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約束≒命令

「悪い、待ったか」  モダンなタイル張りの玄関ホールで靴を脱ぎながら、繪野律(えのりつ)は仏頂面に対抗するよう、敢えて涼やかな笑顔で謝った。 「一緒に晩飯食うから七時に来いって言ったよな? もう九時なんだけど。どこ行ってたんだよ」  苛立ちに拗ねた顔を忍ばせる、鷹屋敷湊(たかやしきみなと)が開口一番、強気な言葉を浴びせてくる。  彼の奔放な態度は高校から成長してない。湊の性格に慣れっこの律は急用だったと言い、湊を追い越してリビングに入って行った。 「お前に俺と会う以外に急用なんてないだろ」 「……そうだったな」  憎まれ口をたたいても、顔が可愛けりゃあまり腹は立たない。現に自分の後ろを追いかけて来る気配は、庇護欲を掻き立てられる。  律を追い抜き、荒々しくソファに腰掛けた湊が、ペットボトルの水を勢いよく飲み干した。  宥めるように隣へ座った律は、薄い肩へとわざと寄り掛かってみる。 「……飯食ったのか?」  鞭のようにしならせた言葉を萎れさせ、甘えた声を続けて口にする湊の態度は慢性化していて、全てを熟知する律は「湊は?」と、微笑んでやる。 「俺は適当に……食った。親いない日だし、分かってるだろ」  湊の両親は共に医者で、家を空けがちだ。  そんな夜に律が来るのは、もう習慣だった。  小ぶりな頭にコツンと自分の頭をぶつけながら、「だから来てるだろう」と、耳元で優しく囁いた。  すると湊の不機嫌は、口の中で転がす氷のようにすぐ溶けてしまう。  家庭環境のせいか、一人っ子だからか。  彼を簡単に形容すると、我儘で寂しがりと言うのがしっくり来る。それを分かっている律は、茶褐色の髪を撫でて、湊をいい気分にさせようとした。 「……バイトか?」  顔を逸らしたまま、湊が口の中で言葉をもたつかせる質問に、「何が」と知らないフリで聞き返してみる。 「遅くなった理由って、バイトだったのかって聞いてんの」 「ああ。シフト変更の確認しに寄ってた」 「——の割には遅かった。どうせ店長に捕まってたんだろ」 「そりゃ少しは喋ってくるよ。シフトみて、はいさよならって訳にはいかないしな」  柔らかな髪を撫で、意識して微笑みを向けた。  思い通りにならないと機嫌が悪くなるから、取り敢えずの対処療法だ。  案の定、湊が上目遣いで甘えるように睨んできた。 「お前のその目が悪い。奥二重で切れ長の色っぽい目で微笑まれたら、誰だって落ちるに決まってんだよ。だから弓道部の王子なんて言われてたんだ。ちょっとは自覚しろよ」 「お前さ、高校ん時のネタまで出してくんな。拗ねてんのか? まったく、早く特定の相手を見つけろよ。湊みたいに可愛い顔だと、ノンケでも落ちるんじゃないのか」 「別に拗ねてないしっ。それに一人に束縛されんのはダルい。お前の体だけあれば十分だっつーの」  誤魔化すよう、湊がペットボトルを投げつける。それはゴミ箱の淵に当たり、床へと転がっていった。  律が回収しに行こうとすると、「ほっといていい」と細い指が引き止めてくる。  くっきり二重の悪戯っぽい瞳は効力を最大限に活かし、誘うように律を見上げてくる。 「何だよその顔は。ダメだぞ、今日はもう遅い。それに明日は一限からだし、着替えもない」  熱っぽい眸に触発された律は、袖口から侵入してくる指に欲を感じながらも抵抗を見せた。 「着替えなら俺のを貸してやる」  五本の指は誘うように律の前腕を這い上り、そこを何度も往復させながら、嘆願にも思える表情で命令を下してくる。 「サイズが合わない。お前のじゃちっさいよ」 「……俺の言う事聞けないっての?」  大きな瞳で律を捉え、決して離そうとはしない。 けれど、なぜか唇は震えているように見える。 「……分かったよ。部屋行くか? 先に風呂——」 「……今、ここで」  さっき見えた震えは跡形もなく消えて、唇からは熱のこもった囁きがこぼれ落ちた。  向けられた欲望に倣うよう、湊の頬を撫でてみる。 「ここでいい。早く律が欲しい……」  勝気な態度とは裏腹に、甘えた声でねだってくる。それがいつもの企みと知りながらも、律は素直に受け入れた。  細い腰に手を回すと、簡単に組伏せることの出来る体を力強く引き寄せる。 「一番デカイ服探しとけよ」  わざと甘い声を作って耳に注ぐと、湊の耳朶が桃花色に染まっていく。 「わかっ……」  全ての言葉を言い終える前に、薄い唇で乱暴にぽってりした唇ごと声を閉じ込めると、湊をソファへと沈めた。 「律……り……」  名前を呼ぶ声すら許さず、焦がれるように開いた口腔内に舌を押し入れ湊を貪った。  体は快楽を求めていても、頭はどうしたって熱くなれず、冷めている。  これまでも、いつも、今夜も……。  今、自分の腕の中にいる男は蠱惑的(こわくてき)で、多幸感を与えてくれる。  だが理性を吹き飛ばすほどの甘さや、あえかさはなく、頭はいつも凪いでいた。  こんなことは愚行だと分かっていても、律は縋るように湊の胸に顔を埋めていた。

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