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律と一楓 「出会い」

 振動が心地いい。  まだ眠っていたいのに、誰かに肩を揺さぶられた。 「おい、起きろよ律」 「……おー、いってら……」 「ブハッ! なにが、『いってらー』だ。寝ぼけんなよ。ほら、もう着くぞ!」 「……あれ、ここ、どこ……」  ぼんやりした目で周りを見ると、見知った顔が笑っているのが見えた。 「お前なぁ、いくら校外学習がダルいったって、うたた寝にも限度があるぞ」  ボーッとしながら友人の声を拾った律は、頭の中で記憶を巻き戻した。 「あー、そっか、ここ……京都か……」  そうだよと、友人に頭をパチンと叩かれた。 「いってーな。寝不足なんだから、仕方ないだろ」  中学二年恒例の校外学習は、毎年、京都と決まっている。  新幹線に乗ってはしゃいだものの、夕べ興奮してなかなか閉じなかった瞼は、バスの振動で秒殺されてしまった。  後部座席を友人たちと陣取ったまでは、ギリ覚えている。  また寝そうになっていたら、今度は鼻を摘まれた。 「なあ、律。自由行動で何する? あ、土産先に買うか。なあ、おい。聞いてんのか。もー、寝んなよ」 「ふわぁ……。土産な、わかってるって」  欠伸と共に、律は気の抜けた返事をした。 「京都なんて寺ばっかでつまんないし。な、それより、バス降りたらなんか食おーぜ」 「だな、食いもん、なんか売ってるかな」  両腕を上に伸ばし、律は思いっきり伸びをした。  新幹線にバスと、乗り物続きだったし、変な寝方していたのか、首が痛い。  首を左右に動かしていたら、窓から見える景色が止まった。  平素と異なる生活環境で見聞を広め、自然や文化などに触れる──と、担任が言った本来の目的は忘れ、緩んだ気持ちでゾロゾロとバスを降りる。 「ここどこ?」「何があんの?」「食いもん屋ないじゃん」  神社仏閣に関心のない声を先頭に、律もダラダラと進む。  まだあくびが出そう── 「ここは三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)っていうんだよ」  まだ頭が起きてない律の耳に、ひときわ透る声がすぐ後ろから聞こえた。 「もうすぐ千体の観音様が見えるよ」  再び耳を刺激する、透明感のある声。  律は声の主が気になり、歩む速度を緩めて肩越しに後ろを振り返ってみた。  そこにいた、初めて見る同級生に律は目を奪われた。  硝子玉のように煌めく丸い目。  ふんわりした笑顔は愛らしく、小柄な体に学ランは少し似合ってないなぁと思った。  癖っ毛なのか、所々半円を描く髪に、色素の薄い肌が陶器製で出来たフランス人形を思わせた。 「ほら、見て見て」  声の主が律に近づく。  彼は隣の友人に目を輝かせながら、夢中で話をしている。  もっと間近で見たい。  そう思った律は、彼に背を向ける形でそっと身を寄せた。 「あ、ごめん数間違った。千体と一だった」  彼の言葉で、さっきまで眼中になかった観音像へ目を向け、思わず息を呑んだ。  慈悲深い顔がずらりとこちらを見下ろす光景は圧巻で、口を半開きにしていると、心地よい声がまた耳をくすぐってくる。 「みんなそれぞれ手に持っているのも違うし、顔も違うんだよ」  こぼれてきた声に従うよう観音様を見ると、「ほんとだ」と、つい口に出していた。  律の声が大きかったのか、彼と目が合った。   見つめてくる視線に、喉がゴクリと鳴る。  細い肩の上には、柔らかそうな髪がクルンと跳ねていて、ほんとうに同性かと目を擦りたくなった。  彼の姿に目を奪われていると、ビー玉のような丸い瞳が弧を描き、花蜜の香りが漂うように微笑まれた。  彼が歩くと律も後を追い、歩みが止まると足を止める。  吸い寄せられるように付いて行くと、いつの間にか出口に辿り着いていた。  押し寄せる観光客の隙間から、彼を盗み見る。  すると、そっと瞼を閉じ、観音像に手を合わせていた。  蝋燭の火が厳かに揺れ、彼の白い頬が金色(こんじき)に輝いて見えた。 「一楓(いぶき)ー、行くぞ」  友人に呼ばれ、彼の瞼がゆっくり開く。  そこに律が映り込んだ。  睫毛を瞬かせると、律へと微笑みかけてきた。  声をかけようか……。  そう思ったときはもう遅く、彼は蝶が飛び立つように軽やかに去って行ってしまった。  奥ゆかしい仕草は律の心をかき乱し、百メートル走を一気に走り終えたみたいに心臓がうるさい。 「あ、いたいた。律、お前どこ行ってた。迷子か」  探しに来てくれた友人に、いつもならふざけて返せるのに、今は何も口にしたくない。   律の心はまだ、揺らめく焔の前に置き去りになっていた。  イブキ……。  覚えたばかりの名前を、頭の中で呟いた。  来た道を振り返ると、観音像に手を合わせる横顔がまだそこにあるように思える。  律は彼の残像を目に焼き付けると、賑やかなバスへと乗り込んだ。

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