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律と一楓 「できること」

「寝不足か、律」  流しの前でスポンジを片手に呆けていると、喝を入れるように背中を思いっきり加賀美に叩かれた。 「痛って──と、す、すいません。ちょっとボーッとしてました」 「もうすぐ混んでくるぞ、シャキッとしろ。それ終わったらネギを切ってくれ。終わったら割り箸の補充な」  夕食の時間に差しかかると、ラーメンだけではなく、セットものの注文も多い。  最近ようやく時間帯で忙しさが変わることを覚えた律は、掛け時計をチラッと見て、「はい!」と威勢よく返事をした。  麺結吾一(めんむすびごいち)で働きだし一ヶ月が経つ。  けれの、他のバイト達と打ち解けもせず、律は、来る日も来る日も、ひたすら仕事に専念していた。  週末のラーメン屋は、家族連れから酒を飲んだサラリーマンでひしめき合い、忙殺する中、高校生の律は慣れない手つきで裏方作業に奮闘していた。  ようやく業務を終え、着替えをしていた律は、部屋に入って来た加賀美に声をかけられた。  無表情で煙草を咥える加賀美に萎縮し、律は固唾を呑む。  何か失敗したのか、それとも役立たずとクビを宣告させるのか。  心当たりを探して動揺する律に対し、加賀美が紫煙と一緒に口を開いた。 「受験勉強の方は大丈夫なのか? 顔色も悪そうだし、声だって掠れてさ。シフトもほぼ毎日希望してるけど、体調はどうなんだ?」  面接で交わした加賀美との約束で、学校も休まず成績も落としてない。  バイトも遅刻せず、真面目に働いているつもりだ。  咎められることに心当たりもなく、頭の中で『クビ』と言う文字に焦りを抱いてしまった。  今ここで、バイトを辞めさせられる訳にはいかない。  もっと必要とされなければ。 「大丈夫ですっ。この間のテストも学年十位でした。それより真吾さん、俺お願いがあるんです」 「なんだ、こっちの話しは終わってな──」 「シフト、もっと入れてもらえませんか。俺、もっと頑張って働きますから。何ならラストまででも──」 「はぁ? お前何言ってんだ。今働き過ぎだって言ったばっかだろう。それに高校生は十時までって規則あんの知ってるだろ?」 「……知ってます。分かってて頼んでます」  切羽詰まった声で懇願すると、加賀美が睨みを利せた目で、理由を言えと、キツい口調で返ってきた。 「そ、それは……」  叱責に似た言葉から逃れるよう、律はつい、目を背けてしまった。  それが更に、加賀美の声を厳しい音に変える原因になる。 「金がいるから働きたいんだろ。理由を言えないくらいやましい事に使うのか」 「いえ! そんなやましい事なんてないですっ」 「じゃ、言えるよな」  雇う立場の加賀美からすれば、理由を尋ねるのは当然だ。  それに事情を話さないままだと、本当にクビになるかも知れない。  律は加賀美の顔をジッと見据えた後、自分の立てた決意をおずおずと口にした。 「俺……大切な……世界で一番大切な人を助けたくて……そいつの、入院費を稼ぎたいんです……」 「入院費? どういう事だ?」  意表を突かれた答えだったのだろう、加賀美が灰をポトリと落下させたまま口を半開きにしている。  我に返ったのか、加賀美がまだ長さを保っていた煙草を灰皿に捩じ込むと、丸椅子を引っ張り出して座れと言うように、無言で顎をしゃくってきた。  店の方から微かに聞こえる、活気に溢れた声を聞きながら、律は静かに唇を動かした。 「……俺の大切な人は、もう命が長くないんです……」  律の言葉で、加賀美の双眸が瞠目した。  馬鹿なことをと笑い飛ばされるか、冗談を言っていると思われ、怒鳴られるか。  律は徐々に高まる心拍数に身を包まれる中、加賀美の言葉を待った。 「……順に言え。話はそれからだ」  首の皮一枚繋がった感覚を味わいながら、律は大切な存在の話を口にした。         **** 「……話はわかった、お前の気持ちもな」  母親や誰にも話せなかった全てを涙と共に吐露すると、加賀美にペットボトルの水を握らされた。 「っす、すいません……泣くつもりなんてなかった……んです」  一楓の病のことを口にすると、嫌でも現実を突きつけられ、話し終える前に律は泣いてしまった。  悩んだ果てに、金を工面する安易な考え。  自分は家族でも親戚でもない、周りから見ればただの友人だ。  二人は恋人同士なんだと、だから命を救いたいのだと叫んでも、男同士の恋愛はきっと蔑視の眼差しでしか見られない。  ならば自分に何ができる?   自身の心に問うた時、金を稼ぐことしか頭に浮かばなかった。  半田の家に居候している身の一楓は、常に金の心配をしていた。  だから医者に検査を勧められても、それを無視したのだ。  高校生が必死で働いた金を、半田の両親が受け取るはずもない。  考えなくても分かる浅はかなこと。  でも、それでも、律は何かせずにはいられなかったのだ。 「俺に出来ることは、黙認してお前を遅くまで働かせることじゃない。けど、話を聞くことくらいは出来る。一応お前より長く生きてるからな。法を破ると俺がお咎め喰らっちまうし」  ニカっと白い歯をみせ、加賀美が自分の手首同士を擦り合わせ、逮捕された素振りを見せてくる。 「そ……うですよね。すいません、俺そこまで考えてなくて……」 「シフトは出来る限り希望通りに組んでやる。勉強もここでしろ、暇な時に俺が見てやれるしな」 「え? 真吾さんが!」  俯いていた顔を上げて一驚していると、不敵な笑みを向けられた。 「そんなに驚くなよ、傷つくだろーが。俺は、こー見えてもK大出身なんだぞ、しかもストレート」  加賀美が腰に手を当て、鼻を上に向けて得意げな顔をしている。  律は「K大……」と呟いたものの、にわかには信じ難かった。 「お前、信用してないだろ」  疑いの眼差しを指摘され、律は慌てて首を左右に振った。  すると、加賀美の手が伸びてきて、頭をくしゃりとかき回された。 「し、信用は……してます」  言葉とは裏腹に、半信半疑な心を必死で隠した。 「まあ、楽しみにしてろって。俺の実力を知って驚くなよ」   頭に置かれたままの手で軽く叩かれると、顔を覗き込まれた。  目尻にシワを作り、またニカっと笑顔を向けられると、張り詰めていた糸が少し緩んだ気がする。 「……ありがとうございます。非常識なことを言ってすいませんでした」  深々と頭を下げ、律は感謝を伝えた。  もう解放してやると加賀美に言われ、ロッカーの扉を閉めたと同時に休憩室のドアが開いて、バイト仲間がやって来た。  その顔は深妙な面持ちをしていた。  彼は律の顔をチラッと見て、また加賀美に顔を向けている。  自分がいたら話しにくいのかもしれないと、「お先に失礼します」と言って律は事務所を出た。  リュックから自転車の鍵を取り出そうとした時、部屋の中から加賀美の、すっとんきょうな声が聞こえてきた。  何ごとかと思い、律がドアに近付くと、 「だから店の予約じゃなくて、店長を予約したいって言うんですってばっ」  半ギレの叫び声が漏れてきて、再び、はあぁ? と加賀美のバカでっかい声が聞こえた。 ますますここにいてはダメだと悟った律は、足早にその場を去った。  

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