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律と一楓 「悲しき秘匿」

「一楓、勉強一緒にしようぜ。俺もうすぐテストなんだ」  洗い物をする一楓の背中に、強制とも言える亮介の声が注がれ、茶碗を持つ手が止まった。 「いいわね。おばさんからもお願いするわ。来週から家庭教師の先生が来るけど、この間の亮介のテスト酷かったんだもの」  気軽に嘆願する叔母が、一楓の手から泡だらけのスポンジを引き取らながら言う。 「い、いいよ、おばさん。俺最後まで洗うよ」  慌てて言った一楓の肩へ、筋肉質の腕がねっとり巻き付いてくる。  あの悍ましい日以来、逞しくて頼れる存在は、触れられるだけで嫌悪を感じ、全身を粟立たせるものに変貌していた。 「頼むよ、一楓。お前頭良いんだからさ」  優しく囁く言葉とは反対に、肌に触れてくる体温は蛇蝎(だかつ)を想像させる、気持ち悪くて冷たいものだった。 「あとはおばさんやっとくから。美羽ちゃんとお風呂も入っとくし」  叔母へと嬉しそうに懐く妹の姿が目に入り、一楓は「はい……」と、震えを隠すように手の泡を流した。 「早く来いよ、一楓」  先を進む亮介の踵だけを見つめ、見えない足枷を付けた下肢で階段を一段ずつ上がる。  進む先には、牢獄と言う名の部屋が待ち構えている。  美羽の幸せを約束してくれる、悲しい場所が。  悲愴感を漂わせる一楓に苛立ったのか、亮介が鍵をかけると、一楓はベッドへと思いっきり突き飛ばされた。 「うわっ!」  倒れ込んだと同時に亮介の体が覆い被さり、仰向けにされた。  頭上で手首をベットに縫い止められる。  キスしてくる亮介を拒むと、舌で首筋を舐められ、ぬめっとした感触に全身が総毛立つ。 「亮ちゃん、やめっ──」  抵抗する言葉を塞ぐよう唇を塞がれ、一楓の口腔内に亮介の舌が挿入してくる。  湿った体の重さも吐息も気持ち悪くて絶えられない。  一楓は必死で亮介を押しのけようともがいたが、両手首は掴まれたままでビクともしない。それでも諦めず足をバタつかせた。  テニスの応援に行っただけなのに、なぜこんなことになったのか……。  休日の教室から始まった性的懐柔(かいじゅう)は、抵抗も虚しく一楓を追い詰めてくる。逆らえば美羽の幸せを引き合いに出され、一楓の心も体もされるがままだった。 「嫌だっ! やめっ、亮ちゃ──」 「暴れんなよ、一楓。下まで聞こえるぞ。聞こえたらどうなるか分かってんだろ?」  命令とも取れる言葉は一楓の動きを封じ、美羽の泣き顔を想像させるものだった。  両親を失っても、半田の家での生活は幸せだった。  それなのに、どうしてこんなことに──。  悲しみと絶望の中でも、いつの日か優しかった亮介に戻ることを期待していた。  けれどそんなものはないのだと、ベルトを外す音が知らしめてくる。 「咥えろよ。この家にずっと居たいんだろ」  ずっとなんていたくないっ。  いるつもりなんてない。  声に出して反論したくても、反り立った亮介自身を口元にあてがわれ、物理的に発する言葉を奪われてしまう。  嫌で、嫌で、耐えられなくなった一楓は、堪らず吐き出して顔を背けた。 「もう……許してよ。亮ちゃん……」  助けを求める声と泣き顔が更に亮介を興奮させたのか、体を引き起こされると、股間へと乱暴に顔を押し付けられた。 「うう……ぐうぅ……」  先走りで濡れた先端を口に捩じ込まれ、分泌液の感触が舌の上に広がる。  助けを乞うことも許されず、屈辱を味わう中、一楓は喜悦を漏らす亮介の声を空っぽにした頭で聞いていた。         ****  授業の終了を知らせるチャイムと同時に、一楓は目を冷ました。  ぼやけた頭で少し考えた後、ここが保健室なんだと思い出し、額に乗っているタオルに触れた。    そっか、俺……倒れたんだ。  四限目の体育の授業は、生徒のほとんどがブーイングを起こした持久走だった。  過酷な授業内容に、いざ挑んでみたものの周回遅れののち、敢えなく一楓は撃沈した。  ベッドで眠っている原因を振り返っていると、激しい音と同時に扉が開かれ、息を切らした律が飛び込んできた。 「り……つ?」  額にタオルをのせたまま起き上がろうとしたら、「起きなくていいっ」と、即座に止められた。 「律、ごめん……」 「なんで謝るんだ。持久走で倒れたんだろ? クラスのやつに聞いた」  布団を掛け直してくれる律に「うん、風邪かな」と、顔を綻ばせた。 「だから昨日言ったじゃないか、顔色悪いって」  そう言って、額のタオルを変えてくれようとする。  口では怒っているけれど、触れてくれる手は優しい。  そんなところも好きだなぁと思った。  昨日、昼休み前に全力疾走することがどれだけ過酷かを、律と湊は予鈴がなるギリギリまで切々と語っていた。  運動が苦手な一楓が青い顔で二人の会話を聞いていた時、不意に律の手が額に触れてきた。  顔色が悪いんじゃね? と、心配そうに言ってくれたけれど、律の横から注がれる湊の目が怖くて、何でもないよと笑って誤魔化した。  とても……悔しかった。  本当は熱っぽくて食欲もないんだと甘えかったけれど、きっと湊はそれを許さない。  本調子じゃないまま二人の話を念頭に置き、今日の体育を迎えた。  けれど、トラックを三周したところで、突然の眩暈に襲われて昏倒してしまったのだ。 「ごめん、心配かけて……」 「だから謝んなって。それより熱は? ってか、保険の先生は?」 「先生は、午後から出張だって。だから──」  言い終わらないうちに、律の顔が目の前に近づくと、一楓の額に自身の額を重ね、熱を測ってくれようとしている。 「こんな時に出張かよ。……あ、やっぱ熱あるぞ」  心配そうに何度も体温を確認してくれる仕草が愛おしい。    高校生になってからと言うもの、律と一緒に過ごす時間はめっきり減った。  唯一の確約は、昼休を一緒に過ごすこと。  けれど、そこにはいつも湊の姿もある。  でも、今は律と二人きりだ。  倒れたと知って駆けつけてくれたのだ。  湊の存在も忘れ、保健室へと真っ先に来てくれた。  心配してくれる律に申し訳なく思いながらも、風邪も悪くないなとこっそりニヤけた。 「熱が上がったのは律のせいだよ」  調子に乗って言ってみた。 「え、なんで俺のせいなんだよ」  タオルを絞る律の困った顔が可愛くて、嬉しくなる。  もっとかまって欲しいし、もっと心配してもらいたい。 「律に触れられると、俺の心拍数は上がるから」  布団で半分顔を隠しながら告げた。  タオルを額に乗せてくれながら、律が唇を耳元によせてくる。 「……学校で煽んな」  そっと、耳に蜜が注がれる。  律が口付けをしてくる気配に、「ダメ、ここ学校」と抵抗してみた。  でもそれが誘い水になったのか、一楓の訴えを無視し、熟れた果実を啄むように律が唇を重ねてくる。  本当は待ち焦がれていた。  だから、一楓も唇を開いた。  何度も交わした口付けなのに、いつまで経っても慣れない。  それなのに、わざとなのか、律が水音を激しく奏でてくる。  甘い感触に翻弄されていると、舌が深く推し入ってきた。  熱く覆い被さってくる体を拒みながらも、喜ぶ自分がいる。  耳元で名前を囁かれると、それは心地良い音に変わり、恍惚感が湧き上がってきた。  息つく毎に律を欲し、採蜜するように逞しい背中に手を回した時、嘲笑う残響が耳の奥で聞こえた。  半田家で亮介と二人っきりになれば、必ずと言っていいほど口淫を求められる。  どれだけ嫌がっても、最後にはお決まりの口上を述べられた。  終わらせたいのに、亮介を止める方法がわからない。  考え抜いた挙げ句、全てを律に打ち開けてみようかとも思った。  言えば、けがらわしいやつだと、嫌われるかもしれない。  それでも律を裏切り続ける後ろめたさより、マシかもしれない。  逡巡した挙げ句、一楓は縋る思いで律の名前を呼んだ。 「り、りつ。あの──」「あ、一楓、今度って、あ、また被ったな」  二人の言葉が重なり、いつものように一楓は、先に言ってと、話を切り出す順番を律に譲った。 「俺、今度さ地区大会に出るんだ。一楓、絶対見に来てくれよな。一年で選ばれたの俺だけなんだぜ」 「す、すごい! おめでとう律! 俺、絶対応援に行くよ」  自分の事のように嬉しくて、一楓は言いかけた言葉に蓋をしてしまった。  やっぱり言えない。  律に嫌われるのが、軽蔑されるのが怖い……。  美しい律に相応しくありたいと、なんとか満面の笑顔を作り、こぶしを律の方へと差し出しだす。  それに応えるよう、「頑張るからな」と、律のこぶしがコツンと触れた。 「そうだ、お前、さっき何か言いかけたろ。何?」  律が思い出してくれたけれど、「……忘れちゃった」と笑ってやり過ごした。  タイミングが合わなかったのは、言わない方がいいと言うことだ。  うん、きっとそうだ……。 「ごめん。俺は一楓に甘えてばっかだな……」  髪を撫でられ、額に唇で刻印される。  甘い言葉と温もりが悪夢を少しだけ薄めてくれて、自分こそ律に甘えているんだと言いたかった。 「……俺は甘えられて嬉しいよ。律は大人でしっかりしてて、皆んなにも頼りにされてるから。俺でも役に立てるのが凄く嬉しいんだ」  言ってすぐ恥ずかしくなり、一楓はまた布団で顔を半分隠し、そっと律を見上げた。  優しい眼差しが、自分だけに向けられている。  今も、これからもずっとそうであったらいいなと、一楓は切に願った。

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