺はもういない。……それだけお伝えしに来ました」
静かに顔を上げ、深い青みを帯びた瞳と目が合う。色とりどりの木の葉が舞い、自分達の足元に落ちた。
「そっか。ま、俺らの力自体普通じゃないし……何が起きても不思議じゃないのかもな」
大我は妙に納得してる自分に笑いつつ、脚を伸ばした。
以前の不安定で尖った白希も、個人的には悪くなかったのだが。それを言ったら彼はまた気にしてしまいそうなので、黙っておいた。
「ていうか、俺のこと恨んでないの? お前が襲われること全部知ってて、止めもしなかったのに」
「それは道源さんの意志でしょう? 俺は何とも思ってません。人格も無事に戻ったし」
白希は前で両手を組み、眉を下げた。
「……憎んだり恨んだりするのって、意外と体力いりますよね。昔はそんな元気があったかもしれないけど、もう残ってないな。今を生きる為には希望を持たないとやってられないから」
「……」
逃避に近いのかもしれない。
だが全てを否定的に捉えてるわけじゃない。あくまで現実を受け入れ、彼は前に進もうとしている。
弱い弱いと思ってたけど、実はそれなりに強いのかもしれない。……この青年は。
「そ。まぁいいや。元気そうで安心した」
大我は瞼を伏せ、口端を上げた。
「あ、ちなみに俺と風呂入ってたことは宗一さんに言ったの?」
「え!? あ、それは……前の私が、うっかり口を滑らして」
言ってしまったらしい。白希は憐れなほど顔を真っ赤にし、しどろもどろに俯いた。
「わー、マジか。俺絶対宗一さんに恨まれてんじゃん。次会ったとき殺されそう」
「いや、そんなこと……! あれは前の私がいけなかったんです」
必死に手を振り、白希は俯いた。
「とにかく、ごめんなさい」
「ははっ、平気だから謝らないでよ。……そもそも俺の方がずっと酷いことしてる。本当にごめん」
そこで初めて、大我は白希に頭を下げた。
「俺多分、お前が羨ましかったんだ。……少なくとも今は自由で、幸せそうに生きてるお前が」
力を上手く扱えず、村では腫れ物扱いだった同い年の少年。不憫だと思いつつ、どこか安心していた。“自分”より問題を抱えた存在がいることで、安全な立ち位置を手に入れていたから。
びくびくしながら高い位置を見上げて、下を見ることで安心した。村を出たらそんなことなくなると思ったのに。
「兄さんもお前に少なからず嫉妬してるんだよ。あの人は宗一さんのことが好きで……でも宗一さんは、ずっと前からお前のことが好きだった。だから俺達は、お前が何でも持ってるように勘違いした」
実際はそんなことなくて。彼には彼なりの葛藤があって、癒えない傷があった。
突如幸せを手に入れて、それに戸惑う。贅沢な悩みだと思っていたけど、それまで苦しみ続けて生きてきた人間にとって、不意な幸せは未知の不安そのものなのだ。
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