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喪失

 此本千歳殺害から一週間が経っても、学生の間では様々な憶測が飛び交い、ゴシップ熱は消沈を見せない。  挙句に、被害者を誹謗中傷する声も囁かれ、湊はラーメンを受け取りながら、そんな彼らを遠巻きに睨んだ。 「湊、事件のこと聞いた……?」  テーブルに着こうとした時、詮索好きとは別の不愉快さを与えてくる、糸峰佳乃子(いとみねかのこ)が、許可なく目の前に座ってきた。 「刑事が家に来て聞いた」   ラーメンを荒々しく置くと、勢いでスープが四方に飛び散った。  怒りを糸峰に放つように。 「湊のとこに警察が来たんだ……で、何を聞かれたの?」 「別に。千歳と俺が幼馴染だから、何か知ってることがあるか聞きに来たんだろ」  昼時の賑わう大学の食堂では、生徒達が面白おかしく事件の話しを口にしている。  着色された話を耳にする度に、湊は彼らを怒鳴り散らしたくなった。  勝手にペラペラ話す糸峰に対しても同じだ。  糸峰を無視し、湊が意識を向けたのはカレーライスを手にこちらへやって来る律だった。  自分の隣に腰を下ろす律を見届けると、湊はようやくラーメンを啜った。 「でも幼馴染ってだけで警察なんか来ちゃ、湊も大変だったね」 「別に。何、話それだけ? 俺らメシ食ってんだけど」  目すら合わそうとしない湊に構わず、糸峰は滔々と語ってくる。 「ねえ、湊は平気なの? 千歳もういないのに」  箸ですくった麺を啜る手を止めると、湊は糸峰の方をキッと上目遣いで見上げた。 「平気なわけないだろ。あいつとは小っさい時からの友達(だち)なんだっ」  辛辣な口調で糸峰を一蹴し、強制的に囀る口を閉ざそうとした。 「そ、そうだよね、小さい頃からの……。ごめんなさい。私……」  そう言って顔を曇らせた糸峰は、逃げるように席を立った。 「相変わらずあの子にキツいよな、湊は」  カレーライスを頰張りながら、興味なさげに律が言う。 「あの女、高校の時から何かと俺に構ってくるから鬱陶しい」 「それは湊のことが好きだからだろ。自分でも分かってるくせに」  意地悪く笑いながら冷やかしてくる。  お前の方が分かれよ、と声を大にして叫びたくなった。  この会話すら不毛に思え、湊は黙々とラーメンに集中した。  丼を空にして横を見ると、スプーンを持つ手を止め、律が食堂の中を見渡している。 「生徒一人が死んだってのに、普段とあんま変わんないよな……」  湊の視線に気付いたのか、律が独り言を装って語りかけてくる。  誰かが死んでも、無関係な人間は我関せず日常を送る。  事件のこともドラマの感想のように好き放題に言い、それが副音声のように聞こえる。  湊の中で、ぶつける相手のいない怒りと悲しみが再燃した。 「……あいつはいい奴だった。女なんてクソみたいな奴ばっかだけど、千歳だけは違ったんだ」  涙は我慢できても、気心知れた友人を理不尽に奪われた悲しみは、湊に大きな打撃を与えていた。  幼い頃の思い出が勝手に上演され、泣くのを必死で我慢しながら無理やり暗幕を下ろした。 「大切な人を失うのって、自分の半身をもがれるみたいだよな」  またポツリと律が呟く。  カップを唇に当て、中庭を見つめる憂いを帯びた横顔に、別の顔が重なる。  永遠に勝てることが出来ない記憶の中の顔を、律から剥ぎ取るように勢いよく席を立った。    湊の動きに驚き、律が心配そうに手を伸ばしてきたが、それを思いっきり振り払った。  湊は憎々しげに、憂苦な横顔を見下ろす。 「そうだよな……、だってお前は——」  歪んだ心で吐き出した声は、雑音に紛れてしまった。  湊は唇を左右に引き結ぶと、続きの言葉を飲み込む。 「どうした、湊」  気遣う律の手が再び差し出される。  唇を噛み締め、冷ややかな音で、「触んな」と吐き捨てた。  分かれよ──と、言う代わりに、もう一度睨むと、リュックを掴んで食堂を飛び出した。         **** 「何だ、湊のやついきなり出て行って」  一人取り残された律は、またいつもの気まぐれだと思い、去って行く背中から視線をスマホに変える。  テーブルに片肘をつきながら、画面に触れる。  映し出された笑顔を見ると、自然と笑みがこぼれた。  一楓(いぶき)……。  名前を呟くと、まだ色褪せていない愛しさがよみがえる。  閉じ込めていた記憶がふわりと解け、待ち侘びていたように律を過去へと連れて行ってくれる。  まろみのある声が耳の奥で再生されると、切なくて胸が苦しくなった。 「繪野、これ危ないぞ」  懐古に浸っていると、よく知る現実の声が聞こえた。  見上げると、女生徒に笑顔を返している講師の姿があった。 「やっぱ東郷(とうごう)先生か」  はみ出していた椅子を元に戻した東郷拓人(とうごうたくと)が隣に座ってくる。  短めに切り揃えた黒髪に、眉と目の間隔が狭い典型的な二枚目が、訝しげな顔で見てきた。 「『やっぱ』ってなんだよ——ってか、今日は一人か? 珍しいな相方がいないなんて」 「ええ、まあ……。あ、先生もカレーじゃん」  律はわざとらしく話題を変え、東郷のトレーを覗き込んだ。 「今日は朝からカレーな気分だった。食堂のって、ちょい辛くて美味いんだよな」  さりげない会話をしながら、たおやかに微笑む彼の顔を、まじまじと見つめた。 「何だ? そんなに見てもやらないぞ」  子どものように律の視界からトレーを遠ざけ、東郷が背中を向けてカレーを頬張っている。 「ガキみてー。てか、俺食ったし」 「あ、そういえば食ってたな」  空になっている皿を見下ろし、二人は顔を見合わせて笑いあった。 「先生ってカレー食う姿も男前ですよね」 「これはこれは。イケメンの繪野から言われると嬉しいねぇ。ああ、そう言えば女子が嘆いていたぞ。彼女を作らないで、高屋敷とばっか連んでるって」 「ばっかって……。たまには一人の時もあるよ」 「今みたいにか。なんだよ、喧嘩でもしたのか?」  紙コップの(ふち)を咥えながら、「別に」と、リズミカルに上下させて返事を濁す。 「まあ、仲良いほど喧嘩もするか。それより午後の講義遅れるなよ、あんなことがあって落ち着かないだろうけどさ」  頭をクシャッと撫でられ、立ち去る東郷に「はいはい」と軽口で返事した。  遠ざかる背中を見送ったあと、ふと、湊が座っていた椅子が視界に入る。  あいつ、食ったまんまだし……」と呟き、律は二人分のトレーを手に席を立った。

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