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律と一楓 「神なんていない」

「いーぶき、体調どうだ?」  わざと少し高めに設定した声で、律は病室の扉を開けてひょこっと顔を出した。  たかやしき総合病院の五階にある個室に、今日も制服姿のままでやって来た律は、慣れた手つきで丸椅子を取り出して腰を降ろす。 「律、毎日来てくれるのはすごく嬉しいけど、部活は……?」  心配気に顔色を伺う一楓の頭を、クシャと撫でた。 「聞いてくれよ。実はさ、道場の床の貼り替えで当分使えないんだってさ。だから物理的に部活は休みってことなんだ」 「……そうなんだ。でも無理しないで、俺は大丈夫だから」    作戦成功だ。  一楓のことだから、きっと弓道のことを心配して聞いてくると思っていた。  その時のために用意していた回答を、律は滑らかに語り、一楓を誤魔化せたとホッと胸を撫で下ろしていた。 「俺の心配なんかせず、治すことだけを考えろよ」  少し痩せた肢体を覆うパジャマが儚気で、痛々しい。  律は何とか笑って欲しくて、今日あった出来事やお笑い番組の話しで笑顔を引き出そうとした。  けれど時は無情に刻まれ、自分に課した規則の三十分が経つと、泣く泣く椅子を片付けることになる。  また明日な、と強がりを口にすると、一楓の眉が八の字になるから、つい、抱き締めたくなってしまった。  食事の量が減っているらしく、少し頬がやつれて見える。  一楓が食べたいと言えば、中国にあるどっかの絶壁に登ってツバメの巣でも何でも採ってくるのに。  何もしてやれない自分が悔しい……。 「帰り、気をつけて」  明日へと続く約束を交わし、ゆっくりと閉まっていく扉から、完全に視界が閉ざされるまで一楓はずっと手を振ってくれる。  扉は容赦なく愛しい人を閉じ込めてしまい、二人はまた引き裂かれてしまった。  一楓が入院して、まる一週間。  ずっと苦しいままだった。  必死で平常心を保っていた律は、力なく扉の前で屈み込んでしまった。  忙しなく行き来する看護師の視線を気にも止めず、律は砕ける勢いで歯を食いしばった。  不条理、無慈悲、この世に神なんているのかと、見えない相手に何度も罵倒した。  なぜ一楓なんだっ。  世の中にはもっと相応しい人間がわんさといるのになぜ、どうして一楓ばかりがこんな目に遭うんだっ!  あいつから両親を奪い、命までも奪おうと言うのか。  そんなこと誰が決めたっ。  なぜ、なぜ、なぜなんだっ!  自問しても答えなんて出ない。  そんなこと分かっている。でもこの怒りを誰にぶつければいい。  見ているしかできない自分にも腹がたつ。  祈っても全く意味がないと、耳の中で誰かが囁く。  もう、どうすれば……どうすればいいんだ……。  喉が張り裂けるほど叫びたかった。  でも、一番苦しいのは一楓本人なのだ。  滲み出す雫をグイッと手の甲で拭い、弱気になった体で立ち上がると、笑止顔の友が目の前にいた。 「湊──」  いつからそこにいたのか、湊がジッと見ていた。  無言で病室に背を向け、湊が歩き出すと、一楓に合わないのか、と聞いてみた。  背中越しに「ああ」とだけ返され、湊がエレベーターへと乗り込む。 「心配しなくても治療費はちゃんと払うからな」  湊の後を追いながら伝えても、背中を向けたままで何も言わない。  箱が一階に到着すると、律は湊の後ろをついて歩き、ごめんな、と言って彼を引き止めた。  肩越しに「何が」と、聞き返され、 「俺の、無理な頼みを聞いてくれたから」と、改まって頭を下げた。 「……じいちゃんは俺に甘いからな」  我儘で屈託のない、いつもの湊とは違い、大人びた表情のまま、また口を閉ざしてしまった。 「この病院に入院させて貰って、本当に感謝してるよ。個室だから一楓も周りに気を使わないで済むし」  律は自販機で買った珈琲を、ロビーの隅っこにある椅子に腰を下ろす湊に手渡した。  横並びで座った律は、体ごと湊を見つめると、もう一度頭を下げた。 「治療費かかるから入院しないって一楓が言い出した時、マジでどうしようかと思ったよ。あいつ半田の家に迷惑かけることしたくないって、そればっかり言うからさ……」  床に目を伏せたまま溢すと、ようやく湊の視線を頬に感じた。 「母さんに聞いたよ、悪性リンパ腫ってんだろ? 血液の癌の」  湊の言葉にビクッと反応し、口にしかけたペットボトルに蓋をした。  見えない恐怖がヒタヒタと近付いてくる感覚。  けれど、一楓はこの何百倍もの脅威を味わっているのだ。 「……湊のお母さん血液内科の先生だもんな、心強いよ」 「詳しくは教えて貰ってないけどな。シュヒギムっての?」  そう言って珈琲を口にする湊を一瞥した律は、骨が抜けたように肩を落とした。 「……最初の診察で医者から、再検査受けるよう言われてたんだ。けど、あいつ行かなかったんだよ。金かかるからって……」  容器から悲鳴が聞こえてきそうなくらい、律はペットボトルを握り締めていた。 「村上、よくぶっ倒れてたもんな」 「貧血起こしてたんだ。風邪なんかじゃなく、病気のせい……だった……」  膝に置いたこぶしに雫が跳ね、次々と床へと滑り落ちていく。  側にいたのに気付いてやれなかった。  大丈夫だよ、そう言って笑う一楓に安心し、重い病気にかかっている想像もせず、呑気に過ごしていた自分を殴り飛ばしたい。 「一楓の親が残してくれた保険金とか……があるからそれで治療しようって、半田の親は言ったらしいんだ。でもあいつ、その金を全部……、い、妹のために……置いといて欲しいって、ど、土下座して半田さんに頼んだら……しいんだ……」  妹の幸せだけを願い、懇願する一楓の姿が切なすぎて悲しい。  両親の代わりに自分が妹を守るんだと言った一楓が健気すぎて、律の心臓を締め上げてくる。 「……お前はそんな風に泣くんだな」  ボソリと湊が何か言ったけれど、聞こえなかったし、聞き返すこともしなかった。  ただひたすら一楓を思い、泣き崩れる律に湊の声、いや、他の誰の声にも意識が向かない。 「治療って抗がん剤だろ。それさえすれば──」 「余命宣告……されたんだ」  湊の言葉を言下に遮ると、律は左右に口を引き結んだまま、ぼんやりとロビーを眺めた。 「余命……って」  虚ろな双眸を遠くに置いたまま、律は唇を開いた。 「若いから進行が早くて、薬を使っても……効果があるかどうか分からないって……。でも俺は諦めたくない。だってやってみなけりゃわからない。そうだろ!」  嗚咽と共に湊へ同意を求めるように叫んだ。そしてここが病院だとすぐ思い出し、律は周りの視線から逃げるように立ち上がった。  湊が吐き出した、「マジか……」の声を耳にしながら、闇に巣くむ死神を睨みつけるよう、律は病室の方を見上げた。  涙が勝手に溢れ出す。  一楓の前では絶対に流さないと誓った涙が、堰を切ったようように溢れてくる。  見兼ねた湊が立ち上がり、リュックからタオルを出して律の顔に押し付けてきた。  律は縋るようにタオルを掴むと、そのまま湊の肩に頭を乗せて寄りかかった。  湊の手が背中に触れ、労るように抱き寄せられる。 「汗臭い……」と呟くと、「うるせー。黙って泣いとけ」と頭を抱えられた。   律は友の腕に甘え、押しつぶされそうな悲しみを逃した。  些細なこの行為が、湊を更に苦しめることになるのも気付かずに。

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