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共犯者
人気のない廊下を警戒しながら歩きながら、湊は頭の中でマシンガンのように愚痴を打ちまくっていた。
家族の病気のことなんて、アイツらの病院に行って直接自分で聞けばいいのに。
医療の知識のない息子を、わざわざ夜の大学に呼び出すなんて、二度手間になるに決まっている。
パーカーだけの体を労りながら、「あー、さみぃー。この時期の夜舐めてたわ」と、廊下で叫んだ。
大声を出している方が、恐怖も紛れる。
ようやく目的の部屋にたどり着くと、「せんせー」と、ノックもせず、扉を開け入った。
薄暗い部屋の中を進みながら辺りを見渡すと、デスクライトが反射した窓硝子を目て、ギョッとした。
闇の中に見覚えのある輪郭が映っている。
体を反転させると、棚の陰に椅子ごと体を拘束されて目を閉じている律がいた。
「り……律、律、おい、しっかりしろっ」
律の肩を揺さぶったり頬を叩いてみたが、目を開く気配がない。
項垂れている頭を起こし、口元に耳を寄せてみる。
息をしていることにホッとしたが、縛られている異変にまた恐怖が込み上がる。
「と、とにかく解かなきゃ……」
訳がわからない状況のまま紐を解こうとしたとき、背後に人の気配を感じて振り返った。
湊のすぐ後ろには、涼しい顔で扉を塞ぐように立つ東郷がいた。
「やあ、湊君。約束の時間よりちょっと早いね」
「せ、先生……まさか律にこんなことしたの先生なのか……。律に何をしたっ、何の冗談──」
「冗談でも何でもない。それに繪野は眠ってるだけだ、今はね」
柔らかな口調に似合わない、狡猾な目で東郷が見据えてくる。
さっきまでは寒くて震えていたのに、別の意味で背中がひやりと粟立った。
「い、今はってどう言う事だよ!」
「それは君次第だよ、湊君」
「お、おれ次第? 何言ってんだっ。律は連れて帰るからなっ」
東郷を無視し、湊は再び縄を解こうとした。
すると、東郷が近づいて来たかと思ったらスッと頭を下げ、湊の胸に耳を当ててくる。
その行動の意味が分からず固まっていると、東郷が上目遣いで冷嘲してきた。
「心臓の音すごいね。繪野が縛られてるから興奮してるのかな」
「な、何をっ! お前、いい加減にし──」
東郷の胸ぐらを掴もうとした湊の頬に、冷たい金属が触れた。
「暴れると、かわいい顔が切れるよ」
ナイフを目の端で捉えると、「きよ、教育者のくせに、何してんだっ」と唾棄を撒き散らした。
東郷と接点はなくても、湊は彼を『いい先生』と認識していた。
それなのに、今、目の前にいる人間は生徒を縛り、ナイフで脅して笑っている。
普段の講師の顔とはまるっきりの別人だ。
「何って、君が死んでくれたら、繪野は解放するって話しだよ」
「はあ? だから何言って──」
「本気だよ。こんな事冗談でしてるとでも思うのか?」
ひやりとした声と、頬に触れている刃先の温度は現実のものだ。
それに加え、完璧な相好はゴミでも見るような目で湊を見てくる。そんな目で見られる理由が分からなくても、東郷の瞳に憎しみが籠っていることは伝わってきた。
デスクライトの僅かな明るさが東郷の双眸を歪に見せ、湊を慄然 とさせてくる。
情けないことに、体が竦んで動かない。
「ど、どうしてこんなこ……」
「どうしてこんなことって? そうか、理由を言わないのは不親切だったな」
背筋を|蠢動 させるような口調で、東郷が刃先を眠る律の首元へと移動させた。
「や、やめろ! 律に手を出すなっ」
「心配しなくてもこれは警告だ。君が死ねば繪野は無事。さっきもそう言っただろ」
湊は心の中で、くそっ、と悪態をついた。
自分が脅されようが傷付けられようがかまわない、いや、痛いのも苦しいのも本当は嫌だけれど、絶対に律だけは助ける。
そのためなら死んでもかまわないっ。
湊は震える足を踏ん張り、「話せよ、理由を」と、虚勢を張って言った。
「いいよ、話してやろう。僕の姉の話を」
「姉? あんたの姉さんが何で俺と関係があるんだ」
「正確にはいただけどね。姉さんだけがたったひとりの僕の家族だった」
「なんだ、お涙頂戴の話か」
「……確かに、後で君は涙するだろうね」
「はあ? 何で俺が泣くんだ。いい加減な話ししかしないなら、先に律を解放しろっ」
大声で凄んでみても、東郷は涼しい顔をしている。
自分が有利だと思って余裕ぶっているのか、とにかく神経を逆撫でしてくる顔だ。
「僕はね、看護師になった姉さんのお陰で大学まで通えたんだ。欲しい物も我慢している苦労人の彼女は朝から晩まで働き通しだった。でもそんな姉にもようやく幸せが訪れた、好きな人が出来たんだよ。よかった、これで姉さんも女として幸せになれる、そう思ったのに、相手は妻子ある人だった。男は奥さんと別れて、姉さんを選ぶと言ってくれたらしいけどね」
「最低だな。それって不倫だろーが」
湊が放った言葉が、東郷のこめかみを微かに反応させた。
「そう、不倫だ。相手は君の父親だけどね」
東郷の言葉を聞いた湊は、弾かれたように笑い出した。
「ハハハ、あり得ない。親父は女がいても母さんとは離婚しない。あいつは養子なんだ、病院を捨ててまで他の女は選ばない」
「随分と父親のことを分かってるね。大当たりだよ、院長は姉さんを捨てた。挙句、自殺するまでに追い込んだんだよ」
「そんな話はでたらめだっ、信用できない」
「君の意見なんてどうでもいい。姉さんは君の両親に殺されたようなもんだからね」
「両親? 母さんは関係ないだろっ。母さんこそ被害者だっ」
「君の母親は怖い人だよね。自分の旦那に付き纏ってると姉をストーカー呼ばわりし、職員の同情を買った上、警察にも訴えた。姉さんは同僚からずっと虐めを受けて……耐えられずに死を選んだんだ」
「う、嘘だ……母さんがそんなことっ」
「事実だ。病院ではその話で持ちきりだったらしい。君の母上の側近達は知ってて、嘘を撒き散らしたんだ」
東郷の言葉が、爪の間の肉片を針で刺すように、じわじわと責め立ててくる。
湊は幼い頃から両親と一緒に食事すらした記憶はない。だが、それでも湊にとっては大切な親だ。馬鹿げた話しなど鵜呑みに出来ない。
けれど否定する自分もいる。
気の小さい父なら簡単に妻に屈服する。
気の強い母なら相手を追い込むことなど、息を吐くようにやってのける。
「で、でたらめだっ!」
心とは裏腹な反論を唱えると、律の肌に刃先を押し付けて東郷が微笑んだ。その顔は、いつでも律の命を奪えると言っている。
「姉さんは、病院の近くにある歩道橋から身を投げたよ……」
姉の結末を語る東郷の顔は、湊を通り越して、憎い相手を凝視しているように見えた。
一人の人間を死に追いやった。
そんな残忍なことを、自分の親がしたとは思いたくもない。けれど、目を剥いて滔々と語る東郷の姿は、全てが真実だと言っているように見える。
「姉さんは死ぬ間際、止めて欲しくて君の父親を呼び出していた。結果は無惨なものだったけどね」
東郷は声を震わせ、一矢を報いる眼差しで湊を睥睨 している。恨みのこもる視線に耐えられず、湊は目を逸らしてしまった。
「姉さんは死ぬ前に僕へメールをくれた。君の父親に裏切られたと。死ぬことを許して欲しいと、誤字脱字だらけの無茶苦茶な文面だった。それを読んだ時の僕の気持ち、君に分かるか?」
項垂れていると、肩をキツく掴まれ、体を激しく揺さぶられた。打ちひしがれた心のまま、湊は東郷の怒りを受け止めらしかできない。
「姉さんが死のうが君らは困らない。けど、僕からたった一人の家族を奪った罪は償ってもらう。そこで、君の出番だ。大事な跡取りが死ねば、僕の苦しみを彼らは理解できるだろう。ほら、その机の上にあるペットボトルを飲んで。心配しなくても中身はただの向精神薬を溶かした水だ。鬱になりかけた姉の薬だ。君は繪野君との仲に悩んだ末、病院から盗んだ薬を飲んで首を吊る。完璧な筋書きだろ?」
律の首筋でナイフが光を放っている。
逆らえば、喉元を掻っ切ると言っているように。
湊はライトが反射して光るペットボトルに目を向けた。
死に至る液体を見つめながら、「用意がいいんだな……」と、上擦った声で強がった。
「今回は成功させないとね。前は此本って子に邪魔されたし。だからあの子も死ぬ羽目にな──」
「今、何て言った! 死ぬ羽目にって……ま、まさか、千歳を殺したのお前なのかっ!」
「僕だって殺したくなかったよ。なのに君から手を引かないなら、僕のことを警察に話すって言うんだ。宥めても言うこと聞いてくれないから、仕方なく、ね」
東郷が両手の平を上に向け、肩を竦めておどけたような仕草をして言う。
「……殺し……た。千歳……を……」
幼い頃からひとりで過ごす湊を弟のように見守り、側にいてくれたのは千歳だった。
それなのに自分の親のせいで、自分を助けようとして命を奪われていたなんて……。
鬱陶しげな顔をする東郷の胸ぐらを掴み、「てめぇっ!」と叫んだ瞬間、律の首筋に刃先が食い込んだ。
血が滲んで首筋を伝うのを目にした湊は、掴んでいた手を慌てて離した。
「あの子がくだらない正義感を振り翳して、湊に手を出すなって言ってくるからさ。自分は生方なんかとこっそり付き合ってたくせに。復讐なんて意味がないって言うもんだから、ほんと計算外だったよ」
東郷の手がナイフを握り直すと、刃先は律から湊の鼻先へ移動した。
「あの子みたいに暴れて僕の腕を引っ掻かれたら困るからね、だから今回は計画通り──」
「ほんとよ。だから手首を切る手間が増えちゃったのよ」
背中越しに聞こえてきた声に覚えがあり、湊は顔だけを動かして背後を確認した。
そこにはモデルのようにポーズを作り、笑顔で佇んでいる糸峰がいた。
「お前、なぜここへ来た。来る必要はないと言ったはずだ」
ナイフを湊に向けたまま、東郷が睨むように糸峰を凝視している。
「先生、そんなもの湊に向けないでよ。怖がってるじゃない。先生はきっと約束を破ると思ったから来たのよ。見に来てよかったわ」
糸峰がナイフを払い除けると、「私が守ってあげるね」と湊の肩を抱き寄せてくる。
蛇蝎が背中を這うような不気味さをそうぞうさせ、全身が戦慄した。
「また君は僕の邪魔するのか……」
溜息まじりに言った言葉を待っていたかのように、糸峰がスマホを取り出した。
「こ・れ。警察に送り付けてもいいの? 千歳を殺してくれたのには感謝してるけどさ」
突きつけられた画面を見た東郷が瞠目し、けれどその目は冷笑を形にしたように弧を描いた。
東郷の微笑みにも気付かず、糸峰が推しの写真でも見せるように、見て見てと、湊の前にスマホを突き出してくる。
鈍い灯りの中でぼんやり写っていたのは、箱の中に収まった黒ずんだ物体。
正体が何なのか分からず、画面を食い入るように見た瞬間、湊は目を背けると慌てて口を覆った。
「湊、大丈夫? 気持ち悪いよね、千歳の手首なんて」
糸峰の手が背中を撫でてくる。労りとは縁遠い悍ましさを感じて、湊は更に吐きそうになった。
「……約束を破ったのか」
「それは先生の方でしょ。繪野を殺さず、湊を殺そうとしてるんだもん。だから保険で捨てなかったのよ。千歳が先生の手を引っ掻いたのが証拠になるって、素人でもわかるし」
正論のように言う糸峰を、ぎりりと睨みつけている東郷が、突然肩を揺らして笑い出した。
「君を信じた僕が馬鹿だったよ。でも心配しなくてもいい。君の希望はちゃんと叶えてやる」
本当かなぁ、と糸峰が疑いの眼差しを向けている。
二人の異様な会話を聞きながら、湊は不快な抱擁の中で、ただただ律の顔を見つめていた。
律を巻き込んだのも、千歳が殺されたのも心無い自分の両親のせいだ。
だから自分は殺されても文句は言えない。
律だけは絶対に助ける。
湊は糸峰の陰に隠れるように体の位置をずらすと、尻のポケットに手を突っ込んで親指を動かした。
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