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律と一楓 「上書き」
「ここ、分かんねー」
古文の教科書を片手に、律が横顔に擦り寄ってくる。
無意識に距離を取っていたことに気付いているかのようだ。
「どこ? ってか律、顔近いよ」
「……一楓、お前最近なんか冷たい」
口を尖らせて律が拗ねている。
やっぱり律は気付いていたんだ。
「そ、そんなことないよ……ほら、続きやろ」
避けていたことを意識付けされ、一楓は怯える心音を悟られないように笑顔を作った。
近い、近くないの攻防戦を繪野家の居間で繰り広げていると、律が降参したのか、急に黙りこくってしまった。
「この間から様子がおかしい。もしかして俺のこと避けてる?」
囁かれた言葉にドキリとし、一楓は慌てて、「それは絶対あり得ない」と、首を激しく振った。
貼り付けた笑顔を見破られてしまったのか、答え合わせするかのよう肩を抱き寄せられる、
律が唇を重ねてこようとしてくる。
「ダメだよ、おばさんが……」と、既のところで逃げるように顔を背けてしまった。
「平気だって。今日、母さん送別会だから当分帰ってこない」
「それでもダメ。もうすぐ中間始まるんだから。ほら、勉強しないと」
一楓が教科書で防御すると、先へ踏み込めないことに律の唇は益々反り立った。
硬派な男前と囁かれてる律の拗ねる顔は、一楓の鉄壁なガードをいとも簡単に崩してくる。 律の蜜熟した甘えに身を委ねれば、頭の片隅で巣食っている悍ましい顔は消えてくれるのだろうか。
「久し振りに二人きりなのにさ。それに妹は友達んとこ泊まりに行ってるんだろ?」
ムスッとして食い下がってくる律の肩へ、一楓は返事の代わりに甘えるよう寄りかかってみた。
「……ごめん、一楓。嫌な言い方した」
反省する甘い声が肩から耳に浸透し、心地いい周波数となって一楓の胸に優しく届いた。
律のものになりたい。今、心からそう思う。
優しい声も瞳も、自分に触れてくれる手も、誰にも渡したくない。
律の熱を知れば、この先に降りかかる辛いことにも耐えられる気がする。
一楓はほとばしる気持ちを伝えようと、長くて美しい指に自分の指を絡ませた。
「おい……そんな事したらヤバイって。手を出してもいいのかよ。俺、ずっと我慢してんだぞ」
グイッと肩を抱き寄せられると、カーペットの上に頼り無げな背中が律の手でゆっくりと預けられる。
一楓は返事の代わりに目を閉じた。
その瞬間、薄ら笑いを浮かべる湊と亮介が現れる。
恐怖がよみがえり、体が震える。
「寒いのか?」と、甘い声が降ってきた。
心配する言葉が鼓膜に届くと、一楓はゆっくりと目を開けた。
律の眼差しが優しさで溢れている。
好きで、大好きでどうしようもない人が、目の前にいて自分に触れてくれる。
一楓は悍ましい行為を忘れたくて、美しい顔を両手でふわりと包み込んだ。
「律を独り占めできて嬉しいから、震えてるだけだよ……」
恐怖を封じ込めるよう、両手を律の首に回す。
逞しい肢体に縋るよう、抱き締めた。
「いいのか、その、最後までしても……。俺、お前を傷付けたくない……」
気遣う言葉が吐息と混ざって、耳朶に触れる。
甘い熱が一楓の劣情に火を付け、律の首筋に唇を押し付けながら首を縦に振った。
顔を離すと、鼻先同士を触れさせて微笑みを交わす。
押し込めていた情欲を掻き立てられた律が、始まりの合図のように、深い口付けを落としてくる。
一楓は目を閉じて、その熱を受け入れた。
差し込まれた舌の動きが、一楓の全身を甘く縛る。
シャツのボタンがひとつずつ外されていくのを、許した。
露わになった胸に、優しい手が触れる。
待ち焦がれた心と体全部で、律を欲した。
触れられるたびに、乱れた悦が勝手に漏れてしまう。
生まれて初めて知る興奮に身を任せていると、律の唇は、瞼や頬、首、鎖骨と、花びらのように肌へと舞い落とす。
ズボンごと下着をずらされ、律の長い指で敏感になった器官を包まれた。
不意に、亮介の顔を思い出した──
汚い。自分は汚い。
こんなことをすれば、律が穢 れてしまう。
一楓は律の胸をそっと突き離した。
咄嗟に取った行動で、律の体がスッと離れる。
「一楓、やっぱやめよう。怖いだろ……」
切ない声で問われた。
「い……やじゃない。怖く……ないよ。俺も……ずっとこうしたかった。俺を律のものにして欲し──」
一楓は激しく首を左右に振って言った。
願望は、律の唇に奪われる。
律の優しい声、指、唇。
全部が、今、一楓だけのものになった瞬間だった。
触れられる度に一楓の体は、打ち上げられた魚のように跳ね、未知の感覚を与えられる。
天井で煌々と灯る光りを背にした律が、掠れた声で、「ごめん」と囁いた。
なぜ謝ったのか分からない。
ただ、美しくて逞しい姿に目を奪われる。
律の手が、一楓の下半身へと伸びる。
冷たい感触に、ビクッとなった。
「ごめん、ごめんな」
そう、何度も繰り返し謝る。
律にされて、嫌なことなんて何もない。
だから、謝らないで……。
初めて知る痛みも、違和感も、相手が律なら全て受け入れる。
目の端に雫が生まれた。それを長い指が掬ってくれる。
「ごめん、痛いか。やっぱりやめ──」
「へ、平気。やめない……で。早く、律のものに……して」
早く、早く、あの悍ましい行為を、律の熱で上書きして欲しい。
切れ切れの声で訴えると、こめかみに口付けをくれた。
溢れる涙を舐め取られ、「しょっぱいな」と律が笑う。
強く抱き締められ、律に全てを委ねる。
優しく、時々忙しなく動く律。
その姿だけで、一楓の体は発酵したように熱くなる。
「りつ、りつ……」
うわごとのように、大好きな人の名前を繰り返し呟く。
その度に、激しく打ち付けられる肌と肌。
そこから生まれる、淫らな音。
快感まで昇り詰めようとする律の声。
乱れた二人の息遣いが、部屋中を満たしていた。
一つになった二つの体は、深海へ沈んでいくような無重力の中、沈んでいく。
二人の手は硬く握り締められ、胸と胸はピッタリ合わさり、一滴の雫さえ侵入を許さない。
「いぶ、き、一楓、一楓……好きだ。ずっとそばに……ずっと俺と一緒にいてくれ……」
切ない声で懇願されると、いっそう律への愛おしさが込み上がる。
ずっと欲しかった熱も、言葉も、一楓が願っていたこと。
「おんなじ……。俺も……今、同じこと、思ってた」
目の前には汗を纏った美しい男がいた。
自分だけを欲しがる、この世で一番の、かけがえのない人。
輝く輪郭へ両腕を差し伸ばすと、律の指で絡め取られた。
その手を、きゅっと握り返す。
そのまま唇まで運び、願いを込めてそっと口付けた。
この幸せが永遠に続きますように、と……。
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