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囮(おとり)

「図書館から先生の部屋に変更したって、東雲が言ってたよな。ってか、夜の学校ってこんなに暗かったんだ」  廊下にできた自分の長い影にさえ背中を粟だたせ、律は身をすくめながら独り言で紛らわせて歩いていた。  節電なのか、キャンパス内は照明が所々にしか灯ってなく、仄暗い闇に落ちていくような感覚で足が竦みそうになる。  普段なら遅い時間でも、生徒や講師の姿を目にすることはよくあるけれど、テスト前のせいか、サークルや部活もなく、灯りが削ぎ落とされた空間は、見慣れた景色を怪しくさせていた。  首筋をぞわぞわさせながら、律は目的の場所へとたどり着いた。扉をノックしながら、「先生いますか」と声をかけたが、応答はない。ノブに手をかけてみると、鍵は空いていた。  部屋に入ると、デスクライトがぼんやりと灯り、珈琲の香りに鼻腔をくすぐられる。  「いい匂いだけど、暗い。電気くらい付けといてくれないと」  手探りでスイッチを探すと、馴染みのある形状を見つけ、指先に力を込めた瞬間、何かに触れた律は反射的にそこから指を退けた。  次の瞬間、部屋の中がパッと明るくなり、一瞬の羞明(しゅうめい)と人の気配を感じる。  気配に振り返って見ると、律は安堵しながら、「先生、びっくりさせんなよ」と、部屋の主の帰還に全身を弛緩させた。 「案外ビビりなんだな、繪野は。まあ座れよ」  勧められて律がパイプ椅子を引っ張り出して座ると、タイミングよくカップに注がれた珈琲を差し出された。  礼を言って受け取ると、香りに誘われひと口含む。冷えた体に沁みる温かさで身体がホッとする。 「美味いですね、この珈琲……ってか、先生カップに名前書くなよ。しかも『とうごう』ってひらがなで。幼稚園児かよ」 「ハハハ、親しみやすくていいだろ? ってのは建前で漢字書くのが面倒だった」 「確かに『郷』って字をペンで書くのメンドいな」 「だろ? マジックだと字が潰れちゃうんだよな」  軽い笑いが生まれた後、「先生、東雲たちはまだ?」と、疑問を口にした。  カップを唇の手前で一瞬止めた東郷が、一口含んでから「ああ」と言い、律の前に課題の束を置いてきた。 「これを仕切った繪野に朗報をと思ってね。チームで集まるのはまた別日でって言ったんだが、聞いてなかったのか、東雲に」  東郷の言葉に律は肩をすくめて、首を左右に振って見せた。 「あいつ言い忘れたのか。しょうがない奴だな」 「忙しかったんじゃね? 先生の部屋に変更したって電話も、なんか慌ててたし」  珈琲を一気に飲み干すと、律はカップを机に置き、「で、先生、朗報って?」と、催促した。さっきから瞼を少し重く感じていても、律は朗報の内容が気になった。 「繪野が前に言ってた企業のことだ。そこに僕の先輩がいるから、お前に紹介しようと思ってね」 「あーそう……なんですね。けど、俺、まだ、どこの説明会に行くか……決めてなく……て」  話し込んでいるうちに頭が朦朧としてきた。返事もまともにできたかどうか分からない。  思考もままならず頭を振って、律は東郷の言葉を必死でかき集めようとした。 「そうか。まあ、まだ時間あるしな。けど必要なら言ってくれよ、すぐ連絡とるからさ」 「あ……はい……ありが……とごじゃ……」  強烈な眠気に呂律がまわらない。それに東郷の声が妙に心地よく、とろとろと睡魔に誘われる。理性で叩き起こそうとしても瞼はずんっと重くなり、律は躯体を脱力させると、椅子の背に身を預けた。 「じゃお前の希望してる職種はどこ——」  言いかけた言葉を止め、律に目をやると瞼を痙攣させ、ゆっくり眠りに落ちて行く様子が窺えた。 「眠ったか……」  東郷は椅子に深く腰掛け、しばらくの間、寝息をたてる律を観察していた。  異常に大きく聞こえる秒針を聞きながら、東郷はじっとりとした手のひらの汗を感じていた。  普段は一分なんてすぐ経つのに、今夜は異様に長く感じる。  あと五分、四分、三分と、カウントダウンしていく。  時計に目を向けると、時間は八時半を回っていた。  もう熟睡しただろ……。  口腔内で呟きながら立ち上がると、意識をなくしたようにぐっすり眠る律の腕を背もたれの後ろ側に回わすと、結束バンドを両手首に纏めて巻き付ける。  胴体も椅子ごと紐で縛った。  寝息をたてる律を見下ろしながら、「悪いな、繪野」と囁くと、東郷はもう一度時計を見た。

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