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律と一楓 「家庭教師」

「亮介ー、家庭教師の先生お見えになったわよー」  いつものように一階から呼ぶ母の声は、今日はどこかよそゆきに聞こえる。  理由は分かっている。  望んでもないカテキョが来るせいだ。 「そんな大声出さなくても聞こえてるし……」  スウェット姿で怠そうに階段を降りる亮介の視界に、いつもより肌艶のいい母の笑顔が見えた。  母がチラチラ見ている先には、ファッション雑誌から飛び出してきたような、壮絶イケメンが笑顔で我が家の玄関に立っている。 「初めまして、亮介君。東郷拓人です、今日からよろしくな」  差し出された右手を眺めながら、少女漫画かよ、と笑いたくなるのを我慢して握手をした。 爽やかな挨拶をしてくるのは、男から見ても秀麗な相好で、母の化粧がいつもより濃いのも納得できる。 「……亮介っす」 「うん。じゃ、さっそく始めよーか」  母の目配せで、二階に上がるよう指示がでる。   亮介は重い足取りで、部屋へと彼を案内した。 「ここです、俺の部屋」 「了解! さあ、どれから手をつける? お母さんからは数学と英語って聞いてるけど」  机の上に参考書を並べられ、「数──」と言いかけた言葉を、じゃ、両方の小テストな、と笑顔でマウントを取られてしまった。  答え合わせが終わり、英語は褒められて数学は貶された。  飴と鞭の使い分けを心得てる東郷は、手本のような指導者だと思った。 「そう言えば、亮介君は教師になりたいんだって?」 「え、何でっ」  亮介は言いかけた言葉を溜息に変えた。将来の夢のネタ元が母親だと悟ったからだ。  普段から息子自慢する癖のある彼女は、きっと東郷にも嬉しそうに語っていたと想像できる。  小学生ならまだしも、高校生なんだからもうやめて欲しい。 「実は僕も大学の講師になりたいんだ。けど、中々空きがなくてね。だから今は専門学校の契約講師と、カテキョのバイトしてるんだよ」  間違った箇所を指導しながら、東郷が自身の夢を語っている。  ありきたりな手法ではあるけれど、嫌味のない彼の態度に、亮介の耳は素直に傾いていた。  その日は軽めの勉強で終え、テニスや大学の話しで二時間はあっと言う間に過ぎた。  人生初の家庭教師の登場に身構えていた心は、気さくな口調と豊富な話題でいつしかほぐれていた。  しっかりとした指導を心がける東郷の姿勢を好ましく感じ、勉強が終えるころには、一週間後を楽しみに思えた。         ****  東郷の指導が亮介に合っていたのか、彼の成績は右肩上がりになり、本人よりも喜んでいたのは言わずもがなだ。 「本当に先生のお陰です。亮介ったら凄く成績上がったんですよ」  いつもより一時間程早く半田家に到着した東郷は、息子の成果を報告しようと待ち構えていた母親に捕まってしまう。  美味しい珈琲豆なのよと言われ、断れなくなった。 「僕の力じゃないですよ。亮介君の努力の賜物です」  得意の笑顔で東郷が話すと、まるで推しを応援するファンの如く、母親からうっとりした顔を向けられている。  これはどこかで終止符を打たないと会話が長引く予感。  そう思い、東郷は亮介の顔を早く見たいからと切り出し、彼の部屋へと向かった。  階段に上りかけ、中腹あたりでふと、足を止めた。  二階から、微かな呻き声のようなものが聞こえる。  押し殺した声は泣いているようにも聞こえ、東郷は声の元を確かめようと、ゆっくり階段を上った。  台所で夕食の支度をしている母親には聞こえない。そんな小さな呻き声は、亮介の部屋から聞こえていた。  東郷は足音をたてないよう、亮介の部屋の前で立ち止まり、そっとドアに耳を寄せた。 『……嫌だ…やだ、止めてよ亮ちゃん……』  亮介とは別の、聞き慣れない声。 『ちゃんと咥えろ。歯、たてんな、もっと舌使えっ、下手くそっ』 『……んーっんん……』 『……あっ、ううん……はぁ、いい……。い……ぶき』  ドア一枚隔て聞こえてくる吐息混じりの声は、紛れもなく亮介のもの。  興奮しているのが容易に想像できる。  ただ、もう一人の声も男だと言うことに気付き、東郷の片眉は跳ね上がり、口元はつい緩んでしまった。  亮介君はゲイか……。意外だったな。  家庭教師が来る時間なのに、大胆不適な奴。 スッと脳の奥が冷え、東郷は冷嘲しながらも、興味本位で再びドアへと耳をそばだてた。 『……お前が俺にこんなこと……はぁ、ああっ。してるって知ったらアイツ……どう思う……かな』 『や、やめて亮ちゃん! り、律には──』 『うるさい! 黙ってやれよ。もうすぐカテキョ来るんだからっ』 『あぅ……、律……り……つ』 『その律にいつも……やってんだろ。それともケツに突っ込まれ……たいのか。うっ、いい、イク……ああっ』  色欲が溢れる淫靡(いんび)な音に紛れて聞こえる苦悶に満ちた声は、亮介ともうひとりとの関係性が歪なものだと見なくてもわかった。 『も……ゆ、許して……おねが……うぐぅ』  悲しげに許しを乞う『イブキ』を気の毒に思い、東郷は階段をゆっくり下りると、中程で立ち止まった。 「お母さんー、後でお水貰えますかー?」と、わざと大きな声をかける。 『ヤバっ! センコー来た。一楓出てけっ』  東郷の声に慌てる気配。  それが部屋から滲み出てくる。  中の様子が透けて見えると、東郷は肩を竦め、わざと足音を大きくさせながら、いつもより時間をかけて階段を上りきった。  ノックしようと手を伸ばしかけた瞬間、勢いよくドアが開かれ、ひとりの少年が飛び出してきた。 「す、すいませんっ」  ぶつかりそうになった少年は、顔を隠したまま会釈すると、廊下の反対側にある部屋へ逃げるように駆け込んで行った。  シャツのボタンは取れかけ、ズボンのファスナーは全開。  おまけに、唇からは血が滲んでいるようにも見えた。 「亮介君、入る──」  ドアを開けると荒い息遣いで高揚している亮介が、乱れた制服を必死で整えていた。 「わ、悪い。ちょっと、い、一楓と……け、喧嘩したんだ」  それは苦しい言い訳だろう。  でもまあ、必死で誤魔化そうとしているのは分かる。  分かってはいるが、明らかにさっきの少年は亮介を拒んでいた。  無理強いな振る舞いは、許し難い。 「今のって従兄弟君かな? 彼も一緒に勉強するかい」  亮介の反応を伺うように言ってみる。 「えっ! い、いいよ。あいつ頭いいし」 「……そう。じゃ、成績も上がったことだし、今日も頑張りますか」  そう言いながら東郷は部屋の窓を開け、澱んだ空気を逃すと、わざと咳払いをした。

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